「え、病院の屋上に行きたい?」 その日の夕暮れ、綿総合病院に通院した清は圭と会話を交わしていた。 圭はおずおずと首肯する。 言葉と文字、ジェスチャーでの会話。言葉を喋らない圭との対話に、清がようやく慣れてきた頃だった。 『うららやかな秋の陽気を楽しみたい』とホワイトボードに書く圭。 「俺は構わないけど、その右手を隠さないと………」 圭の右手はすっかり珪孔雀石と化している。青緑色に染まった右手は、もはや圭の意思で動かす事は出来なかった。 清に指摘され、しょうがないといった風に右手をパジャマの中に突っ込む。 「我慢してくれな。この病気、まだバレたらまずいらしいんだから」 言いながら、清は言い草が綿院長に似てきたなと思い、苦笑する。 この病気の先輩は、とても無防備だ。外見も幼く、とても同級生には見えない。故に守ってやりたくなるのだろうか。そんな思いを巡らせる清。 圭は頬を膨らませ、左手で奪うようにホワイトボードとマジックを掴む。 「たまには外に出るのも良いモンさ。さ、行こうぜ」 清と圭は廊下を歩き、階段を上り、リネン室を通り過ぎ、屋上へと出る。 屋上の光景は、昼に見た学校の風景とはまた違う。 緑の多い学校とは違い、病院のある新横山は都会だった。 コンクリートや、病院よりも高いビルが立ち並んで見える。 「なんかこう、病院の屋上って白いシーツを干してるってイメージなんだけどなー」 辺りを見回して呟く清。 物干し台はあったが、そこに洗濯物は干されていない。もう取り込まれてしまったのだろう。 「……………ふぅ」 ホワイトボードを置き、深呼吸をする圭。両手を広げ、空を見上げる。 「小安井……」 右手の青緑は、夕焼けの橙に溶け込む事はなかった。ただ、黒く影に見えるだけだ。 しばらくそうしていた圭は、ふっと姿勢を戻す。そして、ホワイトボードにマジックで文字を書き記した。 『圭でいいです』 「あ、ああ……わかったよ」 いきなり呼び方を変えろと言われ戸惑う清。とりあえず清は了解の意思を見せる。 夕焼けに照らされて、薄雲がゆっくりと流れていく。 「もうすぐ、圭が、ジェム・シリカにかかって三ヶ月になるのか」 頷く圭。右手首の鉱石化は徐々に肘へと進行している。 「ま、綿先生の言う事にゃ。いざとなきゃ右腕切断で済むから、死なないだけ儲けものなのかな」 圭と、ついでに自らも元気付けようと、言葉を口にする清。 無言で、圭はマジックでホワイトボードに文字を書き出した。 『むり。そんな事じゃこの病気は止まらない』 「……え?」 呆気にとられる清をよそに、左手で書かれた汚い文字が増えていく。 『次は左て、その次は右足、左あし、どうからあたまにいって、おわり』 悲しげな瞳で首を振る圭。病気を患った彼女にしか、感じられる事があるのだろうか。 精神をすり減らした圭の妄言とも考えられたが、進行の順番まで書いてある事に、清はなにか信憑性らしきものを感じていた。 「も、もしそうだとしてもさ、右手首にいくまで3ヶ月もかかってるわけだろ? 全身が石になる前に、先生が治療薬とか見つけてくれるって!」 焦ったように、まくしたてる清。清は、ジェム・シリカ病が治るという希望を胸に抱いて生きたかった。 圭はホワイトボードの文字を消し、新たな文字を書き加える。 『私はあの先生、きらい』 「なんで……?」 少なくとも清には、綿恭介という男は誠実な医師に見えた。 まだ若いが、やる気と探究心に満ち溢れた、良い医者に思えた。 圭は清の問いには、何も答えなかった。ただ、曇った目で空を見上げているだけだ。 清は攻め方を変えることにした。なんとなく、このまま言われっぱなしは嫌だと思ったのだ。 「俺さ、病気が治ったらプロ野球選手を目指そうと思うんだ」 「……………」 「こうさ、俺の七色の変化球でばっさばっさ内野ゴロの山を築きたい訳よ。圭は野球わかる?」 首を振る圭。構わず続ける清。素振りの真似事を始める。 「すっごい面白いんだぞ、ピッチャーとバッターの駆け引きとか、バッターの打球の傾向から守備位置を変えるとか、知らないと損するぜ」 そして、聞きたかった一言を口にする。 「圭はさ、病気が治ったら、どうしたい?」 首を捻る圭。治った時の事など、全く考えていなかったように見えた。 若干の間をおいて、圭はこう書いた。 『お嫁さんになりたい、かな』 清の顔が緩む。微笑ましい、けれど人によっては究極の無理難題となる夢でもある。 「なんだ、圭なら病気さえ治って、長く生きれば叶う夢じゃないか。好きな人とかいるの?」 頷く圭。淡々と文字を書いていく。 『私をたすけてくれたひと。不良にからまれていたのを、たすけてくれたの』 「へぇ、そうなのか。今時なかなか感心な若者だな。顔とか名前とかわかってるの?」 何度目かの頷き。 「それなら、しっかり病気治して告白しなきゃな。きっと圭ならうまくいくもの」 今度は首を横に振った。その動きは弱々しい。 「うまくいくって! 俺だって今日、学校で勇気を出したんだ。そうしたら、うまくいったんだ。圭だって勇気を持てばうまくいくって!」 清が言葉をかけるほど、圭の表情は曇っていく。 太陽が、沈みきった。黄昏の時間も終わる。 語りかける清をすりぬけるようにして、とぼとぼと帰りだす圭。 言葉を喋る事も出来ず、崩れていく体。弱い、儚い存在。 清は、そんな圭の背中をただ見守る事しかできなかった。
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