私は自分を強い人間だと感じる。どんなにつらい事があっても人前で泣くようなことはしないし、弱音も吐かない。 私には向上心がある。できない事なんて何もない。それが私の生き方。 時々そんな私を面白く思っていない人達からくだらない事を言われる。 彼女たちが言う台詞は大抵いつも同じ。「あんた生意気よ」「ちょっと頭いいからって偉ぶってんじゃないわよ」。 どっちがよ。偉そうなのはそっちじゃない。
この日も廊下の隅で罵声を浴びていた。私はどうでもいいから放っておいた。そもそも何の理由があってこんな事言われているのか判らない。 私は別に頭が良いわけじゃない。努力しているだけよ。 幼い頃の私は弱虫だった。何かあるとすぐ泣いて、クラス中から馬鹿にされていた。 そんな自分が嫌いだった。不注意で枯らしてしまった朝顔を眺めながら涙を堪えた。私は変わりたかった。 それから私はその為にたくさんの努力をしてきた。少しずつ、私は変わっていった。 そして今ではあの頃とは比べものにならないくらい、強くなった。 それなのにいつもこう。いい加減飽きないのかしら。 何の努力もしようとしないくせに人より優位に立とうとする、こんな人達相手にするのもうんざりだわ。 「おい、お前ら何してんだ。」 誰かが呼んだのかしら、振り向くと先生がいた。バカな人達は何も言わずに走り去っていった。 先生は私を心配して声を掛けたけど、私は別に平気だと、いつものことだから、慣れてると、そう言った。 そうよ、別に助けてもらわなくても、平気よ。
一日の中で学校から帰るときが一番好き。風を浴びながら銀色の自転車を走らせると、その日のもやもやがすべて流れ去っていく気がする。 今日はカラッとした秋晴れ。こういう日は特に気持ちいい。 嫌なことをすべて忘れて坂を下る。力を込めなくても車輪は勝手にコンクリートを滑っていく。この瞬間がたまらなく好き。きっと私はこの瞬間のために生きてる。 そして今日みたいに晴れた日はもうひとつ特別なことがある。私はそれに向かって自転車のスピードを上げていく。 この坂を下って右に曲がれば、日に反射して光り輝く、きれいな川が見えるのよ。
私は茫然としたままゆっくりと自転車を降りた。 私の手からはなれた銀の自転車は、カシャンという音を立てて力なく地面に倒れていった。 土煙が舞う。 この場所には水がない。光り輝く川はない。 ここはどこ? この言葉のあとには「私は誰?」という言葉がでてきても良さそうなものだけど、残念ながら自分のことはよくわかる。 そんなこと今はどうでもいい。とりあえずここが何なのか確かめなくてはいけない。 そんな私の心を読んだかのように、だんだん土煙が晴れてきた。
目の前に現れたのは古ぼけて腐りかけた木製の門だった。その向こうには同じように古ぼけた村があった。 こんな状況、普通なら気味が悪いに決まってる。それなのに私は何の躊躇もせず、目の前の門をくぐることができた。
この村に人が住んでいるかどうか疑問だったけど、その心配はいらなかった。 私が村に入ると、すぐに何軒かの家の戸が開いて人が出てきた。 他所者は出て行けとか言われるんじゃないかと、私は内心ビクビクしていた。だけど、彼らは何も言わずに去っていった。まるで私なんか、いなかったみたいに。 この村は思った以上に小さい村だった。家の数は十軒ほど。畑や農園らしきものさえ見当たらず、村の周りには荒野が広がるばかりだった。 ここに人が存在していること自体おかしかった。 でも水はあるみたいね。どこから引いているのか、村の真ん中に井戸がある。 …それから、彼らはみんな泣いていた。
目の悪い人がメガネかコンタクトをするように、何の違和感もなく彼らの涙はそこにあった。 私にはどうして彼らが泣いているのかわからない、無理に知ろうとも思わない。 彼らは泣いてはいたけど悲しそうには見えなかった。彼らはただ無表情のまま涙を流し続けていた。 まるで人形みたいね。 なんとなく彼らに話しかけても、返事が返ってくる気がしない。どうしようかしら。 「コーヒー飲む?」 無邪気な声に振り向くと、白いワンピースの女の子が涙にぬれた無表情な目を向けていた。 どことなく誰かに似ている気がした。それが誰かは、わからないけど。
私はすぐ泣く人間が嫌いだった。軽蔑さえしていた。 でも今向かい合って一緒にコーヒーを飲んでいる少女の涙を見ても、コーヒーを淹れてくれた彼女の母親らしき人の涙を見ても、何も思えないでいた。どうしてかしら。 「あなたのお母さん、きれいね。」 コーヒーポットを持って去っていく後ろ姿を見ながら私はそう呟いていた。本心だった。 「〈お母さん〉て何?」 だけど少女は無邪気な声で聞き返してきた。 ・・・え? 「あの女の人、あなたのお母さんじゃないの?」 「私にはお母さんとかいないよ。家族とかいないの。私だけじゃないの、みんないないの。ただ一緒に住んでるだけなの。」
私は二人にお礼を言って家をでた。聞きたいことなら山ほどあったのに、もう何も聞く気になれなかった。
それは不思議な感覚だった。あの女の子の目を見ていると、何もかも見透かされてしまうような気がした。 その時私が感じていたのは、不安感でもあったし安心感でもあった。私はそんな自分に、戸惑っていた。 頭が混乱しそう、もう帰りたいわ。
私は井戸に寄り掛かって通りを眺めていた。 私は途方に暮れていた。 道を行く人々は相変わらずの無表情で涙を流している。 「人形」という言葉が私の中で何度も浮かんでは消えた。
突然、私の前を通り過ぎようとしていた男の子が、私を見て足をとめた。 「これあげる。」 彼はポケットからチョコレートを出した。 「ありがと。」 受け取るときに私は軽く微笑ってみせた。そういえば無表情なのは私も同じだったわね。 ・・・・・・。 「笑い方、教えてあげようか?」 気がつくと私はそう言っていた。男の子は無反応だったけど、かまわず続けた。 「うれしいこととか、楽しいことってない?そういう時は、笑うのよ。こんなふうに、口元やほっぺを上げて。」 笑って。 「笑っている方が、幸せな気分になれるのよ。」 笑って。 「泣いてたら、強くなれないのよ。」 私が何を言ったって、無駄なことはわかってたのに、僅かでもこの子の表情を変えたいと、思ってしまった。 目の前の少年は表情のない顔を私に向けている。私は今までにない無力感を感じていた。
ふいに私の視界に白い布が飛び込んできて消えていった。 …待って! 私は必死でそれを追った。 さっき私はあの男の子に笑ってほしいと思った。でもそれはきっと、この子を笑顔にできたら、あの女の子も笑ってくれると思ったから。 どうしてかはわからないけど、私は無性に、あなたに笑ってほしかったのよ。
白い少女は村の外れに立っていた。 「教えて。」 私は息を切らしながら必死で声を出した。 「なんで、泣いてるの?」 少女はゆっくりと振り向いた。 「泣いてなきゃいけないの。あなたが泣かなくなったから。」 その手には、枯れ落ちた朝顔があった。
私は再びあの腐りかけた門の前に立っている。その奥には倒れて土をかぶっている自転車が見える。 「ごめんね、もういいから。」 そう呟いて私は門をくぐる。そして自転車を起こしてそのまま振り返らずに荒野に向かって走り出す。 私は今まで泣くことなんてくだらないと思ってた。あの村の人達を奇妙だと思った。でも本当は、あんな風に自然に泣けることが羨ましかった。私の目は、この荒野のように渇いていたのね。
私はいつものようにコンクリートの地面に自転車を走らせていた。 雨が降り始め、私の手と自転車の土を洗い流していく。 バランスを保ちながらチョコレートを口にいれる。やさしい甘さが口いっぱいに広がった。 あの人たちは、笑っているかしら。 銀の色を取り戻した自転車は、どんどんスピードを上げていく。この坂を流れる水のように、頬をつたう雨のように速く。 そして坂を下って右に曲がれば、雨に濁って光り輝く、きれいな川が見えるのよ。
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