●幕間 不可知の幸福―――
あなたはいつも困った時に助けてくれた。 ドジで駄目な私にも優しく接してくれた。 私にとって、あなたはヒーローでした。 あの頃、私は盲目だったのです。 目の前の真実から、目を背けていたのです。 いつか目を開けて見なくてはいけない。 私のヒーローは、 私だけのヒーローでは無いって事を。
―――清見台 縁
●先駆者 薬品の匂いがする。 病室のベッドの上、腰まで毛布をかけ、ぼんやりと窓の外をみやる人影。 その患者は、女物の、ハート柄のパジャマを身に着けていた。ベッド傍の棚には薄汚れた熊のぬいぐるみが置いてある。 細身というより、繊細と形容される体躯をしている。病床に臥せっている為か、ショートボブにした黒髪はあまり手入れもされていなかった。黒い瞳は、ただ窓の外を見ている。 窓の外は地面だ。自殺を防ぐために自分を1階の病棟に移したのだろうか、患者はそう思う。 不意に、ドアをノックする音。 患者は何も言わない。鍵も掛かっていない個室だ、すぐに扉が開けられた。 「圭ちゃん、調子はどうだい」 軽口を立てて入ってきたのはよれよれの白衣を着た男。院長の綿恭介だった。 小脇にカルテを抱えて、圭と呼んだ患者へと近づいていく。 圭は無表情で棚からホワイトボードを左手で引き出して見せる。 そこには擦れた字で『別に』と書いてあった。 「まだ、喋りたくないのかい」 恭介の問い、圭は頷きで返す。 カルテには『会話不能 声帯に異常なし ストレスが原因か?』と書かれたメモが挟まれていた。 圭は言葉を喋ることが出来ない。入院当時には口数自体が少なかったものの、聞かれたら答えるくらいの受け答えはできていた。 だが入院生活が続くうちに、圭は口を閉ざし、心も閉ざしてしまったのだ。 恭介はストレスを解消させる為、病室を移したりしたが、全く効果が無かった。 「しかしまあ、なんというか……ボキャブラリーが貧困だよね」 『別に』というボードを再びかざす圭。 筆談をする事になり、はじめて圭がホワイトボードに書いた会話の為の文字が、この2文字だった。 それでも何度も文字を書き直した為、ホワイトボードは薄汚れてしまっている。 それは恭介の白衣とダブって見えた。 「それだけ会話が成立するもんな」 今度は『はい』という文字を新たに書いてみせる。 「症状は出来るだけ本人の口から聞きたいんだけどな……まあいいや、それじゃ、右手を見せて」 恭介の催促に、圭は右手を毛布から引き抜いてみせた。 鮮やかな、青緑色だった。 しげしげと観察する恭介。 青緑色は手首にまで侵食してきている。もはやピクリとも右手を動かすことは出来なくなっていた。 「うーん……こりゃ参ったなあ、あの薬も効き目なしか?」 頭を書きながらカルテになにやら文字を書き加えていく恭介。 ふと、圭の視線に気付き、慌てて付け足す。 「あ、大丈夫大丈夫! 僕がこの奇病、絶対治してあげるから」 『別に』 ホワイトボードを見せる圭。 (「別に……? 彼女に、治る気はないのか?」) 首をかしげる恭介だが、圭の表情は変わらない。 圭がこの病院に入院してから2ヶ月。未だに恭介はこの物静かな患者の心を理解する事が出来ないでいた。 「あー……そうそう、良いニュース、なのかわからないけど」 思い出したような口調で話し始める恭介。その実、これから先が彼が圭へ伝えたい事柄だった。 「君と同じく、ジェムシリカにかかった男の子がやってきたよ」 「………」 圭の瞳が揺れる。微かに見えた反応を、逃さない恭介。 「まだ君の事は話してないけど、話して会ってみる?」 恭介は圭に言葉を取り戻させたかった。同じ病気にかかった先輩と後輩同士、何か通じるものがあるだろう。 そうすれば圭にも言葉が戻るのではないか。 この恭介の思惑は、当たったように見えた。 「………あ」 搾り出したような、圭の低い、潰れたような声。 前のめりに倒れそうになる圭を、慌てて抱え起こす恭介。 「落ち着いて、大丈夫。そう、ゆっくり深呼吸だ……」 圭を落ち着かせ、恭介は再度問う。 「同じ病気にかかった男の子に会いたいかい?」 今までに無いくらい、圭は力強く頷いた。 その黒い瞳には、輝きが戻っていた。
|
|