「よろしくー」 病室のベッドの上、ボストンバックを両手に下げてやってきためぐみを、圭は何事も無く迎えてみせた。 圭は病室を1階の個室から5階の二人部屋に移された。その理由はだいたい判っていた。 紺野めぐみ、彼女もジェム・シリカ病が発病したのだ。伝染病と診断されたジェム・シリカ病の患者は隔離病棟に送り込まれる。 圭はぺこりと頭を下げる。 「いやー、参った参った……まさか伝染病だったなんてね、清の病気。あはは……」 苦笑いを浮かべながらポリポリと頭を掻くめぐみ。圭はその目元が赤く腫れているのを見逃さない。 ゆっくりと、左手でホワイトボードに文字を書いていく。 『不安ですか?』 しばらく逡巡した後、めぐみは首を縦に振った。 「正直、ちょっちね。主治医の先生まで隔離されたっていうし……貴女はずっとこんな思いと戦ってたのね。敵とはいえ、見上げたものだわ」 圭は自らの胸に聞いてみる。『私にもそんな頃があっただろうか?』と。 あったはずだが、数ヶ月前の記憶はどうもぼやけて思い出せない。 心の奥が、チクリと痛んだ。圭の眉が、微かに落ちる。 めぐみはその表情の変化を自らの発言の所為だと思った。こう付け加える。 「……安心しなさいよ。別に敵だからって嫌がらせとかしない」 腰に手を当て、チッチッと指を振り、おどけてみせた。 「けど手助けもしない。お互い、この病気を治す為に頑張りましょ。清が好きならね」 こくりと、圭は頷いた。 「よしっ! ひとまず休戦完了! そんじゃ私の新しい住居を充実させなきゃね〜♪」 ボストンバックを引き開けて、目覚ましやら着替えなどを取り出しはじめるめぐみ。 隔離病棟というと堅苦しい窮屈なイメージが付き纏うが、実はそれは違う。 指定されたエリア内ならば自由に歩いて構わないし、同じ病気の患者と雑談だって出来る。 患者のストレスを溜めないように、細心の注意が払われているのだ。 「おーい、めぐみいるか〜?」 ノブを回す音と共に、患者服姿の清が現れた。 『女の子の部屋に入る時はノックしなきゃ駄目です』 「そうよそうよ」 圭とめぐみの二人から責められ、清はお手上げのポーズを取った。 「へいへい悪かったって。そんで入院準備はできたか?」 「うん、あとは着替えるだけ」 めぐみはまだ私服だ、これから隔離病棟内で着るべき患者服に着替えねばならない。 「そっか、そんじゃ着替え終わったら男部屋に来てくれ。先生が入院する際の諸注意を話すんだとさ」 面倒くさそうに話す清。元々病気を発病させていた彼は変わらない。彼にとって唯一の懸念だっためぐみも既に発病してしまっているのなら、伝染病だろうがなんだろうが、もはや彼には関係ない事だった。 「了解、じゃあ着替えたらすぐにいくねー」 圭はぼんやりと、二人のやり取りを眺めていた。 少し、うらやましいと思った。
「二人とも、来てくれたね」 男部屋の中、患者服を着た恭介は自分と同じようにベッドに腰掛けた一組の少年少女を見やる。 「ん、諸注意だよな。かるーく話しちゃってよ」 清の言葉に、恭介はにやりと笑った。眼鏡の奥にある瞳が、悪戯に光る。 「ああ、注意な。この病棟にある金属製のドアより外に出てはいけない、以上」 あっけにとられる二人。めぐみは恭介に尋ねる。 「そ、それだけで呼んだんですか?」 「それだけじゃないさ」 恭介はシリアスな表情になり、両肘を両膝の上に乗せ、指を組んだ。 「君達には話しておかないといけない事と、お願いしたい事があるんだ」 「話しておかないといけない事と、お願いしたい事……?」 鸚鵡返しに聞く清、恭介は深く頷いた。 「ああ、まずは話しておかないといけない事……それは君達にとって病気の先輩、小安井 圭についてだ」 清とめぐみの体が一瞬強張る。 「彼女が話せないのは知っているね?」 「はい……」 めぐみが答える。恭介は、その理由を説明しはじめた。 「その原因はストレス性のものなんだが……実はジェム・シリカ病のせいだけではない。『彼』は男だ」 「……は?」 間の抜けた声を出す清。めぐみも目を見開いて恭介の告白に聞き入っている。 「体は男だけど心は女……性同一性障害って言葉は聞いた事があるかい?」 清はその言葉に聞き覚えがあった。すぐに答える。 「あ、ああ……ドラマとかでたまに聞くけど」 「圭君はジェム・シリカ病の前から自分の体と性別の不一致に苦しんでいるフシがあった。特に自分の声が男声で低いのが気に入らなかったようだ」 恭介は、それが圭が話せない理由ではないかと推測していた。 「あの子が、男の子だったなんて……」 何度も目をしばたかせるめぐみ。驚いた反面、ライバルがライバルで無くなった事に微かな喜びが生まれた。 恭介は続ける。 「めぐみ君、正直、同じ女部屋で生活する事になる君へ打ち明けるべきかは悩んだ。けれど、君の事は清君からよく聞いている。とても良い子だと」 「ちょっ、先生――」 頬を染めて制止させようとする清を無視して恭介は言った。 「女の子だからできるサポートもあると思う。清君もめぐみ君も、彼女を支えてやってくれないか、私は彼女に嫌われていてね……」 続けて恭介は、自らが圭に嫌われている理由を告白する。 「先程、圭君のストレスの原因がジェム・シリカ病のせい『だけではない』と言ったね。つまり、病気の所為でもあるんだ」 立ち上がる恭介。自分の荷物の中から錠剤の詰まった薬瓶を取り出す。 「例えば僕は彼女にこの薬品を投与した」 その薬瓶には『イレッサ』と書かれたシールが貼ってあった。 「このイレッサという薬は抗がん剤として知られている。体組織がCu2H2Si2O5(OH)4・nH2Oに変化していくのはがん細胞が増殖しているのに近いのではないかと思ってね。ただ……」 恭介は、顔を伏せる。 「体質によっては全く効かないし、副作用として急性肺障害、間質性肺炎を引き起こす」 「なっ……もしかして……」 清の脳裏にひとつの可能性が浮かび上がり、青ざめる。恭介は、無言で肯定してみせた。 「ああ。彼女は随分と苦しんだよ、副作用にな」 「……彼女は、その薬の副作用を知っていたのか?」 「知っていたよ。その上でやると言った」 「それでもっ!!」 やおら立ち上がり清は恭介の胸倉に掴みかかる。 「急性肺障害とか間質性肺炎とかなんだか難しくてわからないけどよ! とにかくキツイってのはわかるぜ! きっと圭だって嫌だったはずだ! それを知りながら何故アンタは……!!」 清は怒っていた。圭の苦しみを自分勝手に想像し、体験し、怒っていた。 「ジェム・シリカ病完治の為に、必要な事だったからだ」 「なんだとっ、この野郎――」 「清! 落ち着いてっ! 指折れちゃう!!」 慌てためぐみが間に入る。めぐみは清が殴りかかろうとしていた右こぶしへしがみ付く。 「めぐみ、放せっ!!」 「駄目だよ、駄目だって!!」 元高校球児のパワーに負けず、めぐみは必死に清の右手を押さえ込んだ。と同時に、心のうちに疑念が湧き上がってくる。 圭が男だとしても、清は気にせず気持ちを受け入れてしまうのではないか、という疑念。 その光景を見下ろしながら、恭介は続ける。 「清君、思い出してみるといい。君が投与された薬のうち、きつい副作用を起こした事が一回とてあったかい?」 恭介の眼鏡の奥は、陰影に隠れて見えない。 「……下痢があったくらいだ」 「そうだね。なんできつい副作用が無かったかも、わかったよね?」 「………ああ、危険性のある薬品は全部圭で試していたからだな」 胸倉を掴んだままの清へ、恭介は首肯してみせる。 「圭が死んだら次は俺、俺が死んだら次はめぐみってか! この殺人狂が!!」 思いつく限りの罵声を浴びせた清だが、恭介は動じない。 そもそも医者なんてのは、血や内臓を見ても動じなくならなければやっていけない職業なのだ。殺人狂もあながち間違ってはいないな、そう恭介は感じていた。 「勘違いしないでくれ。新しい実験体はここにもう一人いるだろう」 恭介は自らの胸を親指で指し示す。 「自分の体の異常くらい、自分で治してみせる。そもそもいざとなれば右腕を切断すれば済む話だ。死ぬなんて事はほぼない」 「……………」 めぐみは先程から、恭介の言葉の端々に空恐ろしいものを感じていた。 (「右腕を切断すれば済むとか、それ自体大事なのになんでこう簡単に言い切れるんだろう」) 「とにかく、僕は僕自身だけでなく清君やめぐみ君、そして圭君も救いたいと思っている。だから君達も圭君のサポートに協力して欲しいんだ」 「それは……そうだけどよ……」 清とめぐみの心のうちに、複雑な思いが芽生える。 清にとって圭のサポートをする事に異存はなかった。しかし、圭をそんな風にした一因である恭介をどうしても許せなかった。 一方、めぐみは敵である圭をサポートする気には、どうしてもなれなかったのだ。
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