〔4〕
「この前は邪魔が入ったからね。穢れは年内に払わないと。来年に持ち越して良い事はないからさ」 甘えるように、ミチコさんは浩美の足元に擦り寄ってきた。 「あぁ、寒い寒い。冷えるわねぇ、毎年ながら」 こそばゆい感触に浩美は足をミチコさんから遠ざける。彼女は不服そうにこちらを睨むと、「にゃ〜」と低く鳴いた。 「何よ。ケチね」 「こそばかっただけでしょ」 「まったく……猫に割ける心の余裕がないのよね」 ミチコさんはそう言うと、「ほら」と浩美に頭をさげた。 「撫ぜなさい。簡単なことでしょ?」 そう言われ、浩美は動きを止める。 ミチコさんを撫ぜる。ただそれだけで良い。 「……嫌」 しかし浩美の口からはそう一言漏れた。これにはミチコさんも驚いたようだ。はねる様に顔を上げた。 昨日、ミチコさんの頭を撫ぜなかったのは、父が呼んでいたからではない。撫ぜようと思えば、撫ぜることはできた。浩美自身の意思だったのだ。 ミチコさんはまるで浩美を責めるかのように言った。 「穢れをはらうのを何でためらうの?」 「これは穢れなんかじゃない。だから払う必要はない。そう思ってるだけ」 浩美は、嘘をついた。 時折、自分の意思に反するように出てくる独り言。 『死にたい』 ソレを心からそう望んでいるわけではないことはわかっている。望んでいるのであれば、とっくの昔に死んでいるだろう。わかっていても止まない思い。ずっと心に留まり続けているソレが自分の穢れだとすれば、ミチコさんを撫ぜることでその思いはなくなる。 それが酷く嫌だった。 「あんたねぇ……」 ミチコさんは軽く首を振った。人間なら呆れた表情をしていたことだろう。 「そんな嘘。つくのはやめなさい。 私は900年、生きてんのよ? 真実が見抜けないとでも思ってるの?」 浩美はミチコさんを見つめた。座っている浩美の靴に前足をかけ、ミチコさんは浩美の目をみつめる。 「あんたのような人間だって、たくさん見てきた。自分の穢れを穢れと認めない、そう言ってどうしても私に吸い取らせようとしない人間。 本当は穢れを知っているのに、それから逃れようともせず滅びを待ちたがる人間。 理由は一つよ。……不幸でいたいの」 寒い。とても心が寒い。 浩美は痛みを感じるかのように。切実にそう感じた。ミチコさんの言葉が、自分の心に穴をあけたように感じた。 ……違う。 浩美は自分の感覚を否定した。 心が寒いと思っていることは、ミチコさんが現れるよりも前からだ。心の穴は、ずっとあいていたのだ。 「浩美、早く中はいんなさい。風邪ひくわよ?」 庭にでる扉のところで、まだ病室に帰っていなかった母がそうこちらに呼びかけてきた。 ミチコさんがより深いため息をつく。そしてうって変わって明るい声で続けた。 「わかった。あたしを信じないで。あたしが穢れを払えるなんて嘘。あたしはただ言葉がしゃべれる変わった猫よ。 ほら、せっかくだから頭を撫でて? 珍しい猫なんだから」 穢れをなんとか吸い取ろうとしているのがわかる。それだけ自分のためにしてくれているのをわかりつつ、浩美はミチコさんを見下した。 「例え嘘でも、嫌。私がすることは私が決めるよ」 浩美は言い捨てて立ち上がる。すっかり体は冷えてしまっている。さっさと室内にもどらなければ…… 「卑怯者」 ミチコさんの言葉に、また逃げようとしていた浩美の足が止まった。 「楽なのよ。そりゃ自分が不幸だって思ってるのは、楽だわ。 でも卑怯よ」 「浩美? 誰かいるの?」 母が看護婦に車椅子を押されて近づいてきた。 ミチコさんはそれをみとめると、さっと近くの茂みの中に入り、いなくなってしまった。
12月31日
朝から忙しかった。 ほとんど暇がないこの一ヶ月、家の大掃除がほぼ手付かずで残っていた。父は仕事以外はめんどくさがりな人なので、人手に数えられない。弟と浩美が午前中一杯をかけて、なんとか拭き掃除は終わらせた。 そして店の手伝い。いつもなら営業時間は十一時半までだが、今日は十時半までだ。疲労万杯な体を酷使して、なんとか営業スマイルを浮かべる。 「浩美ちゃん、次つくねの紫蘇和えね」 「浩美ちゃん、こっちお水まだ〜?」 今日もいい感じに酔っ払った中年親父が、楽しそうに浩美に呼びかけてくる。 「なんで私ばっかなのよ。弟にも言ってよ〜」 「それはほら、やっぱお姉ちゃんに話聞いてもらうほうがいいから。なぁ?」 「そうそう」 上機嫌で頷く親父達は、浩美の不満を軽く受け流した。 今年最後の営業日。外はすっかり大晦日といった空気なのに、なんだか店の中はいつもと変わらないように感じた。 浩美が弟を見ると、ちゃっかり客の隣に座っていて、そのテーブルでは話が盛り上がっている。どうやらこれ以上手伝いをできそうにないぐらい、できあがっているのは見てとれた。 浩美は時々弟を睨みつつ、慌しく店中を動き回っていた。そしてほとんど注文も落ち着いたころ、 「お前ら、あんまり浩美ちゃんをいじめんじゃねぇよ。ほら浩美ちゃん、走り回って疲れたろ。そこに座って、俺らの話を聞いてくれよ」 そんな申し出が湧き上がった。浩美は父を見たが、やはり何も言わない。常連客の一人が店の隅に置いておいた、客が使うにはすこし汚れた椅子を一つ、浩美に渡した。 「じゃぁ、ちょっと座っちゃおうかな?」 浩美の言葉に再び座が盛り上がる。その中の言葉が浩美の耳にはいった。 「まるでお母さんみたいだねぇ」 「会えないのが残念だよな」 「寂しいなぁ」 シミジミといわれ、浩美は渡された椅子に座りかけていた腰をあげた。 そうか、これは母さんの席なんだ。 そう思うと、その席には座れなくなり、カウンターの席の一つにこしかけた。 そしてグダグダと繰り返す話にしばし付き合っていた。時折追加注文がおこると、浩美は父を見る。それほど広い店ではないので、父が一度頷いたのを見ると、注文が通ったことを知り、再び話に注意を向けた。 「ところで浩美ちゃんは彼氏はいないの?」 「そろそろ二十台も終わりだろ?」 「……余計なお世話。いたらここにはいませんよぉだ」 浩美はおせっかいな客の質問にも、苦笑しながらそう答えた。 騒がしかった。いつも以上に。 浩美はそんな中で、ずっとミチコさんの言葉がひっかかっていた。 「卑怯者」 ミチコさんがそう言うのなら、自分はそうなのだろう。卑怯でありたいとは思わない。だけど事実、自分は卑怯者になろうとしている。 生きたい、と思えない。だから自分は独り言がでる。 浩美はそう思っていた。自分の穢れを失くすのであれば、自分が生きたいと思わなくてはならない。ただミチコさんの頭を撫ぜるだけでは。とてもできそうにないことに思えた。 ただの未来への失望。それが思えない原因。 母にも父にも、居場所がある。例えそこにいなくても、そこはその人の場所だと周囲が思ってくれる場所が。自分にそんなところができるのだろうか? そして自分は未来の周囲の人間に受け入れられるのだろうか? 怖がっているのだ。ただ、それだけなのだろう。 それが卑怯者になる理由だとすれば、なんと馬鹿げたことだろうか。
そして今年最後のお客さんを見送り、さっさと店じまいをする。 のれんをはずしながら、浩美は辺りを見回した。 ミチコさん……今日はこなかったな、と思いながら。
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