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よければ参考にさせてください!
投稿者 里喜[1]
投稿日時 2005年02月17日(Thu) 16時55分54秒
はじめまして、里喜といいます。よろしくお願いします。
早速ですが、僕は心の温まるような作品を作りたいと思っています。でも僕だけの経験や考えからだけでは限界があります。そこで、よければ皆さんの「こんな辛いことがあったとき、こんな言葉をかけてもらってとても嬉しかった」というようなお話を聞かせてください。もちろん、「こんなことで悩んでいた」というようお話でもかまいません。よければ是非、参考にさせてください。よろしくお願いします。




投稿者 レッド[2]
投稿日時 2005年02月18日(Fri) 00時32分47秒
里喜さん

レッドです。
取材というわけですね。

心あたたまる・・・

では実話から

これは数々の非行少年たちを更正させ、その子らから実際の父親以上の存在として尊敬された男性と非行少年達のおはなしです。

刑務所とかにはいってながく服役した少年たちのなかで、子供の頃に良心から愛情をもらえずに育ち、暴力沙汰をおこしていたわけなんですが、その男の更正方法はかわってました。ただひたすらに石を磨かせるのです。やがていびつだった石はまるみをおびかがやきさせはなちます。
そして、寄宿舎(といっても男の家だが)の生活は時間にきびしいのですが、徐々に少年達は、自分達を本気でしかってくっれるやさしい男の存在に気づき、やがて人の本当のやさしさの意味をしるのです。
やがて更正した少年達は手に職をもち家族をもち、いつまでもその男を自分の父親と思い続けひたすらに尊敬し、2度と足をふみはずさぬよう精進しつづけているとのだそうです。

ようは愛とは人と人とは真剣に向き合うことだということです。
それにふれたとき、人は人の温かさをしります。

ときには意外性もありでしょう。
自分になんか無関心だと思っていた彼や彼女が実は、自分の長所をかげながらみとめていて、かげながら応援してくれていた(影から支援して助けていた)ことが分かるような時。

劣等感を持ち続けていた人が、些細なことで人から認められたときは、やればできる自信と、人のためにつくすことで自分にも益になると感じたときとかもありますね。

武士の話では・・・
辞せの句をよませてくれてから、介錯してもらえるとか・・・

飢えにくるしみ食べ物をこう人に、まわりの目があるからといいながらもせめて水でもといい、つめたい水は体にわるいからと、白湯をあたえてくれるようなほんのちいさな、だけど相手の体をいたわるような心つかいがあたたかいと感じますね。

どうでしょう、参考になったでしょうか?
いかに相手を尊ぶか・・・・思いやりの心を持ってせっされたとき、人は人を暖かいと感じます。
対応が厳しくても、自分を鍛えるためだというものがわかったらどんなに厳しくても暖かいと人は感じます。

投稿者 里喜[3]
投稿日時 2005年02月20日(Sun) 10時44分02秒
お返事ありがとうございました。とても参考になりました。
『本当の優しさ』、それはもしかしたら、恵まれた生活の中では見つけにくいものなのかもしれませんね。人はもともと持ち合わせているものには価値を感じないものですから。。。

投稿者 レッド[4]
投稿日時 2005年02月21日(Mon) 01時16分21秒
里喜さんへ
>お返事ありがとうございました。とても参考になりました。
そうですか。

>『本当の優しさ』、それはもしかしたら、恵まれた生活の中では見つけにくいものなのかもしれませんね。
それは違います。恵まれている生活というのは経済的にでしょうか?

物質がめぐまれても心が恵まれていない人はたくさんいます。
もし、里喜さん自身が人の温かさを感じたことがないとおっしゃるのであれば、それはもしかすると里喜さんが他人に対して関心がない心のあらわれともとれます。

>人はもともと持ち合わせているものには価値を感じないものですから。。。
それは一理ありますね。
「王子と乞食」という名作はそれを教えてくれます。
でも、それと人の優しさは全然関係ないのではないでしょうか?

モノと愛情が同次元とお考えなのでしたら、確かに、分からないとおっしゃることも理解できます。
金で買う愛情は、果たして里喜さんを満足させる愛情でしょうか?

これを考えたら、何か答えがでないでしょうか?





投稿者 里喜[5]
投稿日時 2005年02月21日(Mon) 17時04分06秒
 恵まれているというのは、経済的なものや家庭的なもの。全てです。心が恵まれていないというのは具体的にどういう人ですか?よければ例をあげて説明してください。
 価値を感じないというのは、『優しさ』が常に生活の中にあり、それ故に『優しさ』があって当然のものと思ってしまうのではないかということです。もちろん全ての人がそうだとはいいません。こんなことに順位をつけるべきではないのかもしれませんが、辛い経験などをしてきた人ほど『優しさ』をより重く、ありがたいものととらえられるのではないでしょうか。僕がいいたいのはそういうことです。

投稿者 レッド[6]
投稿日時 2005年02月21日(Mon) 21時02分06秒
レッドです。
> 恵まれているというのは、経済的なものや家庭的なもの。全てです。心が恵まれていないというのは具体的にどういう人ですか?よければ例をあげて説明してください。

なんだか失礼千万なものいいで、カチンときました。
そういうものいいをする方が「心が恵まれていない」というのです。
何でも金で買えるという考え、だめだったら捨てればいい、リセットすればいいなどと、人をモノのように考える人を心が恵まれていない方、もっとわかりやすくいえば心が貧しい方です。

> 価値を感じないというのは、『優しさ』が常に生活の中にあり、それ故に『優しさ』があって当然のものと思ってしまうのではないかということです。

それは理想です。
人間とはエゴの塊です。人になにかをするとき見返りをなんらかの形で要求しているときがあります。
子供がいじけたりなきじゃくったりする場合も知恵がついた子供は、こういったら親は弱いなどと知って影でほくそえんだりすることだって多々あります。

たとえば、貴殿が無心で人をたすけたいと思い、本当にそういった行動をとったこがあるでしょうか?「無いから聞いているのです。」という方は、優しさを描くことは不可能です。

多くの小説は作者の人生経験が反映されます。言葉だけをかいてもそれは心のない文章であることを読者は見抜いてしまいます。

>もちろん全ての人がそうだとはいいません。こんなことに順位をつけるべきではないのかもしれませんが、辛い経験などをしてきた人ほど『優しさ』をより重く、ありがたいものととらえられるのではないでしょうか。僕がいいたいのはそういうことです。

だから、貴殿はすべてが想像でおっしゃっているので話がかみあわないのです。貴殿が申される恵まれた人でも辛い経験をすることは可能です。
ご自分が苦手なことを週間づけてやってみるとか、アルバイトで時間とノルマに厳しいやつをやってみるとか・・・
その中で、やさしさや友情はすぐには芽生えません。
仕事ができないということで罵倒されるかもしれません。
仕事ができてきてかつ人に信用されたら貴殿はきっと優しさを感じます。
観客になっては何もかけません。
辛いことを自分でやてみましょう。

そうすればこんなところで他の人の経験談をきくより何百倍もすばらしいことが学べます。これは嘘ではありません。


投稿者 里喜[7]
投稿日時 2005年02月22日(Tue) 16時52分03秒
 失礼な言い方をしてしまい、申し訳ありませんでした。ただ僕は深く聞きたかっただけで、悪意があったわけではありません。ですが、それが何故金がどうとか言う話になるのです?あなたの過去に何があってそんなことに執着するのかは知りませんが、何か違うのではありませんか?
 人間がエゴの塊というのはすごく納得できました。確かにそうですね。ですが何故『優しさ』が無償でなければならないのですか?確かに見返りのことばかり考えて行動するのはいいこととは言えないでしょう。でもみんながそうというわけでもないでしょう。見返り目当てが50%、優しさも50%で行動するという人もいれば、見返りのほうが上回っていたり、優しさが上回っていたりもする。それでもいけなくはないのでは?重要なのは行動や言動の中に優しさが含まれていることなのではないでしょうか。それに優しさで人を見定めることは正しいことなのでしょうか?
 それに恵まれた人は辛い経験ができないなどとはいっていません。辛いことのあった人間ほど、人に優しくできるのではないか。定番の言葉ですが、僕はそう思います。 
 また失礼な聞き方をしてしまっていたら申し訳ありません。

投稿者 レッド[8]
投稿日時 2005年02月22日(Tue) 22時05分10秒
苦労したひとについて付け加えておきます。

苦労した人は、社会の厳しさを知っています。

苦労していない人は、それを知りません。故に、安易に人に優しさを求めます。ですが、そのやさしさとは自分を思ってくれるやさしさにはちがいありませんが、あくまでも自分の都合のよいやさしさです。
自分が説教されるといった、自分にとって負と思えるようなことは望みません。

苦労した人は、社会の厳しさをよく知っているので、同情などほしいとは思いませんし、人にもしません。仮に目の前で、不幸にその人が陥ったとしてもそういった余裕も、果たせる責任もないので手は貸さないでしょう。

たまに親身になって貸す人もいますが、そういう人はほとんどの場合、責任能力がなく、その人の影で恋人や友人、家族がそのツケを払わされていることが多いのです。

たとえば、内戦中の国のような危険な紛争地にあれだけ行くな!と全国民に政府が注意しているにも関わらず、何を考えたか渡航して、あげくに捕虜になり、日本および世界に迷惑をかけた人が何人もいるではないですか?
あのひとたちなりの正義感ややさしさはあったでしょうが、そのために、家族や何の関係も無い日本国民がそのとばっちりをうけてよいはずがありません。あの愚行によって、何の罪も無い海外にいる日本人が殺されたらどうしますか?
彼らの正義や優しさを貫くのに他者の犠牲がついてよいでしょうか?

私もこの何十年間か生きてきて、それなりに苦労もしましたし、楽もしました。小学校時分は、足にギブスをつけたり松葉杖をついて学校に通い、ときには母親が乳母車にのせて登校したこともあるのです。人の苦労など知った事かと級友?や、下級生まで私の登校は嘲笑をうけたものです。
そんな状況の私に、味方しようとする正義感をもちあわせた人はいたのですが・・・、いざやろうとすると今度は、その人がみないじめられると分かると口をふさぎ黙ってしまってました。
意志の弱い優しさなぞ、優しさではありません。

真の優しさとは、強い意志と責任をもって相手と向かい合うことだと思いますね。
当然、受ける側も同じ気持ちですとよりその優しさを強く感じることでしょう。
親が子に対する優しさがいい例だと思いますよ。(子を虐待する親は別ですが)

これでわかっていただけたでしょうか?

投稿者 馬駆 春[9]
投稿日時 2005年02月22日(Tue) 23時35分12秒
このレスにおいて僕は残念だけれど僕自身の体験を載せることができません。
それは僕が体験したことがないからであり、プライバシーどうこうではないです。
なので僕は自分の意見として申したいと思います。
僕は心持ち裕福な家庭に生まれ住んでいます。
それは僕がこのスレッドに書き込むときに使っているPCも自分専用という事実から現金としての具体的数字による算段はできないけれど、僕は裕福な暮らしをしているといえます。
僕が思うになのですが、僕は心の温まるストーリーの大部分はフィクションの枠内にのみおける出来事だと思っています。
それは現実として今目の前に広がっていることをいつも目の当たりにしている僕らにとって心の温まる場所というのは、いつもどおりのノンフィクションな世の中ではないところにあると思うのです。
それは決してファンタジーという意味ではない。
泣いている人に向かって、何かしらの現実味のない暖かな言葉を言ってあげることの出来る人が果たして何人存在するでしょう。
暖かさはある種の上では自分の中に存在するフィクション性の中に感じるものだと思っています。
そういう風に見る客観的な僕という存在が主観の僕のなかに存在している。

つまり、僕はどんなに現実から離れていてもいいから暖かな話を書くときは自分の存在の中で果たして何が暖かいのかを見つめ、それを文章にすることが重要なのだと思います。
もっとリアリティのある話を書こうと思ったとき、それはこのような場において質問をすべきではないかと。
暖かな話はきっと自分の中に存在し、それを他人と共有できるものだと僕は思います。
自分自身でそれをつむぎだそうとすることが重要なのではないかと。

投稿者 里喜[10]
投稿日時 2005年02月23日(Wed) 16時13分29秒
レッドさん、春さん、ありがとうございました。お二人のお考えは僕の考えよりとても納得できるものでした。いろいろと考えてみたのですが、確かに僕の考えには矛盾があったのかもしれません。
また、いつも間にか僕はすべてを分かっているような文章を書いていました。中には人を侮辱するものもありました。本当に申し訳ありませんでした。僕は優しさをとても軽く見ていたのかもしれません。これからはお二人が教えてくださったことを頭においていきたいと思います。