〔2〕
浩美は再び猫を見た。さっきと変わらない格好で、こちらを見ている。 「なんだい? さっきあんたが言ってたことじゃないか?」 間違いない。この猫がしゃべっている。 思わず後ずさり、浩美は店の壁に背中をぶつけた。 「お、お前……」 「まったく失礼ね。初対面なのにお前、だなんて」 気分を害したように、猫はピンと垂直に尻尾を立てた。 「あたしはミチコよ。ま、気軽にミチコさんって呼んで」 声だけ聞けば、四十台の話好きなおばさんのような印象を受ける。だが現実にこの声を発しているのは、全身黒い毛に覆われたネコ科の動物であって、人間などの霊長類ではけしてありえない。 浩美は額に手を当てた。熱はない、ようだ。今年の風邪は高熱がでるという症状ではなく、幻覚を見るという症状だっただろうか? そう考え、浩美は納得した。 「あぁ、そっか、最近働き続けで忙しかったから……そっか、そうよね。疲れてるんだ。間違いない」 「ちょっとあんた」 「大体にして今日は父さんも無理言うのよね。バイトだって入ってるのに、あがって大急ぎで帰ってこないと開店時間にも間に合わないってのに、準備まで手伝えって言うんだから。幻覚見るほど忙しくて疲れてるんだから、すこしぐらい労わってもらわないと」 「あのねぇ」 「母さんの看病はこの一ヶ月間ほぼ私がやってんだから、そこらへんの考慮ってもんが欲しいとこなのよね。ただでさえ十二月って何かと忙し」 「いい加減にしなっっ!!!」 浩美がその怒鳴り声に額にあてていた手をはずすと、黒猫が毛を逆立ててこちらを睨んでいた。 「いつまで現実逃避してんだっこのスットコドッコイ!! 何が忙しい忙しいだ。こっちだってねぇ暇してるってわけじゃないんだよっ」 ス、スットコドッコイって…… 浩美が呆然としていると、猫は軽やかに壁から飛び降り、地面に着地してみせた。明らかにそれは猫の動き。しかし言ってくることは間違いなく人間らしかった。 「最近の若い子はヤダよ、まったく。話ってもん全然聞きゃぁしない。 昔は驚きはしても、頭っから認めないってのはなかったよ? 現実を受け止める器がなくなったのかねぇ。まったくヤなもんだ」 一応、愚痴を言い切ってスッキリしたのか、浩美の足元で猫はクィッと首を曲げ浩美を見上げた。 「で、話は戻るけど、あんた死にたいの?」 自分の目線よりもかなり低い位置から見上げられているのにも関わらず、浩美はその目に強い力を感じ言葉につまった。嘘を言うな。そんな脅迫にも似た力を、その真っ直ぐな瞳からうけた。 「……っ」 「あ、ちょっと!」 浩美は回答を避け、そして猫の視線を避けるように、無理矢理店の扉に逃げ込んだ。
古来日本では、年が明ける瞬間というものは、前年の穢れや厄が綺麗になくなり、そしてまっさらな新しい年が始まると考えられていた。大掃除などもその名残であり、人は年の終わりが近づくごとに汚れたものに敏感になる。 すっかり日も落ち、辺りは外灯の明かりが照らしている。その中を小さな足音が走っていった。 「あら、クロ。今年も来たのね」 「あ、クロだぁ!」 「にゃぁ」 その黒猫はこの時期になると、毎年のように様々な家を訪ね、そしてその家の者に頭を撫ぜられる。気持ち良さそうに目を細め、その手の感触を楽しんでいるかのようだ。 「はい、クロ。少し早いお年玉よ」 煮出した後の煮干のプレゼントをもらい、黒猫はすこし匂いを嗅いでからそれをくわえる。そして満足そうにしばし咀嚼を繰り返す。 「あっ」 それをまだ撫ぜようとしていた子供が声をあげた。 黒猫は身軽く手を避け、そして再び闇に消えていった。
12月29日
浩美は自転車を押しながら欠伸をかみ殺した。皆が大きな荷物を持って、道を行き交う。ぼーっとしていては、ぶつかってしまいそうだった。まだ昼間だが年末セールのせいで人通りが多い。自転車のハンドルを浩美は心持ち強く握った。 自分の家でもある店が見え、ふぅーっとため息をつく。途端に横から声をかけられた。 「あらヒロちゃん、こんにちは」 見ると近所のおばさんだ。子供のころはお菓子をもらうなどして、いろいろお世話になったが、最近は顔を見ても挨拶するだけの間柄だった。 「こんにちは。寒いですね」 「そうね。でもこれからまだまだ寒くなるわよ」 そう言っておばさんは浩美の横を歩く。 「ところでお母さんの調子どう?」 おそらくはそれが聞きたかったのだろう。母が倒れたことはもう近所中が知っている。浩美はおばさんとの間にある自転車がぶつからないように注意しながら苦笑した。 「すぐにでも退院したがってます。とても病人にはみえませんよ」 今浩美は母が入院している病院からの帰りだった。さきほど話してきた母の姿を思い出しながら答えると、おばさんも苦笑した。 「まぁ、でもね。気は若いままだとしても、体は嫌でも年をとるんだから、お大事にって伝えておいてね」 「はい」 店の前でおばさんは「お父さんにもよろしく」と言って、再び来た道を戻っていった。彼女は近所でも有名な話好きのおばさんだ。まだまだ話し相手を探しにいったに違いない。 浩美はその後姿を見送りながら、店の脇の塀とのわずかな隙間に自転車を止める。どんな形であれ、心配してもらえるのは有難い事だ。そう思いつつ、店に入った。 「ただいまぁ」 「……母さんはどうだった?」 「元気だったよ」 おかえりの一言すらない、いつもどおりの無愛想さに浩美は父の顔すら見ずそう答えた。そしてテーブルの上に持っていた荷物を置く。ガチャガチャ音をたてていた、ビニール袋の中の何本もの瓶がようやく鳴らなくなった。 「重かったぁ。頼まれてたのってこれでよかったのよね?」 「あぁ。……あとでカウンターの中にいれておけ」 病院に行くついでに、帰りに酒屋に寄れと父に言われ、指示通りに行くとこの重たい荷物を浩美は店員から渡された。自転車の籠にいれると割れそうなので、手にもったまま酒屋から自転車を押してきたのだ。浩美は手近な椅子を引き寄せ、疲れた体を休めさせることにした。 それをちらりと見て何も言わずに料理の下準備に戻る父。そこでふと浩美は気付く。帰ってきて「おかえり」といつも言っていたのは母だった。父は何も言わなかった。 それでも、と浩美は思う。浩美が病院に行って、帰ってくると必ず父はカウンターの中にいる。心配であるのはあるのだろう。 不器用な人だ。我が父ながらそう思う。 「……なんだ?」 じーっと見ていたので気になったのか、珍しく父から話しかけてきた。 「ううん。なんでもない」 そう言って立ち上がると、父は言った。 「コートを脱ぐ前に店の前を掃いてこい」 ……はいはい。 もう返事もせず、心の中でだけでそう言うと、浩美はほうきとちりとりを持ち、再び外に出る。引き戸の扉を閉めると、曇りガラスの入った格子からは、うっすらとカウンター内にいる父のシルエットが見えるだけだった。 店の前、と言ってもそう広いわけではない。店の位置的には、人通りの多い道をすこし横に入ったところなので、前を通る人もそれほどいない。 だからすぐに目に入った。 「……昨日の?」 黒猫だった。昨日と同じ、いや、若干昨日より黒く見える。違う猫とは言い切れなかった。同じ猫だとすれば、ただ単に今日はまだ周囲が明るいから、より黒く見えるだけなのかもしれない。 浩美は思わず顔をしかめた。ソレは道のど真ん中に堂々と座ってこちらを見ている。さっき自転車を押して帰ってきたときは確かにいなかったのに。 一瞬動きが止まってしまったが、浩美は気持ちを切り替えると、ほうきで地面を掃き始めた。 昨日のはきっと幻聴だ。疲れていたのだから仕方がない。だから昨日はできるだけ早く寝たし、もう大丈夫―― 「お母さん。元気で良かったわね」 ――じゃなかった。 浩美は思わず頭に手をやった。 間違いなく、昨日と同じ声。そして間違いなくしゃべっているのは…… 「何よ。あんたまだ信じてなかったわけ?」 目の前の黒猫だった。
|
|