「めぐみー! お風呂沸いたわよー、早く入りなさ〜い!!」 階下から聴こえてくる母親の声。めぐみは気の抜けた返事をし、自室のドアを開けた。 「……ふぁ〜い」 青い顔をしながら、とぼとぼと階段を降りる。意識して歩幅を狭くしていた。 「なんか帰ってきてから元気ないわね、どうしたの?」 めぐみが階段を降りきると、夕食の片づけをしていた母親が台所から顔だけ出す。 「んー、なんでもない。寝て起きればいつもみたいに調子戻るよ」 呆けた目を母親に向け、めぐみは頭のシニヨンを解く。肩口まで、クセがついた茶髪が広がる。 「お風呂に入って、スッキリしーよっと」 自らに言い聞かせるように、めぐみは風呂場へと入っていった。 風呂場のドアを閉め、Tシャツとスラックスを脱ぎ、下着を包んで上着の上に置く。 そして、生まれたままの姿になっためぐみは浴室の扉を開けた。行き場を見つけた湯気が吹き出てくる。 身体にぴったりとまとわりつく湿度を気にもせず、めぐみは浴室へ歩を進める。 シャワーを手に取り、蛇口を捻る。出てきた水に手をかざし、湯になるのを待つ。 「はぁ……なんで私、あんな事しちゃったかなぁ」 湯になるまでの数秒間、襲い来る冷気に負けたかのようにめぐみは呟いた。 「初めは、清を驚かせたいだけだったのにな……」 排水溝へ流れていく湯を見下ろしながら、湯の出ているシャワーを止め具へと掛ける。 身体や髪を洗う気力も湧かなかった。 「昼までは最高の気分だったのに……余計なことばかりしてる」 そして今度は上を向く。流れてくるシャワーに身体を委ねた。水滴が首筋からそれなりの胸を伝い、下半身へと流れる。 清から通院先の病院を聞いていためぐみは、ただ驚かせようという軽い気持ちで綿総合病院へと赴いた。 そして彼女が清を探している時、屋上へと向かう清と圭の姿を捉えたのだ。 「せっかく、わかりあえたと思ったのにな……」 その瞬間、めぐみの胸のうちに眠っていた嫉妬心が鎌首をもたげ、見る間に起きだした。 そして手早く圭の病室を漁った。彼女についてわかったのは絵が上手いことと、名前が『小安井圭』という事だけだった。落胆する間もなく、屋上に向かい会話を盗み聞く。 二人の話が終わった事に気付くと、慌てて1階へ戻り、たった今病院へ来た様に見せかけた。 「信じてない訳じゃないのに、縛らないと気が済まない……」 めぐみ自身、病的なまでの嫉妬心、執着心を自覚していた。それでもなお、衝動を止める事はできないのだ。 「その証拠だってある……だって私、清には悪いと思っていても――」 天井を見上げたまま、目を瞑るめぐみ。 「――あの子には悪いと、思ってないもの」 潤った唇から紡ぎだされた呪詛のような言葉。 「……ふぅ、やめやめ! ゆっくりお風呂に入って、あったまって寝よ!」 大きな溜息をひとつつき、気分を強引に切り替えるめぐみ。シャワーを止めようと蛇口へ視線を向ける。 「……?」 蛇口の向こう、排水溝へ流れる水が薄緑色をしていた。緑色は血が水に溶けるようにマーブル状に水の中に溶けていっている。 視線は緑色の流れてくる方向へ動く。 上へ、上へ――源流はどこだ。 緑色は、シャワーのホース部分を絡まるように流れ落ちていた。さながら屋敷を束縛する薔薇の蔦のようだ。 めぐみはすぐに原因を見つける。右手親指だった。緑色に変色している。 流れる湯が親指の緑を洗い流していた。改めて良く見ると、他の指も皆指先が緑色なのに気付くめぐみ。 「これって……!」 清と同じ病気。めぐみの胸に去来した思いは、大いなる恐怖と微かな連帯感だった。
鉛筆の削れる、カリカリとした音が部屋に響く。 「この薬も効き目なし、と」 デスクの上には膨大な量の紙と電気スタンド。電気スタンドの灯りだけが部屋をぼんやり照らしていた。 灯りの下、投げ出された鉛筆が転がってスポットライトを浴びる。 「成果なしかよ、ちくしょう……」 大きくけ伸びをし、背もたれにもたれかかる恭介。豪華な椅子は、わずかに軋みを立てただけだ。 「もう残ってんのは日本政府未認可のシロモノくらいだぞ」 掛けていた眼鏡を外し、デスクの上に置く。代わりに鉛筆を取り、背の部分を噛んだ。 恭介は鉛筆が好きだった。使用するにつれ黒炭が削れて行く様は、人が命を削って今を生きるのと似ている気がしたからだ。ボールペンや万年筆を使わねばならない場合以外は、恭介は好んで鉛筆を使っていた。 「……手、回すか」 呟く恭介。その表情は、灯りに照らされる事なく闇へと消える。 「コーヒーでも、淹れるか」 恭介はやおら立ち上がった。彼は重度のコーヒー中毒で、自室にはブレンドされたオリジナルコーヒー豆は勿論の事、それを挽くための臼まで貯蔵されていた。 棚の中に閉まっているコーヒーを手に入れる為、まず恭介は部屋の電気をつけることにした。 薄暗い中、手探りで電気のスイッチを見つける。躊躇なく押下した。 数度の点滅の後に蛍光灯がつく。 その時恭介の目に映り込んできたのは、緑色に変色した己の指だった。右手の五指が、緑色。スイッチには緑色の粉末が付着していた。疑うまでも無く、珪孔雀石。 「……なるほど。この展開は、ちょっと失念していたな」 恭介の口元が歪む。比類なき好敵手と出会えたという笑み。 「潜伏期間か? だとすると清君の計算が合わないはずだが……いや、事実起こってしまっているのだから、受け入れねばなるまい」 自らの頭の中に論理的思考をくみ上げる為、ぶつぶつと呟きだす恭介。 そしてポケットに突っ込んでいた携帯電話を抜き取り、慣れた手つきでボタンを押していった。 恭介は携帯電話のボタンに付着する、緑の粉末を鬱陶しいと思った。それでもコールが始まり、携帯電話を自らの耳に寄せる。 「もしもし? 綿ですが……ジェム・シリカの事ですが、新たな事実が判明しました」 一拍置き、恭介は携帯電話の向こうにいる相手へ、こう宣言した。 「ジェム・シリカは伝染病です。私も発病しました。私、綿恭介はジェム・シリカ病を指定伝染病に認定する事を提案させて頂きます」
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