〔3〕
猫はトットットッと軽い足取りで浩美に近づいてきた。 「あんた現実逃避しすぎよ。少しはありのままに現実を受け入れたら?」 浩美はその黒猫をジトォッと見下ろした。間違いなく自分に向けられている言葉。意思を持っているとしか考えられないその行動。そしてその猫の顔には表情まであるような気がしてきた。こちらを小バカにしているような表情が。 「……」 「きゃぁ、あんた何すんのよ」 浩美は目の前の黒猫に構わず、ほうきを動かしてやった。するともちろん、足元にいた黒猫は掃きたてられるわけで、 「ちょっと! 動物虐待反対っ。 そんなことして恥ずかしくないわけっ? あぁんもうそのほうきの毛、痛いんだって。やめてってば!」 との苦情をのたまうのが浩美の耳には聞こえた。 「人間失格! 悪逆非道っ。イタッ、小石が飛んだじゃない!! この冷血漢っ」 しばらく猫を目がけて掃き続けてみた。しかしあまりにも猫の声がうるさく、一向に聞こえなくなる気配はない。ついに浩美はほうきを止めた。 「はぁぁぁぁぁぁあ〜〜………ホントにホントなわけ?」 大きくため息をつき、ほうきの柄におでこを乗せた状態でうつむいたまま、浩美は不本意ながらも質問をした。この奇妙な黒猫に。 「どっかにマイクがついてるとか、精密な猫ロボットとか、そういうオチはないわけ?」 「あのねぇ。散々目の前でしゃべってやってんだから、いつまでも現実を疑うのはやめなさいよね」 ほうき攻撃を再び受けないように浩美から少し距離をとってから猫は言った。 「まったくあたしの自慢の毛並みがボサボサじゃないのさ」 ブツブツ言いながら、猫は前足を舐めた。毛づくろいを始めたようだ。 「だって普通信じないでしょ。猫がしゃべるはずが……」 「ミチコ、よ。教えたでしょ?」 少し目を細めてこちらを見てくる黒猫に、浩美はまた深くため息をついた。 傍目から見れば、浩美は猫に向かって独り言を言い続けているように見えるのではないだろうか。もし他の人間にこの猫の声が聞こえないのであれば。 「わかった。もう信じます。信じるからさ、ミチコ……さん。さっさといなくなってよ。 私、ここを掃除しなきゃいけないんだから」 「何? 今度は自暴自棄? 自分の思い通りにいかないもんだからっていじけちゃってまぁ。それがカワイイのは小さいうちだけよ?」 すこし下手に出たというのに、浩美の言葉にミチコさんはまったく従う気配がない。やはり少し距離はとったままだが、それでもまだすぐ近くで毛づくろいをし続けている。その悠々とした姿に浩美はイラついていても、ミチコさんは「あ〜あ、こんなとこにゴミがついちゃってんじゃないの」とまったく気にしない。 さすがに浩美が握っていたほうきの柄をミチコさんのほうに突き出して、チョイチョイとつついてみると、嫌そうな顔をしてミチコさんはようやく毛づくろいをやめた。 「何すんのよ」 「いや、ホントに猫なのかなぁ、と」 「猫以外に見えるんなら、あんた眼科に行ったほうがいいわよ」 憎まれ口からは、次から次へ浩美をバカにする言葉がでてくるようだ。 「ま、来年で御年900になるから、ただの猫じゃないのは確かだけどね」 「……は?」 唐突に猫としてはありえない年齢を告知され、浩美が口をポカンと開けていると、ミチコさんは、 「あんた、そんな顔しないほうがいいわよ、一応女の子なんだから。なんだか余計にアホに見えるわ」 と、問題発言がさっぱりなかったかのように言う。浩美はこの目の前の猫が、自分よりもはるかに年長者であるとはにわかに信じがたかった。 「ってことはミチコっ……ミチコさん、って化け猫?」 さん、を付け忘れそうになり、浩美はギロリ睨まれ慌てて付け足す。 「なんか嫌な呼び方だけど、ま、わかりやすく言えばそういうことね」 確かにミチコさんが何かの怨念の塊であっても、納得できそうな気がした。しかし浩美が若干ミチコさんから離れると、ミチコさんはそれを見咎めたようだ。 「……なんか勘違いしてるようだから言うけど、妖怪とかそういう類じゃないんだからね、あたしは。どっちかっていうと人間の感覚で言えば、神様ってほうが近いんじゃないかしら」 ……全然、説得力がない。 浩美はこんな神様嫌だな、と心から思いつつミチコさんの話に耳を傾けた。 「昨日会ったときも言ったでしょ? 私って結構忙しいのよ。年末は毎年、ね。なのにあんたに時間割いてやってんだから、ありがたがって欲しいもんよ、もうちょっと。 ほら、私の体の毛って黒いじゃない? これって穢れを吸ったからこうなってるのよ。年の初めは真っ白で、一年をかけて真っ黒になるの。最近は穢れも多くなって困るったらありゃしない。一生懸命まわっても、なかなか穢れを吸いきることができないんだから」 なんだか何を言っているのかよくわからない。「へぇ〜」といいながら、話の途中から浩美は掃除を再開していた。枯葉が結構隅っこのほうに溜まっていたりする。ほうきで掻き出すように浩美が掃いていると、ミチコさんは不服そうに鳴いた。 「あんたねぇ、すこしは猫の話を真面目に聞いたらどう?」 「猫の話を真面目に聞くような人間になりたいとは思わないよ」 雨水のせいか地面に張り付いている葉っぱが二、三枚ある。それをなんとかはがそうとほうきで掃き続けていると、視界に再び黒いものがはいった。 掃除の邪魔をするつもりか、ミチコさんはほうきのすぐ横に座った。そのまま掃いたら掃いたでまたうるさいので、そこから退くように言おうと浩美が口を開けると、その前にミチコさんが声を発した。 「あたしはねぇ、あんたのためにわざわざここにきてんだから、話ぐらい聞いたっていいじゃない」 「……私のため?」 「そうよ」 浩美がきちんと話を聞いているのに満足したのか、ミチコさんは少し胸を張った。 「さっきも言ったけど、私は穢れを吸い取るのよ。それが役目なの」 「穢れって、何?」 「穢れってのは、まぁ都合の良くないモノってことよ。日本人は昔から穢れに敏感だったんだけどねぇ。もう今の子は穢れ自体を知らないのね」 すこし寂しげに髭を揺らしながらミチコは言った。 「あたしが神様に近いっていったのは、そういったものを吸い取って年が変わる瞬間に浄化させる能力があるからなのよ。 そしてあたしは毎年、穢れを吸い取っては浄化し続けてる。穢れっていうのは目に見えなくて気付けない、汚れのようなものだけど確かに存在してる。浄化せずにい続ければ、例えそれがモノだろうと人だろうと猫だろうといつか絶対壊れてしまうのよ。 だからあたしが浄化して廻っているってわけ」 「それで……今回は私の穢れを浄化しにきたっていいたいわけ?」 「そうよ」 「私に穢れなんて」 「言ったでしょ? 穢れは目にも見えなくて気付けないって。 間違いなくあんたには穢れがある」 それがどこからくるのかわからないが、ミチコさんははっきりとした自信をもっているようだった。 「さすがにあたしだけじゃね。毎年やってるとはいえ、穢れを全て浄化しきるのは無理なのよ。だから今まで浄化してこれなかった、あなたの穢れがあなたの中には溜まってきてしまっている。 そろそろ浄化しないと、まずいほどにね。わかるでしょ?」 ミチコさんはそう言って、浩美に二歩近づいた。 誰にも聞かれたくない独り言。 浩美は問いかけに答えを思い当たり、渋い顔をした。 そうだ。誰にも聞かれたくなかったのに、ミチコさんには聞かれていたのだ。 「あたしの頭を撫ぜて。それだけでいい。それだけであんたの穢れをあたしは吸い取ることができるから」 ゆっくりその場に腰を下ろすと、ミチコさんは目を閉じた。撫ぜられるのを待っているその体勢に、浩美はもっていたほうきを軽く握りなおす。 そのとき店の中から父の声がした。 「早く」 ミチコさんが急かした。いつまで外にいる、早くはいってこい、父の声が店の中からする。 浩美は彼女の頭を撫ぜるために、しゃがもうとはしなかった。しばらく彼女を見下ろした後、何も言わずに店に入った。 また浩美は、ミチコさんから逃げてしまった。
12月30日
浩美は病院にいた。 「はぁ、息が白いわねぇ」 「そりゃ、明日はもう大晦日だもん。寒くもなるわよ。 ちゃんと上着着ててよ。寒くない?」 面会時間に会った母は、外に出たいと駄々をこねた。彼女にしてみればほぼ一ヶ月、この病院に閉じ込められているようなものなのだ。強い希望に浩美も担当医にかけあい、十分程度、病院の庭を散歩する許可はでた。病院は精密検査やら何やらで、息がつまる。早く退院したいとも言っていたが、さすがにそのわがままは叶えられなかった。このまま問題がなければ、退院は年明けを待ってからになるそうだ。 一ヶ月、外の空気と触れ合っていなかったので、母は突然寒くなったように感じたようだ。息が白くなる、ただそれだけのことを嬉しそうにしていた。 「もう年が変わるのねぇ……」 しみじみと言う母は、何かを考えているようだ。浩美は慣れないながらも慎重に、母の乗った車椅子を押して歩いた。 幸いに一命を取り留めたとはいえ、母には後遺症として左半身の麻痺が残った。しかし意識がはっきりしているだけでもありがたい。最近はリハビリと検査の繰り返しらしい。一日に一回、できるだけ浩美は世話をしにきているが、その度に愚痴を聞かされている。 ゆっくりと庭をまわった。さすがに寒いので、他の人はいない。それほど広い場所ではないけれど、人工池の周囲を一周しただけで、看護婦が近づいてきて時間をつげた。 「あら、もう?」 母はとても残念そうだった。十分はあっという間だった。看護婦は浩美から車椅子の操作ハンドルを受け取る。 「先に病室戻ってて、携帯ちょっといじってから行くから」 浩美は母にそう声をかけると、池の淵に腰掛け、ポケットから携帯を取り出した。メールの着信が三通。広告メールが二通と、もう一通はバイト仲間からだった。 返信を打とうとして、浩美はなんと打つかを考えるため携帯から顔をあげると、そこにいた。 「こんなとこにまで入り込んでくる?」 「必要だからね」 ミチコさんは当たり前のように答えた。
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