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バイブ 作者:深海 翔

第3回   3
 日が沈みかけた頃、タイミングよくブルルと静かな携帯の振動がフローリングの冷たい床を震わせる。
 あたしはまるで漬け物石でも持ち上げるかのように、緩慢な動きで携帯電話を持ち上げた。
 淡く光るモニターには悪友の『宮地』の名前が浮かび上がる。
 奴は隆とあたしの共通の友達で、あたしが引きこもってからも、何度となく電話をくれた男だ。
「もしもし? キラリ?」
「宮地」
「なに死にそうな声だしてるんだよ」
「死にそうどころじゃないよ、死んだの」
「はぁ?」
「…たかしが死んだ」
「おいおい。隆は死んでないだろ。アイツに彼女ができたからって勝手に呪い殺すな」
 デリカシーのない男。
 何気なく発したこの言葉に、あたしがどれだけ傷つくのか、奴は本当にわかわからないのだろうか。
 心配して何度も電話をしてきてくれる彼の優しさに何度も救われたけど、垂垂れ流しの素直な感情に、あたしは何度傷つけられた事だろう。
「違う。違うよ」
 宮地に電話で『たかし』の説明をしたってしょうがない。
 でも。冬眠明けの獣のように、あたしは今物凄く飢えているんだ。
「宮地。あたし飢えてるんだけど」
 あたしはそのまま言葉に出して言ってみた。
「飯? おごれって言うのか?」
「ねぇ口いっぱいに頬張らせてよ」
 思わず舌なめずりをした、欲情しきったあたしの唾液の熱さが、宮地に伝わったのだろうか。
 受話器の向こうで、何故だか初めてアイツがあたしに勃起したような気がした。


 結局。
 宮地とは寝なかった。
 宮地はあたしを牽制するかのように、食事に数人の見知らぬ友達を連れてきた。
 どうやら宮地達は彼の家でずっと麻雀をしていたみたいで、それの勝ち越し金での宴となったようだ。
 その日、あたしはタダだったから多分また宮地が勝ったのだろう。
 宮地は恐ろしく勝負に強い。
 あたし達は連れ立って新宿の『蟹道楽』へやってきた。
 なやましい姿で大量に横たわるたらば蟹の前に、あたし達はほとんど会話もせずに、たらば蟹に食らいついた。
 白くてほんのり甘い身を、銀色に輝く細長い器具で奥の奥までほじくったり、恥ずかしそうに覆い隠すぶ厚い殻を引きちぎったり、汁を啜ったり、かぶりついたりしながら、あたし達は獣のように陵辱の限りを尽くす。
 腹八分目くらいになった頃、ふと目の前の男に不審な動きに目が止まった。
「ねえ。蟹道楽なのに何食べてるの?」
 あたしが尋ねると、目の前の男は一心不乱に何かを齧っていた手を止めた。
「え?」
「何してるの?」
 あたしが尋ねると、彼ははにかむように笑って答えた。
「蛸の吸盤。こうやって押さえてさ。吸盤を歯で噛んでむしるんだよ。面白くつい夢中になるんだよね」
 こうやってさ…と言いながら、器用に舌と歯で吸盤をはがしていく姿に、あたしは思わず笑った。
「あたしもやってみる」
 そう言ってあたしも蛸の唐揚げの衣を箸ではぎ取って、素手でタコを持つ。
 そしてさっきよりも手も口のまわりも油でベトベトに濡らしながら、舌と歯で吸盤を剥がしていった。
「そう。うまいよ」
 腰に響くアルトでそう言われ、あたしは最中を思い出してしまい赤面した。
 酔いもすっかりまわり、久々にあった大勢の人達の温度のせいで、あたしはヘロヘロに酔っていた。
 だからうっかりテーブルの下に見えた、彼の足に触れてしまったのだ。
 ベティキュアを塗った素足で、相手のジーパンに触れると、一緒に蛸を食べた目の前の男は「何か当たったのかな?」というような顔で首を傾げていた。
 その表情が、懐かしい彼を思い出し、あたしはさらに悪戯をしかけた。
 獲物に向かってじゃれる子猫のように、親指と人差し指を大きくひらき、パクっとジーパンに噛み付く。
 そしてすすっとジーパンの裾を持ち上げて、ゴツゴツとした男特有の筋張った足に触れるのだ。
 まだ付きあっている頃に、よくこうやって隆と遊んだものだ。
 あたし達は炬燵の中で手を繋いだり、こうやって足を絡めあって目配せしたりしながら、誰にも気付かれないようにヒミツの情事を楽しんだ。
 …しまった。
 目の前にいるのは隆じゃないのに。
 つい、やってしまった。
「きらりちゃん…だっけ?」
 お酒で頬を赤く染めた目の前の男が、あたしに向かって話しかける。
 怒られると思い、あたしは真っ赤になって俯いた。
「俺バイクで来てるんだけど。酔い覚まし付き合ってくれたら、近くまで送っていくよ?」
 暗号を散らした男の目。
 同じ獣の匂いがした。
 昔のあたしは隆以外を食べたことがなかったし、食べたいとも思わなかった。
 隆におなかいっぱい餌を食べさせてもらえていたあたしは、いつも満腹だったから、外の餌になど気づかなかったのだ。
 でもそれがなくなってしまったら、あたしは餌を求めて外へ出ていくしかない。
 そのせいでピュアさとか純粋さとか、恥じらいとかしとやかさとか、そう言った物を全部失ったとしても。
 きっと女には二通りのタイプがいるんだと思う。
 ひとりは餌をもらえるまで我慢するタイプ。
 きっとそうゆう女は、彼氏ができて、どんなにセックスしたくても自分からセックスしたいと言わないような気がする。与えられた餌だけで何とかやりくりできてしまう賢い女性だ。
 もうひとりは、餌がないと自分から餌を取りに行くタイプ。
 きっとこの手の女は、自分が発情したら彼氏を押し倒してでも、彼の股間にある餌を食べようとする。
 餌がもらえなければ、お手製の餌を食べたり、外へ探しに行ったりもするのかもしれない。
 あたしは後者だったって事だ。
 もしあのまま隆に美味しい餌をもらい続けていれば、気付かなかったのかも知れないけれど。


 食事の後、バイク男とセックスをした。
 隆以外のペニスは、見るのもましてや触るのも、生まれて初めての体験だ。
 遊び人のようにバイク男は、手慣れた手つきであたしを脱がし、持ち上げ、ハメた。
 あたしは彼のピストン運動に合わせて激しく腰を動かしながら、 ぼんやりと霞のか勝った脳みそで、鍵と鍵穴について考えていた。
 鍵穴はいつも鍵を待っているのかな。
 ピタリとした物以外入らなければ、色欲をもてあましたあたしでも諦めがつくのに。
 鍵穴じゃないあたしの穴は、とても上手に男を飲み込んだ……。
 彼とのセックスは、あたしに色々な事を教えてくれた。
 愛情のないセックスはスポーツとまったく同じって事。
 息を止めたまま25メートルを泳ぎきった後のような、ふたり一組でハイスピードでがむしゃらに岩山を登って、頂上の景色が目の前にわっと開けたような、スポーツのようなセックスにはそんな快感がある。
 あたし達は「気持ち良い」とか「もっと」とか、逆に恋人同士なら言えないような、もっともっと卑猥な言葉をいっぱい並べて性交した。
 彼のペニスを掴み、自分の膣に誘導する事だってできるけど、このゲームではたったひとつタブーがある。
 それは「好き」という言葉を決して発してはいけない事。
 この単語を発さないだけで、恋人とのセックスとは全く異なった物になってしまうのだ。

 蛸の吸盤を剥がすのが上手なバイク男もずいぶんと性が強い方みたいで、あたし達は3回ヤッて別れた。
 携帯番号も、名前も知らないけどセックスはできるのだなぁ。
 あたしは、久しぶりにおなかいっぱいに満たされた欲望と、ハートにヒリヒリするようなカサブタを抱えたまま、ゆっくりと家路に着いた。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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