■ トップページ  ■ 目次  ■ 一覧 

彼女たちの恋愛模様 作者:鳴海 葉子

最終回   1
 メールの着信音に気づいた冴子は、愛用しているヴィトンのハンドバックから携帯電話を取り出した。
「なに? 誰かからメール?」
 運転席に座り、車を運転している男がチラリと冴子に視線を向けた。
「んー、まあね」
 長いストレートの髪をかきあげならがメールの内容を確認する冴子は、その申し分なく美しい顔を微かに曇らせた。そして、小さく呟く。
「まいったな」
「どうしたの? もしかして、男からとか?」
 冴子の呟きを耳にした男が、冗談めかしてそう言った。何気なさを装ってはいるが、メールの内容とその相手、それに冴子の呟きの意味が気になっていることが、助手席から男の顔を盗み見た冴子にはひと目で分かる。
 夜のそう早い時間ではないにも関わらず、走る車の窓から見える空に星光は一つもない。明日は雪になるかもしれない。そう天気予報が伝えていたことを、冴子はぼんやりと思い出す。
 一月の夜の空気は凍えるほどに冷たい。しかし、車内は心地よく温かかった。それは、単にヒーターがその威力を発揮しているせいだけではなく、恋人と二人だけで狭い空間にいるという事実が、冴子の心と体を温めているのだ。
 小さく微笑みを返しながら、冴子は男の太腿にそっと手を置いた。
「まさか。男からのはずないでしょう? 幼馴染からよ。女の子の」
「へえ? 幼馴染がいるんだ?」
「ええ、家が隣同士だったの。中学生になる前にウチが引越ししちゃって、学校も離れちゃったから疎遠になったんだけどね。でも、今でも時々は会ってるのよ」
 素直に冴子の言葉を信じたらしく、男は安堵したように軽い笑みをもらした。
「そうなんだ。いいね、幼馴染がいるって。俺にいなかったからなぁ。ちょっと憧れるよ。で、その子がどうかした?」
「会いたいって。今すぐ」
 途端に微かではあるが、車内に気まづい空気が広がった。男の丹精な横顔には、わずかにではあるが戸惑いの色が浮かんでいる。
「どうしようかなぁ。ここのところ、しばらく会ってなかったのよね。ねえ、どうしたらいいと思う」
 困ったように、しかし甘さを含んだ声で冴子がそう問うと、男は指でハンドルをトントンと叩きつつ、考え込むように言った。
「しばらく会ってないんだ?」
「ええ」
 男は横目で腕時計をチラリと見た。
「もう十一時か。こんな時間にどうしたんだろうね。相談事かなにかかな?」
「そんなものだと思う。あの子が連絡してくる時って、大抵がそうだから」
「……そっか」
 やがて男は意を決したように、爽やかな笑顔を冴子に向けた。
「行っておいでよ。俺のことは気にしないでいいからさ」
「いいの?」
 男は頷く。
「俺たちは会おうと思ったら、明日だってまた会えるだろ?」
「それはそうだけど、でも、せっかくの金曜日なのに…」
「幼馴染の相手、大切にしてやれよ。滅多に会うことないんだろ? たまに向こうから連絡あった時くらい、会ってやった方がいい」
 希望通りの答えた返ってきたことに、冴子は満足の笑みを浮かべた。
「優しいのね、ありがとう。それじゃ悪いけど、行かせてもらうことにする。待ち合わせの場所まで送ってくれる?」
「ああ、かまわないよ」
 男は目的地を冴子から聞くと、近くにあった大手古本屋の駐車場に車を入れた。そこで方向転換をして、来た道と逆方面へと車を走らせ始める。
 返信メールを打ちながら、冴子はこみ上がる嬉しさを男に気づかれないように必死に抑えていた。
 隣でハンドルを握る男、隆志と付き合い始めてから、まだ二週間ほどしか経っていない。互いに相手の人間性を注意深くさぐりつつ、自分にもっと想いを寄せてもらうために薄いベールをかぶったままでの付き合いをしているという、そんな時期。
 男と付き合い始めてから別れるまでの期間の中で、冴子はこの時期がもっとも好きであった。相手からはこれ以上望めないほどに優しくされ、自分自身も相手に対して素直に優しくなれる。四六時中相手のことを考え、そして、一分一秒でも長く一緒にいたいとそう思う。目にするもの全てがきらめいて見え、将来が希望に満ち溢れているように感じられる。恋愛初期特有の、まるで夢の中にでもいるようなふわりとした不思議な感覚。それが今、冴子の体中を柔らかく満たしている。この感覚を味わうために、冴子は恋をするのだ。
 付き合いが長くなると、この感覚はどんどん薄れていく。そして、互いに対する優しさや思いやりの気持ちも、持ち続けることが困難になってくる。デートの最中、幼馴染からメールで急な呼び出しを受けた場合の態度も、まったく異なってくるのだ。
「幼馴染からの呼び出し? いーよいーよ、行ってくればぁ。ちょうど友達から飲みに行こうって誘われてたんだ。いやー、ちょうどよかった」
 などと、まるで邪魔者を追い払うように送り出されても腹が立つし、
「あぁ?! 俺と会っている最中なのに、幼馴染と会うために帰るだと? ふざけるな!」
 無理矢理引き止められるのもウザったい。
 それに比べて、今の隆志との関係は理想的だった。帰って欲しくない素振りを見せてくれながらも、快く送り出してくれる。こういう態度に出られると、冴子としても相手に対する愛情が増す。幼馴染なんかどうでもいい、隆志ともっと一緒にいたい、甘い時を過ごしていたい、とも考えてしまう。
 幼馴染への返信メールを送り終えると、冴子は携帯電話をバックへとしまいこみ、体を横に乗り出して隆志の肩に頭をもたれた。
「ホント、ごめんね、隆志」
「いいよ。ちょっと…いや、本当言うと、かなり残念だけどね。でも、ガマンする」
「うーん、幼馴染に会うの、やっぱりやめちゃおうかな?」
 もちろん、冴子にはそんなつもりは毛頭ない。言ってみて、相手の反応を確かめたかっただけだ。そして、隆志もそれを見透かしたかのように、左手を冴子の肩にまわしながら諭すように言ってくれた。
「そんなこと言われると、行くなって言いたくなっちゃうよ。でも、ダメだよ。行っておいで。久しぶりなんだろ?」
「そうね。ええ、分かったわ」
 それから三十分ほど走った国道沿いのファミリーレストランの前で、隆志は車を止めた。
「ここでいいのかい?」
「彼女と会う時って、いつもこの店なのよ。自棄食いするには、こういう店がちょうどいいみたいで。相談の内容はいつも決まって恋愛のこと。しかも、その内の九割が失恋の愚痴を聞いて欲しい、って感じなの」
 冴子が下唇を出して肩をすくめてみせると、隆志は同情するように苦笑した。
「失恋のグチ聞きか。冴子も大変だな。それで、帰りはどうするんだい?」
「相手の子、車できてるはずだから家まで送ってもらうわ」
「そんなに時間がかからないようなら、どこか近くで時間を潰してるけど」
「ううん、多分長くなると思うから」
 車から降りると、冴子はすぐにレストラン入り口のドアの前に向かった。そこで振り返り、隆志に向かって小さく手を振る。隆志の乗るシルバーのシルビアは、クラクションを一度だけ小さく響かせると、駐車場を出て国道を走る他の車に紛れていった。
 九時に待ち合わせ、食事だけで終わった約二時間の短いデート。もしかすると、隆志と初めて外泊するかもしれない夜であったのにも関わらず、しかし、余韻だけをたっぷりと残してデートは早く終わってしまった。
 しかし、だからといって冴子に幼馴染を恨む気持ちは毛頭ない。逆に、ちょうどよかったとさえ思のだ。
 付き合って間もないこの時期、相手のことが好きで好きでたまらなくて、一緒にいない時は無性に寂しく切なくて、できれば無人島にでも出かけていき、昼夜問わずずっと肌を触れ合わせていたいとさえ思ってしまう。
 しかし、そんなことをすれば急速に新鮮さは薄れ、相手に飽き、破局の時を早めるだけであることを冴子は知っていた。この時期であるからこそ、自制すべきなのである。そう頻繁にデートをするべきではなく、もちろん、体の関係をもつまでにも長い時間をかける。
 会いたい時に会えないからこそ、愛情は大きく膨れ上がり、相手を想う気持ちがどんどん強くなっていく。たまに会った時には相手を心から大切に想い、我儘を抑えて優しく接することもできるのだ。そう、お互いに。
 だから冴子は思っていた。少しでも長く恋愛初期の心躍る気分を味わっていたいならば、みんな自分のようにすればいい、と。欲望の赴くままに逢瀬を重ねることを避け、ゆっくりと時間をかけてお互いのことを理解していき、そして、確実に愛情を育んでいけばいい、と。
 しかし、そんな簡単なことが分からずに、恋愛の手順を急ピッチで進めたがる女もいる。冴子が今から会う幼馴染の好江は、まさにその典型のような女だった。
 店のドアを通り抜けると、冴子はざっと店内を見回した。深夜だというのに、客はかなり入っている。冴子と同年くらいの若いカップルの姿もあれば、下品に声を高くして笑い合う中年のおばさんたちもいる。かと思えば、見るからに未成年の男女グループが、タバコを片手に酒を飲む姿をも見ることができた。
 冴子が不快そうに眉根を寄せた時、店の一番奥の席から手を降る女の姿が目に入ってきた。肩くらいまでの髪を無造作に後ろで一つに結わえ、化粧はまったくしておらず、その表情はくすんでいて覇気が全く感じられない。お世辞でも、冴子と同じ二十五才の若い女にはとても見えない。それが好江だった。
 まあしかし、それなりの格好をすれば、そこそこ美しくなりそうな容貌を好江は持っている。目元は柔らかく優しげなので、彼女をタイプだと言う男もいないではないだろう。しかし、今のだらけた姿の彼女を見て、恋に落ちる男など万に一人もいるはずがない。
 軽く肩をすくめると、冴子は好江の待つ席へと足早に向かい、来ていたオフホワイトのコートを脱ぐと、彼女の向かいの席に腰を下ろした。
「久しぶりね。その様子を見る限り、また男にフラれたの?」
 特大のフルーツパフェをつついていた好江は、情けない顔をして冴子を見た。
「そんな、会った早々に嫌なこと言わなくてもいいじゃない。でも、その通りよ。また彼氏に捨てられた」
「あんたがわたしを呼び出す時って、いつもそうだもんね。それでなに? またグチを聞いてもらいたいの?」
「その通りよ」
 好江は口にパフェをどんどんつめこみながら涙目で言う。
「どうしてあたしって、こんなに男運が悪いのかしら。ううっ。ねえ、冴子、どうしてだと思う?!」
 言いながら、好江は店員を呼び出すためのボタンを押した。やってきたウェイトレスに、メニューを見もせずに注文をする。
「カツ丼とシーザーサラダ、それから杏仁豆腐の追加ね。冴子はなに頼む?」
「わたしはコーヒー」
 軽く頭を下げてウェイトレスが去った後、うんざりしたように冴子は言った。
「相変わらず、男に捨てられると自棄食いするのね」
「そうでもしないと、気持ちが落ち着かないのよ。悲しくて頭が変になりそうだわ」
「……どうでもいいけど、いくら会う相手がわたしだからって、外出する時はもっとマシな格好ができないの? そのヨレヨレのトレーナー、いったいどこで買ったのよ」
「だって…」
 冴子は紙ナフキンで目頭を押さえた。
「あたし、今日彼氏にフラれたのよ。家に帰って散々泣いて、顔がぐしゃぐしゃになったからお風呂に入って楽な部屋着に着替えたの。それがこれ。去年のバーゲンで買った一枚八百円のトレーナー。安いでしょ? その後はもう化粧する気力もなくて、そのまま車に飛び乗ってここに来たの。冴子、来てくれてありがとう」
「どういたしまして」
「もしかして、デートの途中だった? 冴子ってばモテるものね。あたしと違ってきれいだし」
 それに対して答えようと冴子が口を開きかけた時、先ほどのウェイトレスがコーヒーを持ってやってきた。すかさず好江が、それまで飲んでいたオレンジジュースのお代りを追加注文する。
 とにかく好江はよく食べる。特に男に捨てられた後のその勢いには、目を見張るものがあった。そして、どんなに食べ物を消化させても、体重は一グラムも増えないのだ。どちらかと言えば、もう少し太った方がいいと思えるほどの体型をいつも保持している。
 それに比べると、冴子は食べれば食べただけ体重が増すタイプである。なので、体重管理には常日ごろ細心の注意を払っていて、好江のように食べても太らない体質の女に羨望の思いを抱くとともに、苛立ちさえもおぼえてしまうのだ。
 だから、大食いしている好江を見ていると、自然と表情が険しくなってしまう。冴子は好江から目を反らすと、コーヒーにミルクを落としながら努めて無表情に言った。
「それで、今度の男はどんなやつだったの?」
「それがね、あたし二股かけられてたの」
 パフェを口に運ぶ手を休めることなく、好江は言う。
「最低でしょう?! 顔はなかなかかっこよくて、性格もとても優しかったの。あたし、今度こそはと思ってたのに! あいつったら、あたしと付き合う前から相手の女とも付き合ってたのよ」
「浮気されてること、全然気づかなかったの?」
「もちろん気づいてたわ。っていうか、そういう女がいるって彼本人から聞いて知っていたのよ。でも、その女への気持ちはとうになくなっていて、何度も別れ話をしているって。だけど女のほうはまだ彼が好きらしくて、なかなか上手く別れられない。でも、なるべく早くに手を切るから、だから付き合って欲しいって。今はあたしのことが好きなんだって。そう言われたのよ。だから、あたしは彼を信じてずっと待っていたの。それなのに…」
 鼻をすすっていた好江は、バッグからポケットティッシュを取り出すと、下品な音をたてて豪快に鼻をかんだ。
「それなのに、付き合って三ヵ月も経ったところで、やっぱり向こうが本命だった、なんて言うのよ。酷いでしょ! 酷すぎるわよねぇ?!」
 テーブルに顔をうつぶせて、好江は泣きはじめた。が、しかし、冴子は慰める気にもなれない。
 確かに二股をかけた男は悪い。好江の言う通り、酷い男だと思う。しかし、だまされた好江のほうにも問題があると冴子は思うのだ。
 冷静に考えれば分かることではないか。もし男が前の女と本気で別れたいと願っていたのなら、どんな手を使ってでも別れることができる。例え相手が泣いてすがってこようがなにしようが、やってできないわけがない。それをしなかったということは、想いが完全に断ち切れていない証拠である。そんな男と付き合うなんて、どうかしている。
 前の彼女のことを男から告白された時、好江はこう言うべきだったのだ。その女と別れることがきたら付き合う、と。そうすれば、その後の男の行動によって、彼の真意を確かめることができたのに。遊びで好江と付き合おうとしていたことに、事前に気づくことができたのに。
 それができなかったから、好江はだまされた。時間をかけることなく、彼氏ができるかもしれないチャンスに浅ましくも飛びついたりするものだから、結局は男にもてあそばれた上に捨てられてしまい、負う必要のない傷に心を痛めなければならなくなったのだ。
 涙を拭き、パフェの残りをまたつつき始めた好江を、冴子は少し軽蔑の色を浮かべた目で見つめた。
 昔から好江はそうだった。同じようなことを何度経験しても、まったく成長しない。何度も何度も同じことを繰り返す。
 好江は寂しがり屋だ。男がいないと不安でならないらしい。だから相手がいない時、いつもモノ欲しそうな顔をしている。もちろん、男だってそのことに気づく。だから、遊ぶにはもってこいの相手として認識され、軽く声をかけられる。そして、好江はそんな男たちの目論見に気づくことなく、満面の笑顔で嬉しそうにそれを受け入れるのだ。
 好江だって、たまにはまともな相手と恋に落ち、普通に付き合うこともある。そんな場合でも、その交際が長続きすることはない。なぜかというと、それは好江が尽くす女だからである。これでもか、というくらい誠心誠意男に尽くし、そして媚へつらう。最初のうちは喜んでいた男も、しだいに好江に飽きてくる。あるいは、ウザイとさえ思うようになってくる。好江にそんなつもりがなくても、その行動が相手に束縛を感じさせることもあるのだ。
 その結果として、男から別れを切り出されてしまうことになる。好江が悪いわけではないのかもしれないが、こればかりは仕方がない。男がそれを判断し、決定してしまうのだから。
 そしてまた、好江は尽くす女というだけではなく、殴られる女でもあった。
 どんな理由があろうとも、女に手をあげる男はクズだと冴子は思う。しかし、そう思う冴子でさえ、好江を殴った男を一方的に悪くは思えない。どちらかと言うと、同情さえしてしまう。なぜならば、男に好江を殴らせているのは、他でもない好江自身だからである。
 相手の顔色を伺うあまり、嫌われたくないあまり、男の我儘をすべて許す。なにを言われても、決してノーとは言わない。そのことが男を増長させるのである。どんなにいい人間だって、自分を神様みたいに崇めてくる相手に対しては、気づかぬうちに態度が大きくなってしまうものだ。最初はどんなに些細なことであったとしても、日増しにそれはエスカレートしていく。温厚だった男はいつしか命令口調で物を言うようになり、ついには平気で怒鳴りつけるようになる。そして、挙句の果てが暴力だ。
 きっと、男のほうもそんな自分に嫌気がさしてくるのだろう。しかし、好江といる限り、自分を止めることは困難である。一度ついてしまった悪癖も、失われてしまった相手への尊敬の気持ちも、そう簡単に元に戻すことはできないのだ。
 だから男は去っていく。そして、好江は言うのだ。
「あたしは男運が悪い」
 男運が悪いわけではない。好江が男を悪くしているのである。ある意味、好江は男を悪い方に成長させる天才だと冴子は思う。たまにいるのだ、こういう女が。そして彼女たちは、自分のなにが悪いのかを少しも理解していない。理解しようともしない。だから、同じことを何度も懲りずに繰り返す。
 そして、言うのだ。
「あたしは男運が悪い」
 そういう女たちに、冴子は憤りを感じずにはいられない。
 思い返せば、好江は小学生の頃から人をイライラさせる子供だった。これといった個性もなければ、他の子と比べ、特別に突起した才能を持っていたわけでもない。だからいつも不安そうにしていて、クラスの人気者の後ろを金魚の糞のようについて歩いていた。彼らに気に入られて同じグループ入れてもらおうと、顔にはいつも愛想笑いを浮かべ、媚びへつらっていた。
 そういう態度は、人を無性に苛つかせるものである。だから好江は、結局どこのグループにも受け入れられず、みんなと一緒にいてもやはり一人でいるようなものだった。要するに、浮いていたのである。
 幼馴染である冴子も、同じ理由から好江をかまわなかった。話しかけられれば普通に話しをするが、その程度のことである。
 そもそも、冴子と好江は性格が違いすぎる。話をしても会話が続かない。だから、どうしても親友にはなれなかった。それでも、幼稚園に通っていた幼い頃は、二人はよく遊んだものである。家が近所で母親同士が仲がよく、同い年の女の子というだけで、冴子も好江が好きだった。互いの家をよく行き来し合った。
 しかし、それも小学生になると変わってくる。自我が芽生え、自分と相性のいい子を友達に選ぶようになる。学年が上がるに従って、二人の関係は自然と希薄になっていった。しかし、苛つくからといって、冴子が好江をイジメたりすることはない。いや、冴子だけではない、クラスの誰一人として、好江をイジメる子はいなかった。
 確かに好江は言いたいことをハッキリと言えず、いつもグズグズしていて、友達の少ない子だった。しかし、性格はとても優しく、クラスで飼っていたメダカの面倒を最後までみていたのは好江だったし、登下校中の下級生の手を引き、笑顔で引率していたのも好江だった。雨の中に捨てられている仔犬がかわいそうだと言い、雨があがるまでずっとそばで傘をさしてあげていたのを冴子は知っている。他にも、昼休みに養護学級に出向き、そこの子供たちとよく一緒に遊んであげたりもしていた。
 誰に言われたわけでもなく、好江はそういうことを自然とすることのできる子だった。みんなそれを知っていた。だから、好江をイジメる者は誰一人としていなかった。
 好きではない。見ていると苛つく。しかし、憎めないし嫌いにもなれない子。それが好江だった。
 そして、そういうところは、二十五才になった今でも変わっていないのだ。
「ねえ、猫どうなった? まだバレてない?」
 冴子が声をかけると、好江は口に掻きこんでいたカツ丼を顔から離し、軽く小首を傾げた。
「猫?」
「そう。この前会った時、捨て猫を拾ったって言ってたでしょ。ペット不可のアパートだから、大家さんに見つかると追い出されるって。大丈夫なの?」
 途端に好江は笑顔になった。
「うん、まだ大家さんにはバレてない。あの子、ずい分大きくなったわよ。怪我してた足もすっかり治ったし。ただ、骨が曲がってしまっているから、ビッコはひいたままなんだけどね。今ではもう、なくてはならないあたしの大切な同居人」
「バレたらどうするつもり?」
「その時はアパート出るしかないわね。家賃高くなるだろうけど、ペット飼っていい物件を探すわ」
「そう…」
 唇の端にご飯粒をつけた間抜けな顔で笑う好江。それを見る冴子の目が穏やかに和む。
 好江はいい子だ。滅多に出会えないくらいに優しく、思いやりと深い情の持ち主である。だから冴子も、決して好きではないし気が合うわけでもないのに、男にふられたから話しを聞いて欲しいと電話で呼び出されると、ついそれに応じてしまう。
 男から見て、付き合う彼女として考えると好江は最悪かもしれない。でも、結婚したらきっと最高の伴侶になる。深い愛情で子供を育て慈しむ母親になり、思いやりの心を忘れずに夫を影から支えることのできる妻になる。冴子はそう思った。
「あんたさぁ、早く相手見つけて結婚しなさいよ」
 冴子が言うと、好江は肩を下げてうなだれた。
「そりゃ、あたしだってしたいわよ。早婚が夢だったんだもの。でも、相手が見つからなくて。ほら、あたしって男運が悪いから」
「お見合いでもしたら?」
「話を持ってきてくれる人がいないわよ。…でも、そうね、お見合いもいいかもしれない。あと五年もしたら、嫌でも上司が誰か紹介してくるようになるかもしれないし。よーし、そうなった時のためにも、お金を貯めとかなきゃね」
「そうよ。そう考えて、あんたを捨てた男のことなんてさっさと忘れちゃいなさい。ホラ、どんどん食べて。明日は会社も休みだし、今夜はとことん付き合ってあげるから」
 好江は感激したように、目を涙で潤ませた。
「冴子…ありがとう。本当にありがとう。冴子のおかげだわ。何度男に捨てられて辛い想いをしても、自殺もせずになんとかやってこれたのは。本当にありがとう。あたし、心から感謝してる」
 一瞬頬を染めると、冴子はふんと鼻をならした。
「はいはい、もういいから早くそれ食べちゃいなさい。次はなにを食べるの? どんどん注文していいわよ。支払いはわたしも半分もってあげるから」
「ホント? 助かる! 実は男に散々貢いじゃって、お財布の中身がピンチだったの」
 無邪気な顔をして嬉しそうにメニューをのぞいている好江を見て、冴子は気づかれないように小さく苦笑した。

 好江は幸せになるべき人間だ。
 だからどうか神様、いつかはこの子を幸せしてやって下さい。そうなるまで、わたしは何度でも自棄食いに付き合いますから。

 心の奥底でこっそりとそう呟いたのだった。

■ 目次

Novel Editor by BS CGI Rental
Novel Collections