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視点について
投稿者 ぬん[1]
投稿日時 2005年06月04日(Sat) 16時47分58秒
初めまして。
ところで、作品を創る上での視点について、疑問があります。
視点は、主に、@一人称視点、A特定人物視点、B物語的視点、C超越的視点、の4つに分類されると思います。
次に、簡単に説明をさせていただきますね。
@一人称視点は、「私」の視点から描かれますね。すると心理描写は「私」についてのみとなります。
A特定人物視点は、一人称であっても三人称であっても、特定の人物の視点から描かれ、心理描写もその特定人物に限られます。
B物語的視点では、作品の外部に「語り手」が設けられ、その「語り手」の視点から描写されるわけですから、当然登場人物の心理描写はなされません。
そこで、語り手の視点から、登場人物の心理まで描こうとする場合、C超越的視点となります。しかし、近代あるいは現代小説にはほとんど見られない手法だと思います。もっとも、私の読書量が少ないせいで、私が知らないだけかもしれませんが……

私の場合、特定人物の視点から(主人公の視点から)三人称で描くことが多いのですが、その「特定人物」が変化してしまうことがしばしばあります。すなわち、他の人物の心理描写をしてしまい、特定人物の逆転が起こる、ということです。それも、場面が切り替わったと共にそれが起こるのではなく、一つのまとまった場面の中でそのようなことをしてしまうのです。その理由は、他の人物の心理描写をしたいから、というものなんですが……
こんなことをしていると、読み手には、まるで途中で主人公が変わってしまったかのような印象を与えることになるんじゃないかと危惧しています。あるいはルール違反ではないのか、と。あるいは、仮に「これは超越的視点なのだ」ということにしたとしても、現代小説としては違和感があり受け入れられないのではないか、とも考えてしまいます。
実際、どうなんでしょう???このことについて、どなたかご意見お願いします。




投稿者 空想科学者[2]
投稿日時 2005年06月04日(Sat) 20時11分44秒
ぬん さんの悩みはたぶん誰もがもっているものです。

小説では一定の法則があることはうすうす感じてはいますが実際書くとそうかけないのです。
これはドラマや映画、漫画、お芝居の影響が強いからだと思います。

ようは場面があちこちで変わるとついていけなくなるんですよ。
だから、一番いいのは、今、ご存知のことをふまえ、素人作家さんの文章を読んでみてください。

すると、おや!と感じるはずです。
例えば好きな小説があるとします。自分がなぜその小説を好きになったかを考えてみてください。「主人公に共感したから」といった答えがでるでしょう。
では、なぜ共感できたのか?それは作者の書き方がそうなっているからです。
これがいろいろな視点や思いをえがいたらおかしくなります。

例えば、Aという主人公がBという友人にあいます。なかのよい友達です。
しかし、BはAのことが全部許せるわけではありません。今、Aの視点で描かれていたとして、BがAのあることが嫌いなのを、セリフで言ったとしましょう。そして場はまずくなり、BはAから去っていきます。
この後が問題です。
あくまでもAの視点で、なんでBがそんなこと急にを言ったのかを考える心理を描けばいいですが・・・・
Bが走り去った後の行動や、Bの心理を書いてしまうと、みょうちくりんな展開です。
読者はAに一体化していたのに、急にAにはみえもしないBの行動がみえてはおかしいですよね。
そんな感じで、Aに関わる人が出るたびにそんな描写をしていたら、話はわけわからなくなります。

S・キングのミザリーは、主人公ポール・シェルダンの視点で描いていますが、主語は、僕や私ではなく、第三者が彼やポールと描写しています。
恐怖の看護婦の行動についてはあくまでもポールが見えるまたは音などを聞ける範囲でのみ描写されてます。
だからこそ恐怖をいっしょになって体感できるのです。
これが映画のように両方を描いたら、怖さも半減します。
だから相手の動きをあくまでも主人公の視点から描くことができればすばらしい小説が描けると思います。
わたしは今、その特訓?中です。自分のおかしい文章の原因がそこにあったのですが、なかなかなおせないです。

投稿者 ぬん[3]
投稿日時 2005年06月04日(Sat) 21時43分15秒
>ぬん さんの悩みはたぶん誰もがもっているものです。
なるほど、そうでしたか。

>例えば好きな小説があるとします。自分がなぜその小説を好きになったかを考えてみてください。「主人公に共感したから」といった答えがでるでしょう。
はい、確かにそうです。

>読者はAに一体化していたのに、急にAにはみえもしないBの行動がみえてはおかしいですよね。
ふむふむ、そうですね。では逆に、Bの行動あるいは心理がBの視点から明らかになったとしたら、読者は謎が解けたような気になり、すっきりとしたりはしないでしょうか?しかし、このことが「共感」以上に有効かどうかは考えるところですが……

>だからこそ恐怖をいっしょになって体感できるのです。
>これが映画のように両方を描いたら、怖さも半減します。
仰る通りですね、ホラーに関しては考えたことがありませんでした。

>わたしは今、その特訓?中です。自分のおかしい文章の原因がそこにあったのですが、なかなかなおせないです。
そうですよね、わかっているのになかなか直せないもんですね。
何故か。私の場合、手の内を全て明かしたい衝動に駆られるのです。せっかく蓄えた知識、せっかく考えた詳細、全てを作中に出したくなるのです。それは主人公以外の内面も同様です。しかし、日本の文学は元来、「隠す」ことを良しとしていましたね。全てだすのははしたない、三流文学なのだ、と高校時代の恩師の言葉が蘇ってきます。

また、別の視点になるのですが、私は社会科教育の教授法を学んでいたときに、子どもたちに答えを教えない、という手がありました。その対象に関わる間接的な情報を与えて考えさせ、解決できずにもやもやしてるところで授業を終わらせる、というやり方です。良し悪しは別として、この方法は子どもたちを引き付け、興味を持続させる、という効果があるように思います。
小説にしても、同じことなのでは、と今思いました。

なんだか話がずれてしまった気がしないでもないです。申し訳ないです。
ですが、空想科学者さんのおかげで、このようなことを思い出しました。また、貴重な意見お聞かせくださって、本当にありがとうございました。

投稿者 空想科学者[4]
投稿日時 2005年06月05日(Sun) 01時10分12秒
解決されたようなのですがひとつだけレスを

>Bの行動あるいは心理がBの視点から明らかになったとしたら、読者は謎が解けたような気になり、すっきりとしたりはしないでしょうか?

だから見せ方なんです。
Aの視点で描いてもBのそれは描けます。
AがBの心近しい人をたまたま知り、その人に聞いたり、あるいは日常のひょんなことからそれを見つけさせればいいのです。

けれども同時刻の進行下でそれを説明しちゃうと興ざめするのです。

でもこれって描くにはかなりなテクを要します。
だけど、いいものを描きたいなら挑戦しなければ・・・

お金をかけた映画が興行的にこえる場合が多々あります。逆にロッキーのように超低予算映画が大ヒットしたりします。
原因のひとつは、脚本、次に演出。俳優の資質。キャスティングなどでしょうか。で、一番失敗するのが、お金をかけたセットやCG(特殊撮影)なんかをこれみよがしに多用することです。
STORYが命なのだから金がかかったセットを長々写しては興ざめです。
編集でたくみに切る決断が必要です。

いい作品、伝わる作品とは情報の肉が適度にそがれているんものなのです。
>でもこれって難しいな、理屈でわかってはいてもなかなかできない。

投稿者 ぬん[5]
投稿日時 2005年06月05日(Sun) 12時08分52秒
書き込みありがとうございます。

>だから見せ方なんです。
>Aの視点で描いてもBのそれは描けます。
>AがBの心近しい人をたまたま知り、その人に聞いたり、あるいは日常のひょんなことからそれを見つけさせればいいのです。
すみません、私の説明が下手でした。
空想科学者さんが「描ける」とおっしゃっているのは「Bの行動」ですよね。ええ、それは描けるはずです。
私が聞きたかったのは、もっぱら「Bの心理」のほうでした。
こちらは、どうやっても描けませんよね、Aの視点からでは。
例えば、Aが他から情報を得て、Bの気もちを知ったとします。
しかしそれは結局のところ、Bの心理描写にはなり得ません。Aの解釈だからです。あえて文章にするのならば、「Aは『Bが○○と思った』と思った」ということを指すので、Aという人間のフィルター(あるいは情報を与えた人間のフィルターも場合によっては考えられるでしょう)を通してAの視点で描かれたBの心理、つまりちょっと考えると、それはA自身の心理描写に還元されることに気付くはずです。

行動は誰の目から見ても、見間違いがない限り「事実」です。しかし、心理は、他人の目を通してしまったのならたちまちその人のものとならざるを得ません。たとえ心理学者が分析したとしてもそれは「真」にはなり得ません。

そこで私は、Bの視点からBの心理を、その人だけの真実を描きたいと思うのです。しかし、前にも申した通り、それはおかしいのではないか、小説の禁忌(?)なのではないか、と考えるわけです。

スティーブンソンの『ジーキル博士とハイド氏』では、最後に、「ジキルの詳細な陳述書」という形で、別視点から、すなわちジキル博士の視点から彼の内面まで描かれています。つまり、「陳述書」を小道具として視点を転換させています。
私としては、なんとなく興ざめしてしまったのも事実ですが、本来の視点ではない「ジキル博士」の視点を持ってくることで、二重人格に苦しむ心理を描いた、という点で評価されるべき作品なのだと思います。
単に、客観的にジキルとハイドに為り変わる一人の人間を見つめていたとしたら、恐怖こそあれ、心に残るものはなかったのでは、と思うのです。

投稿者 空想科学者[6]
投稿日時 2005年06月05日(Sun) 18時28分42秒
表面にとらわれずに深く読んでください。
>空想科学者さんが「描ける」とおっしゃっているのは「Bの行動」ですよね。
>ええ、それは描けるはずです。
>私が聞きたかったのは、もっぱら「Bの心理」のほうでした。

私が申しあげているのは、行動から心理を読み取るのです。
証言をきくことで、証言者がBの思いを述べるかもしれませんが、それも答えではない。Aがいきつく答えは、Aが知るBのことと、新たに知ったBのこと、そこからBの本質を知るA(読者)が、Bがとった行動の理由を知りえるわけです。
みなさんだってそういう経験があるでしょう。
天才、天才とよばれていた人が実はコツコツと努力する人だったとか・・・・

その後、その結論をBに言うかそれとも言わずに、自分の非の部分のみを謝り、笑ってすませるかです。
これは賢い読者なら、AはBの心を受け取めたと読むはずです。
まあ、どう読んでもいいのですが。作者はそうしむけたいでしょう。

Bの真実はそれとは違うかもしれませんが、お話はそれでいいのです。
我々が他人を理解するときすべてはわかることはできません。
相手とつきあうとき、誰も相手を完全に理解はしていないでしょう。
ぬんさんの家族、恋人、友人・・・・一人として心理を理解できてますでしょうか?
どうあわせればいいかがわかれば人とつきあえるのです。
完全理解などしてはいけません。
相手のプライバシーに立ち入りすぎては親友ではなくなります。
いい折り合いが長く付き合うベストチョイスです。
お互いを高めあう親友ならばそうならなければいけないと思うのです。

投稿者 ぬん[7]
投稿日時 2005年06月05日(Sun) 19時13分30秒
>我々が他人を理解するときすべてはわかることはできません。
>相手とつきあうとき、誰も相手を完全に理解はしていないでしょう。

この考え方には大いに賛成です。
スレッドのタイトルとはずれた話になるのですが、よろしければ読んでください。

「完全理解などしてはいけません」というよりも、完全理解は不可能と考えられますね。人間の、食べる、寝る、などという次元は誰もが共有している欲求ですが、思想のレベルまで話が及ぶと、完全一致ということはまずありえません。同じ考えを共有していたとしても、多かれ少なかれ必ずズレは存在するはずです。
しかし、人間は他人に理解されたい、という哀れな願望を持っているはずです。たとえそれが無意識下の欲求であったとしても。
そこで、「そんなの無理」と可能性を否定されたとき、しょうがないと思える人間と絶望を体験する人間の二つにわかれる気がします。
そして、後者の人間は、不可能とわかっていながらも不断の努力をするのかもしれません。

小説を書く、ということは、いわばカタルシス効果を求めているのではないか、と私は思うのです。
しかもそれを他人に読んで欲しいという願望は、先に述べた「理解されたい」という欲求に帰属されるのかもしれません。
小説の登場人物は、多かれ少なかれ自分の分身(多元的な意味での)であると思います。
ですから、Aの気持ちもわかって欲しい、Bの気持ちもわかってほしい、というわがままが私の中に生まれてくるのかもしれません。
エンターテイナーとして考えるならおそらく失格です。自分のために書いているようなもんですから。
小説というもののあり方を私はわかっていなかったのかもしれません。

投稿者 空想科学者[8]
投稿日時 2005年06月05日(Sun) 20時44分35秒
ぬんさん
>エンターテイナーとして考えるならおそらく失格です。
そこまで大げさに考えずともよいのではないでしょうか?

>自分のために書いているようなもんですから。
誰しも自分のために書くのだと思います。
それを生業にしている人も、自分が生活をおくるためにこうやったら他人が読めるだろうと、そうなれば売れて自分に収入がはいるだろうと・・・
趣味ならば、物語を書くことで、自分が癒されるのならそれもいいでしょう。

>小説というもののあり方を私はわかっていなかったのかもしれません。
えーと、独り言でよければ別にWEBに書く必要もないのです。
こういったBBSで他人に意見を求める必要すらないでしょう。
ネットにつながらないPCの中だけにただうちこめばいいでしょう。

誰かに読んでほしい、共感をもってほしいからネットに書いているのですよね。だったら、読み手のことを考えましょうってだけです。

他のスレッドにも書きましたが、人に読ませたいなら勉強して、読めるものを提供してください。

先ごろ、有名漫画の映画が公開され、脚本、キャスティング、俳優の力量、特殊効果のチープさ、制作費から酷評をあびている映画があります。
残念なことに監督さんも病気でなくなってしまわれ、さんさんたる状態です。映画がクランクアップしたときのスタッフや出演者の感想は、これ以上にない賛辞でした。
ですが、実際にその映像を見た多くの観客は(私も見ましたが)、日本史上最低の映画とこきおろされています。
決して、自分の満足が他人に受け入れられるとは限らない典型例です。
原作はすばらしかった。ですが、脚色されたものは監督と脚本家の作品です。
彼らは、最高の出来だと賛辞してましたが、本気だとしたら映画人の生命すら失いかねない暴言です。誰一人、満足していないのです。

同じ原作者の別の漫画を、アニメーターの人が監督して映画をつくりましたが、こちらはそれなりに面白いと評価を受けています。私も見ましたが、お金のかかった自主制作映画みたいで、面白い映画をつくりたい映画魂を感じました。

これは個人主義の論理を考えてください。自分のためにすることはまわりまわって人のためになるように努力することです。
自分だけのためは、利己主義と申します。

投稿者 ぬん[9]
投稿日時 2005年06月05日(Sun) 22時21分37秒
空想科学者さんへ

>えーと、独り言でよければ別にWEBに書く必要もないのです。
>こういったBBSで他人に意見を求める必要すらないでしょう。
>ネットにつながらないPCの中だけにただうちこめばいいでしょう。
いえ、つまりはあなたにお手を煩わせたことに対するお詫びの気持ちを込めたまでです。

>他のスレッドにも書きましたが、人に読ませたいなら勉強して、読めるものを提供してください。
ええ、ですから私はネット上ですら公表しませんね。

いろいろ意見ありがとうございました。
ちなみに、空想科学者さんの作品を拝見させていただきたいと思うのですが。検索かけても出てこなかったので、よろしければお教え願いたいのですが。