〔1〕
12月28日
なんだか心が寒かった。 「はいありがとね、じゃあ良いお年を」 バイト上がりに店長が言った。愛想よく笑って頭を下げながらも、いつもの言葉にすこし付け足されたものに、すこし頬がひくついたのがわかった。 もう年が変わるのか…… バイトのシフトは今日で終わり。二十八日。年の瀬も年の瀬。めずらしく今年は年末年始にバイトを入れなかった。彼氏がいないのはいつものこと。本当なら皆が休むこの時期こそ、休むことを忘れたかのように働きたかった。 母さえ倒れなければ。 浩美は制服をロッカーにかけながらため息をついた。
浩美の両親は居酒屋を個人で経営している。昔馴染みの客が多く、父は料理を、母は接客を担当して、浩美が生まれる二十六年前よりも前からなんとか細々と続いている。老舗といってもいいだろう。特に年末年始は忘年・新年会帰りに店に寄ってくれる客が多い。二次三次会としてゆったり飲むのにいい店なのだと、ほろ酔い気分の客にいつか聞いたことがあった。 父は接客らしい接客はしない人で、黙々と料理を作り続ける。母は注文取りが終わると、静かに店の端でニコニコ笑って客の話を聞いている。いつもまるで親戚が押しかけてきた宴会のようである。浩美から見た店の印象はそういうものだった。 そして父母ともに、店の手伝いをすることは子供の当然の義務という考えの持ち主で、店の手伝いをしても一銭の稼ぎもでない。だから浩美も下の弟もよっぽどのことがない限り、店の手伝いをしなかった。 しかし今年はそうもいかない。 母が倒れたというのは十二月初めの店じまい直後。父が調理場を片付け終わって先に居住空間である二階に上がった後、最後の戸締りを確認しに母が一人だけ店に残っていた。倒れた母を見つけたのは、いつまで経っても二階にあがってこない母を見に下りた弟。 「お袋っ!?」 夜の十二時を過ぎたころに出す声にしては大きかった。父と浩美が共に下りていくと、うつぶせに寝ている母を必死にゆすっている弟がいた。 救急車、病院、薄暗い廊下、手術中の赤いランプ。 その後のことで、浩美が覚えているのはそれだけだ。個室である病室の窓が明るくなるまで、昏々と眠り続ける母の手を握っていた。父も弟も、ずっと一緒にいたらしい。 医者が言うには、母はくも膜下出血を発症したのだという。加齢、そしてこの冬の寒さにより血圧が急上昇したために、脳動脈瘤が破裂。脳にあるくも膜という膜の下で出血したために、意識を失い倒れたのだろう。幸い発見が早かったため、後は目覚めさえすれば問題ないが、少なくとも一ヶ月は入院、後遺症が残る可能性もある、と。 その日、父は一日病院にいた。弟は時間になると専門学校に行き、浩美は家に戻って母の着替えなどをとり、そして店の扉に貼り紙を貼っておいた。 『急病のため、しばらく休業いたします』 だがその次の日。母は意識を取り戻し、とりあえずの安心とともに病院から帰ってきた父が始めにしたことは、その貼り紙を捨てることだった。 「なんだこれは?」 「当たり前でしょ? 母さんが倒れたんだから。とりあえず一月ぐらいは休みをとらないと。母さんの入院中の世話もあるし」 機嫌が悪そうに言う父に浩美は呆れたように答えた。しかし、 「何バカを言ってる。店は開く。お前たちが手伝え」 高らかに宣言した父は、病院で肩を落とし母に付き添っていた姿とは正反対の堂々とした姿で指示し始めた。昼間、専門学校に行っている弟は、夜の店の接客、閉店の片付けを手伝うこと。バイトをしている浩美は、時間のあるときに母の病院に行き、また店では開店の準備、接客を手伝うこと。 突然のことでもあるし、父もさすがに無理を言っているのは承知だったのだろう。ただし今回は特別に時給を支払うとも言った。 正直、嫌だった。聞きはしなかったが、きっと弟も同じだろう。 しかし二人とも、あの病院のベッドで寝ている母を見ている。手術後の夜、いつまで経っても起きないんじゃないかという三人の不安の中で、静かに眠り続けるあまりにも小さな母を。 だから二人共、断りはしなかった。
「遅い。さっさと着替えて下りて来い」 自転車をこぎ、バイト先から帰ってきた浩美を迎えたのは、無愛想な父の言葉だった。 開店は十七時。腕時計は短針が四、長針が六を指している。 浩美はもう何も言わずに二階に上がると、コートを脱いで荷物を置き、手早く髪の毛を梳くと、店用であるチェックのエプロンと三角巾を身につけてすぐに下へ急いだ。 父はカウンターの中の調理場にいた。店内を見回すと、四つあるテーブルの椅子は全て下ろしてある。カウンターの席の醤油や爪楊枝の位置も、ちゃんとした場所においてあった。 今日は弟がいない。学校仲間とどうしてもはずせない約束があるのだと言っていた。おそらく忘年会だろう。だから父は今日一人で開店準備を済ませたことになる。 「あと何すればいい?」 「後ろのゴミをだしとけ」 それでもさすがに長年店をやっているだけはあるのか、父は一通りの開店準備が済ませていたようだ。浩美がテーブルにふきんをかけながら、後はのれんを出すだけだなと思いつつ聞くと、父は野菜を刻む手から顔すら上げずにそう言った。 調理場の隅にまとめてあるビニールにはいった生ゴミ。店の中においておくと匂いが気になるものもあるので、店の裏手の扉のすぐ横に置いてあるポリバケツに、こまめに入れておかなくてはいけない。 浩美は両手にそのビニールを持つと、店の奥に行き、外へ繋がる扉をあけた。 「さむ……」 思わず身を縮める。ついさっき、この外を自転車で走っていたはずなのに、あっという間に体は店の暖房に慣れていたようだ。憎い北風が丁度浩美の側を通り過ぎていった。 辺りはもう薄暗くなり始めていた。あまりの日の落ちる速さに、最近は驚くこともなくなったが、寒い上に暗いとなんとなく気分が沈むものだ。 浩美は一旦袋を地面に置いて青いポリバケツのフタを開けながら、なんと慌しい一ヶ月だっただろう、と思った。 母が倒れてからというもの、毎日のように店の手伝いをしている。バイトのシフトは一ヶ月ごとに決めるので、もう十二月中のシフトは決まっていた。それを無理矢理、年末はあけてもらったが、他の日はさすがにバイト先も飲食店なので稼ぎ時である。シフトどおり入ってもらわないと困ると言われ、本当なら店の手伝いだけにしたかったのだが、体にムチを打ってかけもっていたのだ。 五、六個まとめてもってきたビニール袋を次々とポリバケツの中に入れながら、浩美はつぶやいた。 「死にたいなぁ」 言ってから浩美は自分の言葉に驚いたように、素早く周囲を見回した。 昔から、一人になるとよく出る独り言。特に何かを考えて言っているわけでなく、本当に勝手に口から出てしまうのだ。特に忙しい最中のちょっとしたぼーっとしている時間とかには。最近はすこし頻度が多くなったような気がする。さすがに聞かれては問題がありそうな言葉であるので、浩美は人がいるところでは、自分の口をできる限り意識的に閉ざすようにしていた。 誰も周囲におらず、誰にも聞かれていなかった確認し、浩美は安心したように再び、袋をポリバケツに入れだす。すると、 「にゃぁ」 突然だったのでビックリした。浩美は持っていた袋を落としそうになり、慌てて持ち直すと声の主のほうを見た。 「お前? ……驚かさないでよ」 向かいの家のコンクリートの壁の上に、真っ黒な猫がいた。もう少し暗くなれば完全に闇に溶けてしまいそうなほどの黒。目は光るような黄色で浩美を見ていた。 「何よ。ただの独り言よ。さっさと行きなさい」 猫とはいえ、人には聞かれないようにしていた独り言を聞かれ、浩美は多少心が泡立った。だが猫はまるで何かを問うかのように、こちらを見てくるのを止めない。 ムキになって猫を追い払うのはさすがに大人気ない。浩美は諦め、長いため息をつきながらポリバケツのフタを閉めようとした。 「あんた、死にたいの?」 聞いたことのない女の声が、浩美のその手を止めた。
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