時刻は既に夜になり、皆が寝静まった頃、未だにとある安い宿の一室だけは、まだほんのりと灯りが灯っていた。 一人は茶色の綺麗な長い髪を梳かしたティセという少女と、薄青く、肩まで掛かった綺麗な髪をしたセレナという少女は、一つしかないベッドを仲良く分ける。 「さて、もう寝ましょうか」 「う、うん」 そう言って先にティセが布団の中に入る。 そして早く布団の中に入ってこないセレナを見て、やはり恥ずかしいのだろうか、と一人で思いながら、ティセは優しく笑いかける。 しかし当のセレナは未だ薄暗い顔をしていた。 「さて、おやすみなさい」 「うん……おやすみなさい」 セレナはそう言って、灯りを消す。 辺りは一面真っ暗。ティセは寝つきが良く、すぐに夢の世界に入ってしまわれた様子。 「よし、今だ」 暗殺には絶好の機会。 セレナは懐に持った、影の男から渡された銀のナイフを持つと、そっとティセを見て更に暗い顔をする。
――この人を殺せば…… ――この人さえ殺せば……
思えばティセは彼女を可愛がっていた。 出会いは偶然。セレナが盗賊に襲われ、攫われるフリをしていた所に、何の躊躇いもなくティセが助けに来てくれたのだ。 そして何の抵抗もなく自分を拾ってくれ、こうして今も一緒にいる。
――早くしろ。 ――早くこいつを殺して…… ――お母さんを……
「……」 ナイフを持った手から汗が滲む。 呼吸が乱れ、彼女の額から冷たい汗が流れる。
――早くしろ、セレナ!! ――こいつが死ねば、お母さんが戻ってくるんだ。 ――こいつが死ねば、こんな女さえいなくなれば……
自分に言い聞かせ、罵倒し、それでも動かない自分の至らなさ、葛藤、倫理と真剣に格闘するセレナ。 「……」 ふと、ティセの寝顔を見て、彼女の動きが止まる。 その瞬間、彼女は何かを振り払おうとするかの如く、三回首を左右に振って懸命に己の心を殺そうとしていた。 このナイフを持ってこの少女さえ殺せば、その時自分は魔姫殺しのセレナとしてファナをも越える英雄になるのだ。
――お母さんだって…喜んで……
もうこれ以上は待てない。彼女の中にある闘志の心がそう言い聞かせるのか、セレナはまたも闘士の、戦士の表情をし、ティセの体に馬乗りになる。 「……ごめんね、ティセさん」 セレナはいくつもの葛藤と戦い続け、ようやく決着が着いたところだった。 ――迷いはない。今なら殺せる。 彼女は天を見上げ、両手に持ったナイフを振り上げる。 「さよなら!」 そして振り上げようとした瞬間、 声が聞こえた。
『ヒーローは、困っている人の為に、悪い人を倒すのが役目なの』 『セレナがもしヒーローと呼ばれたら、こう言ってやりなさい』 『私は罪の無い人を悪から守る。それがヒーローである私の当然の役目なんだ、とね』
そして直後、 彼女がナイフを突き立てたのは、ただの白い枕であった。
暗闇に男が立っている。 オールバックに筋骨隆々の大きな男は、手に鋼の手甲と、背中に巨大な剣を背負い、その表情は、まさに見るものを圧倒していた。 「やったよ」 ふと少女の声が聞こえる。 男が振り返ると、そこには薄青く短い髪に、クラウドが付けているのに似たグローブを手に填めている少女だった。 「そうか。ご苦労だったなセレナ」 「うん。かなり苦労したよ、バドロフ」 仕事用なのか、いかにも少女らしくない笑みを浮かべてセレナは呟く。 男、バドロフは軽い笑みを浮かべると、そっと背中の剣を下ろす。 セレナはそれが分かっていたのか、あえて笑い返した。 「そう来ると思ってたよ。ボクを口封じに消すつもり?」 「あいにくだがな。悪く思わないでくれ」 ――別にいい…… セレナはそう思っていた。 それはむしろ、彼女にとっては諦めに近い。 彼女の仕事は暗殺や戦闘の道具。闘士としての修行で身につけた身体能力で、ありとあらゆる魔族や権力者、果ては女性や子供まで殺してきた。 だからいずれ、口封じに自分が殺されるなんて事は分かっていた。 それは別に彼女には分かっていたので、やることは簡単だ。 まず彼を殺し、すぐにファナの本拠地に乗り込み、地下牢に囚われている自分の母を助け出すだけだ。今のセレナにとっては至極簡単な事だ。 しかし男は剣を抜くと、思い出したかのように話し出した。 「そうそう。忘れていたよ」 「?」 ふと彼が思い出した一つの話。
「君の母親、たしかマリーとか言っていたな」 それはなんの変哲もない、一つの話題。 しかしそれはセレナにとって、ある一つの絶望を呼び寄せるのには物凄く効果的な手段であった。 思わずセレナの顔がこわばる。 「それ…が……」 聞きたくない。 彼女にとってとても聞きたくない言葉。 「その女はな……」 それだけで分かる。 その言葉の次に、どのような言葉が飛ぶのか。 いや、それは自分が口封じに殺される事を知ってから、いずれはこんな結末になるだろうと、予め最悪の予測はしていた。 ――嘘だ! セレナが心の中で強く叫び、そして望んだ。 彼女には母親がいたから。だから今日まで戦ってこれた。だから今日まで恐い事も、死にそうな目に会っても、生き抜いてこれた。 だから嘘であって欲しい。 しかし男の嘲笑は、そんな純粋な彼女の思いを、無残にも打ち砕いた。 これは事実だ、と。 「先日、ファナ様に意見したので……」 その瞬間、 彼女の気は臨界点を越えた。
――その先は言わせない。 ――その先を貴様が言う事は許さない!
彼女の両手から、青く輝く気が流れ出す。 男は剣を持って構えると、薄っすらと彼女を嘲笑する。 さしずめ、哀れな道化人形としか見ていないのだろう。 だからこそ、なのだろうか、
――それ以上言ったら殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス!!!!!!!!!!!!!
怒りさえも既に臨界点を越え、彼女の表情がまるで、感情そのものがなくなってしまったかのような、冷たいものになっていく。 そしてバドロフが最後の言葉を告げようとした瞬間、 「私が始末しておい……」 「バドロフゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥーーーーーーーーーーーーっっっっ!!!!!!」 セレナの両手から現れた水流がバドロフ目掛けて、まるでレーザー光線のような形になって飛んでくる。 そしてそれすら既に計算に入れていたのか、すぐさま己の大きな剣で彼女の水流を跳ね返した後、すぐにお得意の嘲笑うかのような表情になる。 「何だ行き成り。貴様だって分かっていたと言っていたろう?」 「お前は……お前だけは……」 あまりの絶望に涙すら出てこない。 すぐさま思考を切り替え、バドロフを殺す事に全神経を集中させるセレナ。 遠距離攻撃では捕らえられない。ならば格闘で行くしかない。 セレナは剣を持つ相手と戦うのは慣れている。今までにも槍を持った相手、斧を構えた相手や魔術師、彼みたく、巨大な剣を扱う騎士と戦った事だってある。 サイドステップを踏むと、一気にバドロフの懐へ駆け寄った。 文句の言い様もない完璧な間合い。 一足一刀の剣の間合いではなく、拳で争う者同士の打撃の間合い。 それすらも、 「あがっ!」 バドロフの巨大な膝蹴りによって防がれてしまった。 腹部の中心を蹴られ、地面に蹲る少女の頭を、バドロフと言う男は問答無用に自分の足で踏み、彼女を苦しめる。口を切ったのか、唇から血が流れる。 悔しかった。 闘術でも駄目。格闘でも駄目。 こうなる事が分かっていれば、もっと早く自分の母親を救い出していればよかった。そうすれば自分の母親は、もっと長くこの世に生きていただろう。 「こうなる事は分かっていた。だから一人でも寂しくないように、貴様の母親を先に送っておいたのだ。感謝してほしいくらいだ」 「くっ……がぁぁ……」 足で踏まれ、地面に顔を叩きつけられ、セレナは悔しさで身が張り裂けそうだった。 自然と、彼女の両目から、綺麗な涙が零れる。 悔しかった。 この男さえも殺せず、そして母親までも殺されたのだから。
――なんて……惨め……
「安心しろ。すぐに後を追わせてやる。ファナ様の寛大な心遣いだ。寧ろ盛大なる感謝を込めて、あの世に逝ってほしいものだ」 巨大な剣を突きたて、切っ先を彼女の頚動脈がある首に持っていくと、バドロフは勝利を確信し、ついに大声を出して笑い出した。
自分は何の為にこんな事をしていたのだろうか。 愛する母を救う。その為にこの小さな少女は色々な奴を殺した。時には女性も子供も殺して、皆に軽蔑されていても、お母さんさえいればそれだけでよかった。 色々な男達の慰み者にもされて、何人もの男達に苦しくて痛い事もいっぱいされて、それでも彼女には母親だけが希望だった。
――なのに……これじゃ何の為に……
「アハハハハハ。俺は優しいだろ?貴様にはあの女と違って、何の苦痛もなく死なせてあげられるのだからな。アハハハハハ!!!」 男は暫く高笑いを続ける。 本当なら貴様に、自分の欲望をぶつける事も可能なのだ。 そう言っているかのようだった。 恐らく、彼女の母親はこの男に、思い切り己の欲望をぶつけられ、穢れた姿のままであの世へと行ってしまったのだろう。少なくとも、セレナはそう捉えてしまい、あまりの悔しさで、怒りすら沸かなくなってしまった。 怒りによっていくばくかの力が戻ったが、この男にそんな些細な事態で勝てるほど甘くはなかった。セレナの周りに徐々に死が迫っていた。 「まぁ、もう貴様の体を楽しめないのは残念だがな…」 あまつさえ、そんな言葉さえも吐き捨てていた。 もはや戦闘意欲までなくなり、全てを諦める。 ――お母さん…ごめんね…… ――ボク、すぐにそっちに行くよ……
――後でティセお姉ちゃんにも謝らなきゃ…… ティセを思い、セレナが軽く目を閉じ、自分の死を覚悟した直後、
「アハハ、こんな夜更けに幼女虐待ですか?」
一つの少女の声がした。
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