もう闘気なんて欠片も残っていない。
やはり人間が悪魔と、それも中級悪魔と対等に渡り合うなんて事は無理な話だった。 正義のヒーローは最後まで全力を振り絞り、最後の最後で強大な悪を討ち滅ぼす。それがヒーロー物語の定説だ。しかし正義のヒーローも、時に邪悪な力の前に打ちのめされ、時には仲間が命を落とす事だってある。 正義のヒーローだって人間だ。何でも出来る訳ではない。 まして自分には超能力なんて持っていない。全てを打ち砕く魔法なんて使えない。ましてや最強の聖剣や魔剣なんてものも持っていない。 当然だ。自分はただの人間なのだ。傷つけば血を流し、時には涙し、あっけなく死んでしまう、ただの脆い人間。 しかも、ファナやクラウドとは違う。自分は半人前の闘士。 二人の様な力も闘気もない。得意の頭脳ですらこの悪魔の前には赤子同然だろう。 今だって目の前の悪魔なら、自分など蟻を踏み潰すよりも簡単に、かつ正確に、そして完膚無きまでに殺してしまえるであろう。
戦闘開始から約十分。それなのにこの悪魔があえてそれをしないのは、やはり圧倒的な力の差からくる余裕か、それとも慢心なのか。 常にセレナから離れた状態で、悪魔フィードは薄く笑っていた。 「どうかしたのかね、セレナ君?動きが遅くなったが?」 「煩い!!喰らえ!!」 これで既に何度目だろう。 大気から水を作り、それを刃に変えて敵に飛ばす。 もうあまり巨大な闘術が使えない状態のセレナにできる、ほんのわずかな、言ってみれば無駄な足掻き。 「無駄だ。いくら君が闘気を振り絞ろうが、それは私の復元能力に追いつかなければ全くの意味を成さない」 彼の言っている事は本当だ。 先程からこれを何度繰り返すものの、フィードの体に傷を付けるのはわずかに一、二発のみ。しかもそれは彼の、悪魔特有の復元能力で無駄に終わる。 「……少々君を過大評価していたようだ。やはり君はただの人間」 「はぁ…はぁ…はぁ…」 息が荒い。肩が重い。 セレナの瞳に、絶望が過ぎる。 やはり自分は、ヒーローにはなれないのであろうか。 自分は闘士ではない。ヒーローだ。だからこそここまで戦ってこれた。 けれどそんな自分が彼のただならぬ殺意に怖気づいていた責で、最も慕っていた人が捕まって、それすら自分の手で奪還もできず、こうして悪魔に殺されようとしている。 「もはやこれまで、か?ヒーローというのも、大した事ではなかったな」 「くそっ……」 それだけは言わせたくない。 それだけは言わせてはならない。 悪魔の言葉に、わずかに残っている彼女の闘志の炎が、彼女の今にも崩れそうな足に、ほんの少しだけ力を与える。 しかしそれもわずか。彼女はそのまま立つのが精一杯だった。 無理もない。彼が一つ力を出せば、それこそファナやクラウドなど足元にも及ばない、魔姫モードのティセをも超える力を、いとも容易く出せるのだ。 「さて、そろそろ止めと行くか……」 止め。 それを聞くや否や、彼女の顔から笑みが零れる。 このとき、フィードは彼女のこの笑みに、何かを感じ取るべきだったのだ。 しかし勝利の気分に酔いしれたこの男に、何を言っても無駄なのだろう。 さっと右手を掲げ、攻撃態勢に入るフィード。 「安心したまえ、君はただ地獄の入り口で待っていればいい。後で魔姫とあのレナという少女も、それに聖職者も一緒に送っていく」 その時、彼の右手から、辺りの大気をも黒く染め上げてしまうほどの、凶悪なオーラが溢れ、それがセレナの頬を掠める。 少女の白く綺麗な肌が裂け、そこから血が流れるが、彼女は気にしない。 「そしたらあの男と貴公子も、一緒に送っておいて……」 「……喋るな」 「?」 立ち上がり、尚もハッタリを行うセレナ。 自分にはこれしかできない。 今の自分には、ハッタリをし続け、時間を稼ぐ事が本業なのだ。 後は、二人がなんとかしてくれる。 「それ以上喋るな。ボクはイライラしているんだ」 「成る程……そんなに先に逝きたいか!!?」 そしてそれは終わった。 尚も膨れ上がる凶悪な力を前に、これほどまでに強気でいられた人間がかつていたであろうか。それも、こんな小さな少女に。 彼の額から皴がよる。 この少女だけは、ここで生かしておく訳にはいかない。 フィードの体に眠る、悪魔特有の感性が、そう告げていた。 「死ね、ヒーロー!!!」 そして手を振りかざし、邪悪なオーラを彼女に向けて、一気に放射した。
その時であった。 「セレナちゃん!!」 「何!!?」
最も聞きたかった人の声と、今自分を殺そうとしていた男の驚きの声が重なり、セレナは驚きと喜びを一度に味わった。 「馬鹿な……魔姫の牢獄を破ったのか!?」 「ティセお姉ちゃん!!?」 そして自分が慕う姉の姿を確認すると、次に辺りを見渡し、今度はその姉を助けた友人の姿を確認して、改めて彼女はほっと胸を撫で下ろす。 だが安心はできない。作戦はここからだ。 今の体で出来る事、そしてやらなければならない事。 それは、自分が一番よく分かっている。 「フハハハ、だが聖職者よ、君はどうやら選択を誤ったようだ」 「!?」 すると、シィルの眉が攣りあがる。 それを見て、フィードは彼女に向かい、人差し指を一本突き出して彼女に突きつける。 「恐らくその聖典、後一発しか撃てない」 「……!!?」 冷たい汗を額に垂らし、シィルは表情を歪める。
そこでセレナは悟った。 シィルはティセを助ける為に、後二発しか使えない聖典の力を、一度使ってしまったのだ。これで彼女に残された力は都合一発のみとなる。 これは既に博打の境地をも超えていた。 「図星だな?それならもはや私の負けはあり得ない。魔姫はもはや半分の力も出せないだろうしな」 そうだ。 ティセの力が魔姫モードであったからこそ、さっきのフィードの攻撃を防げたものの、彼女の力は既に半分くらいしか出せない状態であった。 それで彼女の顔から笑みが消えかかるが、同時にセレナの顔には笑みが戻る。 そしてセレナは次に、シィルと見てふと口を開く。 「シィル、作戦開始」 「……OK」 「??」 それを見て不思議がるティセであったが、シィルの目を見て何かを感じ取ったのか、彼女もまたシィルを見て、薄っすらと綺麗な笑みを返す。 そしてその光景を見て、顔が怒りに歪む悪魔。 「まだやると言うのか?正直しつこい!!」 そしてその瞬間、 三人が其々散り、シィルとティセが斜め後ろに、そしてセレナが前方から、水の闘気を刃に変えて、彼に向かって放つ。 先程と何も変らない。ただの水の刃だ。 それを軽く避けると、次にティセが襲い掛かる。 「魔姫の力か……だがそんなものは無意味だ!!」 以前は圧倒的な魔姫の力によって危うく負けてしまう所だったが、今の力が半減されてしまっているティセの力など、彼には通用しない。 結果、先程から彼女の攻撃は、彼の復元能力によって意味を成さなくなっていた。 「別に無意味ではありませんよ」 そして彼女の細腕から繰り出される強力なパンチ。 それでも、彼は片手で難なく受け止める事ができた。 どれほどティセに魔姫の力が備わっているとしても、今の傷ついた彼女に出せる力は先日の約半分程度しかない。それでは完全にフィードの復元能力の方が勝ってしまう。 しかしこのとき、ティセはほのかに笑っていた。 「だって、私が止めを刺す訳ではありませんし」 「何!!?」 呟きが聞こえると次の瞬間、 とてつもない力の波動が、悪魔に向かって一直線に進んでいく。 するとティセが離れ、遠くに逃げる。 そして、次の瞬間、
ズガァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァン……
圧倒的なまでの力の波動が、まるでレーザー光線の様に悪魔を襲い掛かり、壁に激突すると、とてつもない爆発が起こる。 そして洞窟の土が混じった煙が巻き、辺りを包み込む。 その中で聞こえたのは、悪魔の笑い声であった。 「ハハ……アハハハ、惜しかったなヒーロー。君の作戦は崩れ去ったようだ。」 彼は避けきった。 右の肩から腕をやられたが、彼には些細なことだ。 所詮、悪魔の復元能力の前には、どのような攻撃も通じないのだから。
「残念だったな聖職者よ、あとほんの数センチ……」 勝利を確信した悪魔が笑いながら後ろを振り返ると、彼の目に薄青い髪の、実は最も彼が恐れていたヒーローの姿が映っていた。
――……!?しまっ……
「行けぇ、シィルーーーーっっっ!!!!」
悪魔の驚愕に満ちた表情と共に、小さなヒーローの叫びが聞こえる。 そして急いで前を向くが、遅かった。 目の前には、今度こそ強力な、それも先程の攻撃をも超える、聖なる力が凝縮され、レーザーとなって悪魔を襲った。 「ぐああああああああぁぁぁぁーーーーーーーーーーーー!!!!」
ズガガガガガガガガァァァァァァァァァァァァァァン……
巨大な土煙と共に、力は悪魔を吹き飛ばした。 壁に激突し、白い力は拡散する。 薄目を開けながらなんとか前を向くと、彼の目の前には、黒い髪の聖職者が小さな口一杯にチョコを加えたまま立っていた。 それを見て全身傷だらけになった悪魔は、その青白い顔に未だ驚愕の色を浮かべたまま、ゆっくりと小さなヒーローを見て呟く。 「さっきのは……聖典では……なかったのか……?」 その言葉に、勝利を確信しているのか、セレナは笑って答えた。 「そうだよ。あれはボクがそれに似せて、レーザーとして撃った闘気の塊。でもそのおかげで、全闘気使い果たしたけどね」 セレナの作戦は成功と言ってよかった。
彼女には力はない。まして頭脳も悪魔に劣る。 ならば、逆にそれを利用したのだ。 悪魔は、最初はこの少女が止めと刺すのだと思い、魔姫にやられ、危うく滅ぼされてしまう所でなんとか彼女に勝った。 しかし彼の誤算は、聖職者シィルの存在を、一瞬でも忘れていた事にある。 後一発しか撃てない。それは逆に言えば、後一発なら撃てる、という事だ。 その事を、慢心していたこの悪魔は計算に入れていなかったのだ。 完全に彼は、このちっぽけなヒーローに騙された、という事になる。
だが、それで終わりならば、この男は悪魔を名乗る資格などない。 「成る程……面白い少女だ」 「嘘……」 その姿に、ティセを除く二人が驚愕する。 無理もない。今のはシィルが放った中でも一撃必殺の部類に入る。 故に、どんなに強大な悪魔の力とあっても、まさか直撃を喰らって立ち上がるなんて思っていなかったからだ。 「復元能力も半端ではありませんね。さすが中級悪魔です」 ティセは確信していたらしく、すぐさま戦闘体制に入る。 しかし男は振り返ると、薄っすら笑った。 「いや、君達と戦う気は、既にない」 「「「!!??」」」 この男が、何を言っているのか、三人は分からなかった。 この悪魔が本気を出せば、それこそこの三人など、まるで赤子の手を捻るかの如く、容易に殺せてしまえるであろう。 しかし男はあえてそれをせず、薄っすらと笑うと、今度はセレナを見る。 「もう既に契約は切れているし、何より、セレナと言ったな」 「??」 名を呼ばれ、一歩前に出るセレナ。 すると、頭を片手で押さえ、溜息をつくフィード。
「君には驚いた。たかが人間とはいえ、悪魔さえも平気で騙す女に勝てる訳がなかろう?これで十年後があると思うと恐ろしくて適わぬ。フフ……」
――いや……それ、全く嬉しくない…… 額から冷たい汗を浮かべて唖然とするが、こんな認め方をされても、彼女には全然嬉しくない。むしろ悲しい思いまでしてくる。 「さて、私は魔界に帰るが……私はこの時を永遠に忘れない」 「!?」 それを聞いた瞬間、 セレナの脳裏に、嫌な予感が過ぎってきた。 「これから魔界中に伝えなければな、悪魔をも騙し得る人間の名を……たしかヒーロー、セレナと言ったな……覚えておこう」 「ちょっと、変な伝え方しないでよ?」 苦笑して忠告はしたものの、そんな伝え方をしたら、彼女は魔界中の悪魔達から、一体どれ程の脅威として恐れられるであろう。 しかし、それが逆にヒーローとしては気持ちがいい。 やはり強力な悪に逆に恐れられてこそ、彼女の目指すヒーローなのだから。 「フフ……さらばだ、ヒーロー」 薄っすらと笑みを浮かべ、闇の中へ消えるフィード。 体は砂に変り、ノエルの風に吹かれて遠くへと舞っていく。 その光景を見て、改めて勝利の余韻を味わうと、ほっと溜息をつくシィル。 「強かったですね……」 「うん」 ティセの言葉に、彼女は強く頷いた。
すると急に、そんなティセの体に衝撃が走る。 突然セレナがタックルし、彼女に抱きついてきたからだ。 「ティセお姉ちゃん、ボク頑張ったよ!」 「セレナちゃん……」 弱い声を出して彼女を見るティセ。 すると彼女も、そんなティセを見て、じわりと目を潤ませる。 「……ごめんね。ボクがお姉ちゃんを守れてたら、こんなにお姉ちゃんが苦しむ事なかったのに……本当に、本当にごめんね!」 そこでティセは、自分が一番大切な事を忘れていた事に気づいた。 自分がいなくても皆が幸せになれるだなんて、嘘だった。 自分はもう少しで、これほどまでに自分を慕い、こんな自分を好きでいてくれるこの少女を、不幸にしてしまう所だった。 その間違いを正してくれたのは他でもない。自分の親友だ。 その親友を人目見て、改めて笑みを取り戻すティセ。 「もういいんです。そんな事……」 優しく頭を撫で、まるで天使のような笑みを浮かべるティセ。 魔姫であっても、醜い穢れた存在であっても、この少女にとって自分はティセであり、同時に、姉でもある。 そんな彼女の、この好意を無駄にすることは、ティセにはできなかった。 「でも……」 しかしセレナにはそれが、逆にとても優しすぎた。 彼女は自分の失敗でティセが捕まり、結局ティセに頼らなければ、悪魔を騙す事もできなく、そしてまた逃がしてしまった。 それは偏に、彼女の作戦が上手く行かなかった事になる。 それを、この女性は許そうと言うのだ。 一つの失敗で、多くの悲しみを生むことを知っていたセレナには、そんなティセの優しさが時には痛く感じられた。 しかし、彼女はこうも思っていた。 これこそがティセだ。これこそが自分が慕う姉なのだ、と。 そう思うと、自然と彼女の表情にも、本来の可愛らしい笑みが零れる。 ヒーローから少女に変わった瞬間であった。 「ううん。じゃあ行こう。早く行かないとクラウドが負けちゃう!」 ティセの腕を引っ張り急かすセレナ。 後はクラウドだけだ、と言っているかのようであった。 「そうですね。シィル、行きましょう」 「うん」 その姿を見て、セレナは安心した。 これで皆して帰れる。これで誰も死なずに凱旋できると。
これでクラウドが悲しむ心配はない、と。
この時、セレナはこういったクラウドへの心配が、彼に対する好意だという事に、まだ知る由もなかっただろう。幼い時から戦場を駆け抜け、恋というものを知らずに育ったセレナからして、それは当然なのだが。 あるいは、心のどこかで否定しているのかもしれない。 そうなればこの二人が傷つくと、心の中で否定しているのかもしれない。 複雑な心を持ったヒーローは、それを忘れる為に二人を急かし、牢獄を後にした。
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