446さんからの問いかけ 450 2006/07/28 02:22:54 ├446さんへ。 450 2006/07/28 05:10:21 ├@朝日(阿弥陀仏)を見たことのない夜の闇... 450 2006/07/28 05:11:37 │└re:@ 450 2006/07/28 05:43:43 ├A疑情があるままで、”無我に聞かせて頂く... 450 2006/07/28 05:12:23 │└re:A 450 2006/07/28 05:54:53 ├B疑情をもった心で、”阿弥陀仏の成仏を知... 450 2006/07/28 05:13:05 │└re:B 450 2006/07/28 05:56:50 ├C迷いから離れようとしない状態=疑情の晴... 450 2006/07/28 05:13:59 │└re:C 450 2006/07/28 06:03:05 ├D疑情が晴れず、”強引な阿弥陀仏のお慈悲... 450 2006/07/28 05:15:17 │└re:D 450 2006/07/28 06:21:38 └E安心させて頂いたら、疑情が晴れるのです... 450 2006/07/28 05:16:04 └re:E 450 2006/07/28 06:39:03
446さんからの問いかけ [返事を書く] | ||
638 :446:2006/07/23(日) 23:54:36 ID:mAZWkFCq 450さん。こんばんは。 450さんとやり取りをする中で、私自身の疑問がどこなのか、段々見えてきました。 >>598 >疑情を晴らそうとする必要のない本願の真意を聞かせて頂ければよろしいのです。 確認させて下さい。ここで450さんが仰っているのは、 疑情が晴れたら救う、ということでは”ない”ですよね。 だとすると、疑問があります。 >闇が晴れたか晴れていないかを問題にするのではなく、 >朝日が昇ったか昇っていないかを問題にするしかないのです。 朝日(阿弥陀仏)を見たことのない夜の闇(疑情)の凡夫が、 朝日が昇ることを問題にできるでしょうか? >疑情を晴らす必要のない救いを無我に聞かせて頂くしかないのです。 疑情があるままで、”無我に聞かせて頂く”ということはできるのでしょうか? >疑情が晴れたか晴れていないかを気にするのではなく、 >「どんな心でもいいよ」と仰せになる阿弥陀仏の成仏を知ればこと足りているわけです。 どんな心でもいいよ、とは有難いお言葉ですが、 疑情をもった心で、”阿弥陀仏の成仏を知”ることはできるのでしょうか? 639 :446:2006/07/23(日) 23:55:47 ID:mAZWkFCq >>613 >迷いから離れようとしない私を、一方的に救い出して下さるんですから強引です。 >その強引な阿弥陀仏のお慈悲をはね付けている状態が、 >疑情の晴れていない状態ということです。 迷いから離れようとしない状態=疑情の晴れていない状態ということですか? つまり、疑情が晴れず、”強引な阿弥陀仏のお慈悲をはね付けている状態”では 救われないということですか? 凡夫の疑情の力は阿弥陀仏の強引さよりも強いのですか? また、迷える凡夫を阿弥陀仏の本願に向かわせるのも阿弥陀仏のお力ですよね。 >>617 >阿弥陀仏は既に成仏されている。 >それを今知らせて頂いた上は、私の往生は間違いないと安心させて頂く。 >これが闇が晴れたこと。疑情が晴れたこと。 安心させて頂いたら、疑情が晴れるのですか? 鶏が先か、卵が先か?になってしまいそうです。 | ||
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446さんへ。 > >>598 > >疑情を晴らそうとする必要のない本願の真意を聞かせて頂ければよろしいのです。 > 確認させて下さい。ここで450さんが仰っているのは、 > 疑情が晴れたら救う、ということでは”ない”ですよね。 疑情が晴れたら救うということではありません。 > だとすると、疑問があります。 この後の質問は、6つに分けてお答えします。 | ||
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@朝日(阿弥陀仏)を見たことのない夜の闇(疑情)の凡夫が、 朝日が昇ることを問題にできるでしょうか? | ||
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▼ Re: @朝日(阿弥陀仏)を見たことのない夜の闇... [返事を書く] | ||
re:@ > >闇が晴れたか晴れていないかを問題にするのではなく、 > >朝日が昇ったか昇っていないかを問題にするしかないのです。 > 朝日(阿弥陀仏)を見たことのない夜の闇(疑情)の凡夫が、 > 朝日が昇ることを問題にできるでしょうか? 446さんは、阿弥陀仏をご覧になったことがないということですが 本当はご覧になっているんですよ。 446さんは、御名号、御絵像、御木像をご覧になったことはありませんか? 御名号は、六字、九字、十字などがあります。 六字:南無阿弥陀仏 九字:南無不可思議光如来 十字:帰命尽十方無碍光如来 御絵像は、阿弥陀仏の立ち姿を掛け軸に描いたものです。 御木像は、阿弥陀仏の立ち姿をかたどった木製または金属製の立体像です。 御名号、御絵像、御木像は、いづれも阿弥陀仏の方便法身です。 簡単に言うと、私の救いを言葉で伝えていらっしゃるのが御名号。 お姿で伝えていらっしゃるのが御絵像と御木像です。 仏様は、本当は色も形もない方ですが、私が認識できるような姿で 無条件の救いを示して下さっている。これが真宗の御本尊です。 ご縁があって、御本尊と出遇ったこの上は、仏様の「必ず救う!」の御心を 我が支えとして、御仏の心と共に生き抜かせて頂きましょう。 というのが、真宗のご信心です。 | ||
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A疑情があるままで、”無我に聞かせて頂く”ということはできるのでしょうか? | ||
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▼ Re: A疑情があるままで、”無我に聞かせて頂く... [返事を書く] | ||
re:A > >疑情を晴らす必要のない救いを無我に聞かせて頂くしかないのです。 > 疑情があるままで、”無我に聞かせて頂く”ということはできるのでしょうか? 仏様のお育てによってできます。 少々誤解があるようなので・・・ 446さんは、疑情を何か実体のあるものと思っていらっしゃるのではないでしょうか? 阿弥陀仏は、御名号、御絵像、御木像といったお姿で、無条件の救いを 私に喚びかけて続けて下さっているわけです。 その御心を無我に聞いていない状態を「疑い」とか「自力疑心」とか言うわけです。 ですから、喚び声を無我に聞いたことを、疑情が晴れたと言うわけです。 | ||
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B疑情をもった心で、”阿弥陀仏の成仏を知”ることはできるのでしょうか? | ||
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▼ Re: B疑情をもった心で、”阿弥陀仏の成仏を知... [返事を書く] | ||
re:B > >疑情が晴れたか晴れていないかを気にするのではなく、 > >「どんな心でもいいよ」と仰せになる阿弥陀仏の成仏を知ればこと足りているわけです。 > どんな心でもいいよ、とは有難いお言葉ですが、 > 疑情をもった心で、”阿弥陀仏の成仏を知”ることはできるのでしょうか? できます。 re:@に書きましたので、そちらをご覧になって下さい。 | ||
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▼ Re: 446さんからの問いかけ [返事を書く] | ||
C迷いから離れようとしない状態=疑情の晴れていない状態ということですか? | ||
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▼ Re: C迷いから離れようとしない状態=疑情の晴... [返事を書く] | ||
re:C > >迷いから離れようとしない私を、一方的に救い出して下さるんですから強引です。 > >その強引な阿弥陀仏のお慈悲をはね付けている状態が、 > >疑情の晴れていない状態ということです。 > 迷いから離れようとしない状態=疑情の晴れていない状態ということですか? そうではありません。 迷いから離れようとしないのは、信前・信後を通じて変わりません。 疑情が晴れていない状態とは、 阿弥陀仏が「そのままでいいよ」と仰っている無条件の救いをはねつけて 受け付けていない状態を言うんです。 re:Aでも別の表現でご説明していますが、言っていることは同じことです。 | ||
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▼ Re: 446さんからの問いかけ [返事を書く] | ||
D疑情が晴れず、”強引な阿弥陀仏のお慈悲をはね付けている状態”では 救われないということですか? 凡夫の疑情の力は阿弥陀仏の強引さよりも強いのですか? また、迷える凡夫を阿弥陀仏の本願に向かわせるのも阿弥陀仏のお力ですよね。 | ||
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▼ Re: D疑情が晴れず、”強引な阿弥陀仏のお慈悲... [返事を書く] | ||
re:D > つまり、疑情が晴れず、”強引な阿弥陀仏のお慈悲をはね付けている状態”では > 救われないということですか? 救いは既に与えられているのに、それを受け付けていないことを ”強引な阿弥陀仏のお慈悲をはね付けている状態”とも ”疑情が晴れていない”とも言うわけです。 > 凡夫の疑情の力は阿弥陀仏の強引さよりも強いのですか? 阿弥陀仏のお力にはかないませんから、必ず負けることになっているんです。 しかし、凡夫の迷いも深いということです。 その迷い深い私が、何の不思議か、仏縁を結ばせて頂き、無上の法を聞かせて頂いている。 この事実は、阿弥陀仏の御力が私の迷いより大きいことの証拠でしょう。 私たちは、仏力が偉大なればこそ、今こうして仏縁を結んでいるんです。 ただ事ではないのです。 自分が、どれほど迷い深い存在なのかが分からないから、仏力の偉大さも分からない。 それほど、私は迷い深い存在なのです。 その私が、救いの為に何ができるでしょうか? ただ、「そのままおいで」とのお喚び声をそのまま頂くしかないのではないでしょうか? > また、迷える凡夫を阿弥陀仏の本願に向かわせるのも阿弥陀仏のお力ですよね。 そういうことですね。 仏とも法とも知らない無関心の状態に比べれば、阿弥陀仏の本願に向かっているように見えなくもないですが 本質的には、常に仏様に背を向け続けているのが私たちの実相です。 そんな私たちですから、仏様の方から私のいる場所まで出てこられた。 それが、御名号、御絵像、御木像となられた阿弥陀仏の御心です。 仏様が、私のいる所までいらして下さっているのですから、私はそれ以上何もする必要はありません。そのままとただ頂くしかないのです。 | ||
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▼ Re: 446さんからの問いかけ [返事を書く] | ||
E安心させて頂いたら、疑情が晴れるのですか? 鶏が先か、卵が先か?になってしまいそうです。 | ||
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▼ Re: E安心させて頂いたら、疑情が晴れるのです... [返事を書く] | ||
re:E > >阿弥陀仏は既に成仏されている。 > >それを今知らせて頂いた上は、私の往生は間違いないと安心させて頂く。 > >これが闇が晴れたこと。疑情が晴れたこと。 > 安心させて頂いたら、疑情が晴れるのですか? > > 鶏が先か、卵が先か?になってしまいそうです。 阿弥陀仏の喚び声(御名号)を無我に聞かせて頂いた状態を「信心」と言います。 これを「聞即信」と言います。 つまり、聞こえたまんまが他力信心だということです。 ですから、信心を取るとか、信心を獲得するとか言っても、何か特別な心を 貰うものでもないんです。 ただ、喚び声を聞くまでのことなんです。 じゃぁ、耳に聞こえただけでいいのか?ということですが それについては、「信即聞」という言葉で説明されます。 「信即聞」とは、信じた相が本当に聞いたことになるといことです。 この信じた相については、今まで無我に聞くなどといった言葉でお話して きたことになります。 そして、「聞即信、信即聞」の他力の信心の利益として、今生も死後も 安心して生活させて頂くことができることができるのです。 安心感は、ご信心の利益として心に生ずるものだと言えますが、その感情を 正しい信心の証拠とするのは間違いです。 あくまでも、聞こえてきた御名号の独り働きで救われていくので、私の側に 救いの証拠となるものはありえない。 ここが要です。 | ||
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