小説・まんがコミュニティ トップへ
 ようこそゲストさん コミュニティトップへ スレッド一覧へ カテゴリ一覧へ ログイン ユーザー登録

批評あれこれ
投稿者 ふくろう[1]
投稿日時 2005年06月13日(Mon) 19時29分28秒
こんにちは。ここの掲示板には何度かお邪魔させてもらっている、ふくろうです。作品も書かせていただいています。
さて、このスレッドは作家、作品などの批評や感想がメインです。何かコメントしたい感想、批評があったらドシドシ書きこんでください。先駆けとして、まず私から書かせてもらいます。

西尾維新(作家):今、最も乗っていると言っても過言ではない若手作家。主に戯言シリーズを執筆しており、他にも新本格魔法少女りすかや零崎双識の人間試験を出している。第二十三回メフィスト賞受賞作家でもあり、この頃から(私はもっと前だと思ってる)メフィスト賞の方向性が怪しくなったと言われている。
まず、この西尾維新という作家が書いた作品を初めて見たときの私の感想は「うざ過ぎる」ということだった。まるで、村上春樹の悪いところを一行一行確かめて読んでるようだったのだ。戯言シリーズは、クビキリ〜クビシメまでどうにかミステリーに持ち込もうとしていた。しかし、クビツリからは完全に「ライトノベル」を意識して書いている。西尾は、おそらく迷っていたと私は考える。クビキリの時点から、ミステリーとライトノベルの間を行ったり来たりしていたのだから。西尾には、メフィストやファウストという枠がある。電撃や角川では「馬鹿じゃねーの」と言われるような台詞を、「いいんじゃないか」と変えることが可能なのだ。それが西尾の最大の特徴であり、最大の欠点だと思う。
――西尾維新は、春樹チルドレンと言われている。村上春樹と西尾維新の違いは、「気持ち良さと悪さ」にあると思う。春樹の失う感情はこれから頑張ろうと思える気持ちになれる。しかし、西野の場合は完全な自己陶酔に入っており「失う俺ってかっこいい」と。これが私の感じるうざさとなっているのだろう。
だが私は春樹チルドレンという言葉を使うのに抵抗がある。何故なら、上遠野浩平、舞城王太郎、京極夏彦、安井健太郎――彼らや彼ら以外の作家が活躍した90年代には何も残せなかったのだろうか、と考えてしまうからなのである。



全てのレスを表示
投稿者 空想科学者[4]
投稿日時 2005年06月14日(Tue) 02時02分13秒
>「批評」と「批判」は違いますよ。
誰がそんなこと言ってますか?「つまらない」とはその人個人の趣向の問題であり、それ自体はなんら批判ではありません。

ただ、ここの人たちは、ほんの少しでも自分の意見に反したものがくるとヒステリックに反応する人が多いようです。カルシュウム不足なんでしょうか?牛乳をもっと飲みましょう。(^^)/

私は何かに関心するとすぐ書いてしまうクセがございます。
それで、遅ればせながら批評をしましょう。
読まないといいながらも読んではいるのです。数は少ないと思っています。

では、赤川次郎さんをひとつ。
わりとコンスタンスに作品を製造でき、駄作もアル中でも非常に感動する大作も多い方ですね。
短編のミステリーモノは、先が見えてしまうものも多いのですが、どんでん返しにかなりな無理をしている作品も目立ちました。時にアイデアの枯渇かと思わせておいて、「ふたり」のようなシュールな作品を書かれたりする。やはり彼は、天才なのかもしれません。
プロの作家は、コンスタンスに作品を書けなければならりませんから、そういう意味でも彼はプロ中のプロなのでしょう。
ただ、彼の作品は、人間の情念だとか執念などはあまり感じないものが多いのですが、軽くさらっと読める作風が彼らしいのかもしれません。
三毛猫ホームズはその最たるものでしょう。ぜんぜん刑事ものの雰囲気が0にも関わらず、すっと読めてしまい。これといった不満も残らずさらっとしているのが赤川節なのかもしれません。

一方、島田荘司さんは、ミステリーにはおよそ無縁そうな地味な主人公を使って執念深く謎を解かせるあたりは絶妙といえます。
ある意味、リアリティの追求かもしれませんが、御手洗潔にいたっては人物つくりに窮しているのかと思います。占星術に詳しいという意外性はいいのですがやたらと天才に描きすぎてしまい。人間のぬくもりを感じないのです。よって、島田荘司作品では、御手洗よりも牛越刑事や、吉敷刑事の方が断然に魅力的であります。
きっと、島田氏は、金田一幸助や浅見光彦、明智小五郎などに並ぶような名探偵を創造したかったのかもしれません。
残念ながら御手洗潔の知名度は、彼らにはまったくおよびついていません。
と、思いきや、なんとドラマになっていた。主役はなんと吉敷刑事。やっと本物が分かるTV局が現れたというところでしょうか。
彼を主役にした作品の真骨頂はなんといっても「奇想、天を動かす」でしょう。江戸川乱歩を髣髴させる奇想天外ながらも、人間ドラマはどっしりとした情感に訴える骨のある素晴らしい作品でした。
ただその後に出た、長編アトポスにはそういったバイタリティが感じられなかったのが少々惜しいと思いました。大作だと言う人もいますが、ホラーを狙っていないバンパイヤものは評価に苦しむところです。
http://www.tbs.co.jp/program/moon20041206.html

で、ふくろうさんの「うざ過ぎる」という言葉、かなり気になりました。
はっきり申しましょう。それでは批判になっています。ネガティブな言葉を使ってはあまりいい批評とはいえないでしょう。しいていえば、「くどい」くらいにとどめなくてはいけないと思います。(おっと、他人の批評を批評してしまった。

まあ、日本語は難しいですから、常に勉強をおこたらぬようにしたいものですね。

投稿者 緑川潤[5]
投稿日時 2005年06月14日(Tue) 17時47分33秒
空想科学者さん
>誰がそんなこと言ってますか?「つまらない」とはその人個人の趣向の問題であり、それ自体はなんら批判ではありません。

なにやら行き違いがあったようですね。
私は空想科学者さんが「批評はつまらない作品を読まなければできない」と仰っているのかと勘違いし、それは批評ではなく批判なのではないかと思ったのです。
失礼しました。

>ただ、ここの人たちは、ほんの少しでも自分の意見に反したものがくるとヒステリックに反応する人が多いようです。カルシュウム不足なんでしょうか?牛乳をもっと飲みましょう。(^^)/

私の書き込みがヒステリックに見えたのであればそれはそれで別に良いのですが(私自身では冷静であると思っていますが)、そのような書き込みを多数受ける方には問題はありませんか?
空想科学者さんの仰るヒステリックな書き込み、誰もが受けているものなのでしょうか。
また、他のスレッドなどにおいて最近で一番感情的な、或は挑発的な書き込みをされているのは空想科学者さんではないかと私は、思います。

>私は何かに関心するとすぐ書いてしまうクセがございます。

関心……感心、でしょうか。
不特定多数の目に触れる場ですので、クセでは済まないことが生じてくることもなきにしもあらずかと。お気をつけ下さい。

さて、ここから本題です。
今更と思われようが、既に語り尽くされていると思われようが、村上春樹さんの作品について語りたいと思います。とはいっても、この数ヶ月で手当り次第に乱読しただけですので全く系統立てたことは分からず、批評というよりは感想に近いです。
彼の作品は読めば読むほど奥が深いと思います。複数の作品に繰り返し現れる断片がそれぞれにイメージを深めあって独特の味わいを増していきます。羊男、図書館、井戸、無声、などなど。噛めば噛むほど味が出てくるのです。同じ小道具が使われ、若い女性は「女の子」と表現し、主人公もだいたい同じような独特の雰囲気を持つ男性。こう言ってしまうととてものっぺりとした作品群のように見えるのですが、そんなことはないのです。一作一作にそれぞれ異なるモチーフがあって、それぞれに異なる世界を創っているのです。ですから一作だけ読んでも十分楽しめます。
ただ、何かを理解しようとして読んだら、何も残らない作品になるかもしれません。残らないどころか、消化不良ですっきりしない取り残されたような気持ちで読み終えることになるかもしれません。彼の作品からは何かを感じるものだと思います。
ところで彼の作品の中で「海辺のカフカ」だけは少々別にして扱いたいと、私は思います。主人公の年齢が若いということで、自分を少し離れたところに置いて読むことができたためかもしれません。あるいは何かしらの違いがあるのかもしれません。主人公の精神的な成熟度はかなり高いので物足りないこともありませんでした。

以上が、村上春樹さんについて殆ど何も知らず、彼の文学について系統立てたものを何一つ知らない緑川潤という人間が、彼の作品を読んで感じ、考えたことです。

投稿者 ふくろう[6]
投稿日時 2005年06月15日(Wed) 19時19分00秒
思ったよりも、書き込みが来ていて嬉しかったふくろうです。
ふむ、ちょっと波紋を呼んでいますがここに書き込みを続けているうちにそれはなくなると思ってます。“それ”が当たり前になれば、大丈夫なのですから。
では、批評を行いたいと思います。

ファウスト Vol5(文芸誌)西尾維新、滝本竜彦、佐藤友哉、舞城王太郎、上遠野浩平などなどこれ以上はないというぐらい濃い作家が作品を書いており、『戦うイラストーリーマガジン』ということをモットーにしている文芸誌。電撃hpや角川スニーカーブックなどとは、目指している場所が違うであろう文芸誌なのだ。
Vol5には、上遠野浩平と西尾維新の対談がありました。――ですが、割とどうでもいい感じでした。いやマジで。しいて言えば、嬉しがっている西尾維新を見れるというぐらいでしょうか。私の目的は舞城王太郎が描いた漫画だったのです。何で小説家なのに漫画を描くんだよォー、ということは置いて。絵は下手だったのですが、
「み」
「見事」
「とか言ってる場合じゃねー!」
このセリフで、舞城が何を考えているのか分からなくなった。舞城は原作になればいいんじゃないだろうか。何このギャグ漫画? と、言われることは受け合いなしなのだろうけど。「み」「見事」「とか言ってる場合じゃない!」これで随分、印象が変わりますよマジでマジで。

次の批評予定は、綾辻行人です。無理だ。

投稿者 ふくろう[7]
投稿日時 2005年06月19日(Sun) 11時47分30秒
せっせか、せっせかと書いて作品を更新したふくろうです。自分の文を見てみましたが「読みにくいなー」と。二千文字ぐらいも改行しなけりゃ、そりゃあね。では批評に行きましょうか。

十角館の殺人(作品)――評価、A:この作品は綾辻行人のデビュー作です。島田壮司の推薦を受けてこの作品でデビューを果たし、本格ミステリ暗黒時代と言われていた時代に、本格ミステリの人気を復活させたのです。それからは、「新本格」「綾辻行人以降」などといわれるぐらいの影響力を与えました。
読んだ感想はさすが、というのが第一でしたね。スラスラと読める割には飽きない文章、「なるほど。こうだったか」と納得させることのできるトリック、「ええー、まさかこいつが」と思わせることができる、被害者の順番と犯人の正体。そして、「嘘だろう」という感じの今や綾辻の得意技である、大ドンデン返し。さすが暗黒ミステリを終わらせただけの作品ではあるなと思いました。――しかし、何かが物足りない。漠然とした何かだけど物足りない。それは気のせいかも知れませんが、私はそう思いました。ですがかなり楽しめる作品だと思うので、是非読んでみてください。十年以上前の作品なので、100円ぐらいで買えるかも。私は105円で買いました。

九十九十九(作品)現段階での評価――?:この作品が人類の思考回路で理解できるかどうか、分かりません。理解するには聖書を全部読み、清涼院流水のコズミックかジョーカーを読了することが条件でしょう。私はおそらく、30%ぐらいしか理解できてません。そして、1500円払いました。あれ? 何でだおかしいな。涙が出てくるよちくしょう舞城の野郎。

投稿者 ふくろう[8]
投稿日時 2005年06月27日(Mon) 19時23分07秒
最近よく、「ニートになりたい」と言っているふくろうです。何もしないとか最高じゃね? まあそれはさておき、作品の批評ないし感想に入りたいと思います。

九十九十九(作品)――評価、現段階ではB:私はこの作品を読了してしまった。――ある作家が書いた作品を一冊も読まずに、だ。
その作家の名前は清涼院流水。コズミックで第二回メフィスト賞を受賞し、デビューした作家である。そのコズミックという作品は、JDC(日本探偵倶楽部)なるものを発足させた核となっている作品である。そして九十九十九も、JDCへと放たれた作品だ。そこまではいい。
しかし九十九十九は、清涼院流水の作品と聖書を下敷きにして成り立っている作品なのだ。確かに九十九十九単体だけでも、それなりに楽しめる。だが最低でも、コズミックを読んでいなければ九十九十九を理解し、そして衝撃を受けることはできないという訳だ。私は、コズミックを読まずに(聖書は読む気が起きない)九十九十九を読了してしまったのだ。確かに、面白かった。内容もある程度は理解できた。だが、凄まじい衝撃はなかった。超絶メタ探偵九十九十九が、何故、清涼院流水なのか。何故、清涼院流水の作品に出てくる幻影城が登場するのか――私は九十九十九を読了することによって、それをある程度理解できた。だがそれ以上は進めなかったのだ。だから私は、これからコズミックを読もうとしているのだが。何だ。その、超だるい。しかし、私には秘策がある。文章を斜めに読むことによって、一気に一ページ読めるその名も、流水読み(別名斜め読み)。
それでも読む気がしないのはきっと、九十九十九を買うために1500円払ったからだと思うんだよね。

投稿者 緑川潤[9]
投稿日時 2005年07月02日(Sat) 04時14分10秒
最近お前はニートのようなものだと言われ、激切れした緑川潤です。ニートではありません。が、ニート同様社会的発言権は無いようです。やはり権利を行使するには責任を果たさなければならないのですね。
と、スレ違いの発言はここまでにして、本を読んだ感想です。

「インストール」「蹴りたい背中」
以前まとめてマスコミが大騒ぎしていた作品です。というか、マスコミが騒いでいたのは作者に対してなのだと思いますが。最近になってようやく図書館で借りて読みました。
2作品をまとめてしまうのは作者さんに対してすごく失礼な気もするのですが、漠然と感じたことは割と共通しているのでまとめてしまいます。
とても読みやすかったです。どちらも一気に読めました。そして、理解しやすかった。難解な言葉や長い情景描写は流行らないのかなぁと思いました。だからといって内容も単純で薄っぺらいわけではないんですよ。感情を言葉で表現するのって難しいと思うのですが、それをさらりと書いている感じで。特に「蹴りたい背中」の最初の文などは、こう来たか、と思いました。
と、やたらと褒めておきながらも、私は買わなくてもいいなとも思いました。
この感じ、私は必要としていないといいますか、手元には置かなくてもいいな、と。
年齢的に高校生とはかけ離れてしまっているせいか、相性の問題かは分かりませんが。
ところでこの2冊の売り上げ部数を見て、そのうちの何割くらいが正当な扱いを受けているのだろうと思います。どれだけ優れた本だったとしてもやはりその本を必要とする人の数には限りがあるものでしょうから。まあ、本の内容如何に関わらず「話題作」という本を必要としている人も、いるわけですけれども。
と、放置されて不当に埃をかぶっているかもしれない本のことを、勝手に憂慮したりしています。
それでは随分と話が逸れてしまいましたが、この辺りで失礼します。

投稿者 ふくろう[10]
投稿日時 2005年07月10日(Sun) 19時06分18秒
ブックオフで買った、翻訳小説がとんでもなくつまらなくて積んでいるふくろうです。30Pまで読んで、主人公である男と女が結婚してヤるとかどういう展開だ。いや、翻訳者が悪いのもあるかもしれないけど、つまらなすぎる。どうしようもない。
しかし今回の批評は違う本なのであしからず。

フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人(作品)――評価、C:第二十一回メフィスト賞受賞作品。作者は、ユヤタンの愛称で(一部に)親しまれている佐藤友哉です。
まず、このユヤタン(いちいち本名を打つのが面倒)という作家は読むのをためらわせる作家なのかもしれない、と私は思う。私もユヤタンの名前を聞いていたし、フリッカー式や他の作品も知っていた。ファウストという文芸誌を拠点に活動をしていることも分かる。だけど、今日まで私はユヤタンの作品を読まなかった。いや、読めなかったのかもしれない。それはユヤタンという作家の「作品テーゼ」にあると思う。まず、ユヤタンの作品は基本的に狂っている。壊れている。そして、リアルな絶望がある。戯言シリーズよりも、よほど鬱になれると思う(滝本竜彦のネガティブ・ハッピー・チェーンソー・エッヂは別として)。
一部の人はそれが嫌で、ユヤタンを読むのを躊躇するのだろう。雰囲気に抵抗を持っているのだ。しかし、私はユヤタンの作品に惹かれてしまった。そして、読んだ。二時間余りでフリッカー式を。文章としてはよくまとまっている。おそらくは、村上春樹の影響を受けているだろう。物語のストーリー(妹をレイプされたことから始まる)に反して、実に真っ直ぐな文章だ。だけどこれは、超能力というものがあるのかないのかをはっきりさせて欲しい。人それぞれだろうが、キャラの狂いっぷりや鬱になれる気持もいまいちだった。乙一の方が鬱になれるというものである。しかし、次も読みたいという気持にさせる作家なのだ、ユヤタンは。不思議な魅力を持っている作家なのだ。それが一部で崇拝されている、理由なのだろう。

投稿者 ふくろう[11]
投稿日時 2005年07月17日(Sun) 21時58分42秒
舞城王太郎の「煙か土か食い物」が読みたいのに、図書館にもブックオフにもありません。好き好き大好き超愛してるとか、どうでもいいんだよー!
まあそんなこんなで、感想に入ります。

天使は探偵 スキー探偵大鳥安寿(作品)――評価、B:バイバイ、エンジェルや哲学者の密室、天啓の宴などの作品を出している笠井潔という作家の作品。小説を書くだけではなく、作品の批評も書いたりと色々多才な作家である。主に、メフィストという文芸誌で作品を執筆している。
まずこの作品は笠井潔が、スキーにはまってしまったために書いた作品なのだろう。50歳を超えた辺りでスキーを始めて、「スキーこそ我が人生」とか言っているお茶目な人なんです。小説には何人かミステリー作家兼スキーヤーが出てきますが、「至高のミステリ小説を書くにはスキーをしなければならない」とか言っている辺り、笠井は天然なんでしょう。
肝心の推理ですが、スキーと危険なコースがあるゲレンデ、人を運ぶリフトというギミックをふんだんに使っている魅力的な推理が楽しめます。それだけのギミックがあれば、推理に魅力を感じなくなってしまうのですが、笠井の場合はそうではない。ヒョードル・ドストエフスキーの影響を受けているのか、人物間の思想的な対話のように、推理する探偵と真犯人との対決の中にそれを盛り込ませるものである。故に、ギミックを使いながらも決して推理の方はおろそかにしないのだ。笠井が他に書いている、矢吹駆が登場する推理小説は恐ろしく読みにくいが、これはかなり柔らかい文章で構成されている。柔らかいのだが、どこか重圧を感じさせる文章なのには変わりないが。
しかし笠井潔は、何なのだろうか。電子メールを打って送った相手に、手書きの手紙で「電子メールを送ったのですが届いたでしょうか」と送る笠井は、きっと天然なのだろう。スキー的思考とか分からん。

次回の感想予定は、村上春樹の「羊をめぐる冒険」です。上と下を同時に書きたいと思っています。いや、海辺のカフカが読みたいんだけどね。

投稿者 ふくろう[12]
投稿日時 2005年07月24日(Sun) 00時07分51秒
図書館から小説を三冊借りてきたふくろうです。二週間以内に、読めるのか私。笠井が入っているからきついかもしれない。
そんなこんなで批評です。

羊をめぐる冒険(上下巻)――評価、B:風の歌を聴け、1973年のピンボールと続きこの羊をめぐる冒険で「僕」の七十年代は終わる。という三部作仕立ての作品の最後に当たる作品です。そして、鼠と「僕」の物語も終わり後には何も残らない。作者は村上春樹。
この作品は羊を主旋律に置いて、その羊を巡り「僕」が色々な人物を巻き込みつつ、ふらふらと彷徨っていくという物語です。まず、この作品では春樹特有のナルシズムの扱いに、春樹自身も慣れてきたのでしょう。かなり読みやすい文章となっています。
――春樹はものすっごくナルシストで、また男根主義者なのですよ。自分のことしか考えてなくって、小説内の女の子も自分を映す鏡として使っている。それゆえに春樹は物語の末尾に「自分に意見を言ってくれる女の子」を登場させるのです。これが一番わかりやすく描かれているのが『国境の南、太陽の西』なのですが、どうやら春樹は自分のナルシズムに自覚的で女の子に最後こういわせています。「あなたはいつもわたしに意見を求めないわ」「いい考えだと思う。でも、あなたはまだわたしに尋ねていないわ。一度も」
しかし、今回の彼女は何も言わずに「僕」の元から去っていった。これはある意味ナルシズムに対して、どこかケリをつけたいと思っていたのではないか、と思うのですが「国境の南、太陽の西」ではそのナルシズムが全面的に出ている。故に、読みにくいと。
だがナルシズムがない春樹など、ただの二流作家だ。それこそ何の意味もない。

次の感想は……まあ、適当に読んだ本の感想を書きます。

全てのレスを表示