燃えていく劇場の中でひとりの老女が倒れている。彼女は舞台のピアノに寄り掛かり、昔の記憶を思い起こしていた。
古ぼけた教会の前を二人の女生徒が通り過ぎる。 「ねぇ里美(さとみ)。知ってる?この教会出るんだって。」 「何が?」 「幽霊よ。この教会のピアノ、誰もいないのに鳴り出したりするんだって。」 それはどこにでもありそうな噂話だった。
一週間ほどしたある日、里美は再びその教会の前を通りかかる。その時には友人からされた話など忘れていた。 だが…聞こえた。里美の耳にはっきりと、ピアノの旋律(せんりつ)が。 教会に明かりはついていない。だが覗きこんで誰かいるのか確かめる勇気はない。 里美は困り果てたが逃げようともしなかった。ただそのピアノを聴いて、「きれい」とだけつぶやいた。 何故か、里美がそうつぶやいた瞬間ピアノの音は止み、代わりにどこかで犬が吠える声が聞こえた。 里美はそこで初めて怖くなり家路へと駆けた。
確かめよう。里美は密かに決意していた。 昨日、本当にあの教会に誰もいなかったのか、確かめなければ。 里美は友人の家に行くと嘘をいって家を出た。 教会に着くと里美はしまったと思った。その日は日曜日でミサだった。すでに教会の門は閉じられている。里美は待つことにして教会の壁に寄り掛かった。中から美しい聖歌が聞こえる。その歌の心地よさに自分も中に入ればよかったと後悔したその直後、 人の倒れる音がした。何人も何人も。 そして歌が止まる。 里美はいやな予感がして教会の門を勢いよく開ける。 里美が中に入ると明かりが消え扉がしまり演奏が始まった。 大勢の人間が倒れているその中で、里美ひとり立ったまま、奥にあるピアノを眺めていた。 誰もいないピアノの鍵(けん)が緩やかに動いている。やがてそのピアノを弾く指が、腕が体が、少しずつ現れていく。 そしてそれは里美と同い年くらいの少女となった。 少女はピアノを弾いたままで、里美の方を向く。 「あなたを、待ってたのよ。」 少女は幸せそうに微笑んだ。 「ずっと待ってたの。わたしのピアノを聴いてくれる人。あなた、わたしのピアノ…きれいって、言ったでしょう?」 少女は演奏を止め、ピアノから手を離す。 「嬉しかったわ。」 里美の方へと、少女は歩く。 「わたしね、大事にしてたピアノ、壊されちゃったの。その次の年に、わたしも病気で壊れちゃった。ずっとひとりだったのよ。でももう寂しくないわ。あなたがいてくれるから。ねぇ、一緒に来て。」 逃げたいと、夢なら醒(さ)めてと里美は思う。しかし体が動かない。 「…どうして、この間逃げちゃったの?お話したかったのに。でももう逃がさない。」 里美は声も出せず、何も言い返せないでいた。 だが、ピアノの横で倒れている、ミサ曲の演奏者らしき男を見た途端、変わった。 「あなた最低よ。」 突然に、声が出た。 少女は立ち止まる。 「どういう意味?」 「あなた自分がどれだけ酷いことしたか分かってるの?人の演奏止めたのよ。」 少女は床に寝ている男を見やる。 「…殺したわけじゃないわ。」 「そういう問題じゃないでしょ!」 里美は自分でもどうしてこんな態度にでるのかわからなかった。今まで誰に対しても怒鳴ることなどなかったのに。里美はそんな自分に驚いたが、喋り続ける。 「大事なピアノ壊されて、自分も壊れて、悔しかったんでしょ?じゃあなんで、同じことするのよ。…あなたは、この教会の歌も、ここに来た人たちの気持ちも邪魔した……壊したのよ!」 「………。」 少女は里美の言葉を聞くと、うなだれた。 「…そうね。」 そうつぶやくと、少女は里美に背を向けピアノへと戻っていく。 「やっと会えたと思ってた。わたしのピアノを、ずっと聴いてくれる人。でももう、待つの疲れちゃった。」 ピアノに向かうに連れて、少女の体は徐々に薄れていく。 「…せっかちね。」 そんな少女に里美は呆れたように言う。 「誰も…聴かないなんて言ってない。早とちりしないで。」 少女は薄い体のまま、里美の顔を見つめる。 「聴くわよ。一緒にいてあげる。でも少し待って。五十年か八十年、百年後かもしれないし、もしかしたら明日かもしれない。とにかく私がこの人生を終えるまで。…待てる?」 「…ええ。どうせなら長いほうがいいわ。」 少女は目に涙をためて答えた。 「ねぇ、あなたには夢がある?」 ふいに少女が里美に問いかける。 「うん、あるわ。」 「…じゃあ、叶えてね。」 そう言い残して、少女は消えた。 「私の夢は、ピアノの調律師。」 誰に投げかけるわけでもなく、里美はつぶやく。 教会を出るとき、わざと大きな音をたてて扉を閉める。しばらくすると再び美しい聖歌が聞こえてきた。里美はその歌を聞きながら、少女の名を訊きそびれたことを後悔した。
よろめきつつも立ち上がり、ピアノの鍵(けん)を順番に押していくと、ひとつだけ音のおかしいものがあるのに気付く。 燃えていく劇場の中で、彼女は最後の仕事を終えた。 舞台から降りて彼女が一番前の座席に腰かけると、再びピアノの音が聴こえてきた。 「長いこと、待たせたわね。」 「いいえ、慣れてるから。」 まるでこの世のものではないような、この世界のどこにもないような美しい音に包まれて、里美の体は緩やかに朽ちていく。
|
|