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『技術』は何の為に?
投稿者 nese[1]
投稿日時 2005年01月22日(Sat) 00時58分07秒
『技術』
それは小説を書く上で切っても切れない関係のものです。しかし、技術は何故あるのでしょう?気にせず、それどころか別になくても書けるというのに…何故それを必要とされるのでしょう?

そこで普段使われる・質問される『技術』の存在・本質について私なりに考え、問おうと思いました。よろしければ見てみてください。


よく私が小説を書いていて聞かれるのは、「他の文と会話の比率」「キャラクター設定と関係」「背景」「イベント等の話」をどうしているかと聞かれます。
しかし、それを聞かれても私はいつも困るし、またそれを知ってどうするのか?っていつも疑問に思うんです。
それは、小説というのは「自分」の書こうとしているもの、書きたいものが「自分」の中で昇華され、文字で現れ形作られたものだと思っているからです。

(ここで勘違いして欲しくないことはあくまでも参考にもしくは興味で…と思って聞いている方は入っていません。言うなれば、何を書いていいのか分からない、迷っている人に言っている感じです。)

で、話を戻しますが、もし、小説を面白くする技術があるなら、もっと色んな沢山の小説が面白いと言われているのではないでしょうか?
それに見合うだけの長い歴史が小説にはあるわけですから。しかし、数え切れないほど出ているのに面白い、心に残ると思えるものに会うのは難しい。ってことはやはり、それは技術では小説を書けないってことなんでしょう。
それを考えると、私は極端に言えば技術なんてどうでも良いのではないかと思うのです。
多くの人に読んでもらいたい、読みやすくしてもらいたい。この志は悪い事ではないと思いますが、それで技術を目指すのは本末転倒だと思います。だって、技術があっても文字がなければ小説とはいませんから。なので、技術よりも「自分」を磨き多くの体験をする方がよっぽど面白い小説をかけるんじゃないかと私は思います。
(綺麗な描写などにしてもそれは話の一部であって話の本質はやはり技術ではない部分に注目されると思います。)

また技術というのは大抵がマニュアルであり、良くも悪くも一般化されています。なので、技術を追い求めるほどその人らしさが消えるのではないかと思います。(悪く言えば作られた工場製品)
そして、本当に書きたいのなら技術うんぬんなんて関係ないと思います。気持ちで書く事が自分の書きたい事を書くのが小説ではないかと私は思います。
また、大体人に教えてもらったものや考えってほとんど自分に合わず、結局自分のやり方でやってしまう事が多いです(私の場合は特に)。だから、自分のやり方を探すというか確立することが大事なのではないかと思います。自分が作る小説だからこそ自分で考える、それが原点ではないでしょうか?
なので、私としては技術に囚われず小説を書く事を薦めます。

(技術を追うにしても自分の書きたいをちゃんと持っている方、そういう方は聞き流していて結構です。しかし、技術で悩んでいるのであれば技術ってそこまで大切なものか?ともう一度考えて欲しいです。)

注意!
私は技術を非難しているわけではありません。技術ばかりに目を囚われていてはいけないと言いたいだけです。

さて、最後に…
皆さんは小説を書く「技術」についてどう思いますか?考えていますか?




投稿者 レッド[2]
投稿日時 2005年01月22日(Sat) 19時21分16秒
レッドです。

うむうむ。
アメリカの小学校の教育のやり方ににたようなことを申されてますね。
まずは、才能を芽をのばす、そして成熟してから技術をみにつければよい。
そういうことですよね。

ちょっとながなが書きすぎのような気がしますよ。

で、
>(悪く言えば作られた工場製品)
これは、ライトノベルにはありがちですね。
ライトノベルって、連載形式モノがおおいです。
1冊たかだか200ページ程度ですから、それなりに手軽でよめますが
同じような型にはまった表現が非常に目に付きます。

だけども、長編小説でそれは感じません。
パターン化されてないからです。

でも、それでもいいと思いますよ。
結局は手段です。表現方法は自由です。
ボクもあなたも教祖でなないんです。自分の意見はもってますが・・・
人には、自分でおかんがえくださいと言ってます。

小説書くヒトでききたいのはどうやってら、売れる本をかけるような作家にされたのでしょうかとかの方が興味あるような。

売れる=読む価値がある

お金をとるなんて?なんてきれいごと言う世間知らずなことを厚顔無恥に言う方も趣味の世界にはおられます。

こういうフリーの場合は、たくさんアクセスがある。でしか、わからない。
ただひらくだけでもカウントはUPされます。

読んだ人が、作者の思いを理解しているかどうかは考えなくてよく、その本を出版したことによって生活が行えれば、いいわけで。それが長く続けられるようにするには、技術が必要でしょう。

昔の芸術家といわれる方々で、宮廷につかえた人をのぞけばほとんどの方が食うや食わずの生活をして、一生貧乏のまま死んでしまってます。
私は、そんなことを他の人に説教するような横暴なことは申せません。
美徳とは、富めるものの特権でしかないと思ってます。

他のスレッドでも言ってますが、いろんな忠告がうざい、理解できない、どうしたらいいかわからないなら・・・
いっそ、小説書きなんてやめてしまうか、人の意見などもとめずに、自分勝手に自由奔放にやってみてもいいのでは?と申してます。

ただ、自由といっても、限度があります。
こういうフリーなら・・・文章が稚拙ならば、よまれないだけですみます。

ですが、よしんば自信をもたれでもして、自己出版におよび不幸にしてその本を買うような人が一人でもでたなら・・・・
作家も、出版した人も、社会的な責任が問われることをしっておくべきではないでしょうか?

自由にも責任があると自由を訴える国では、教育しているそうです。
一方、自由を明確に把握していない国では、自由とはなんでもやっていいと勘違いされてます。

なんだか説教じみてきたなー。でも、きちんと責任の意味もしらせないで、舵や羅針盤、海図をまたぬ船を誘導するのはぼくはあまり関心しないので・・・・書かせていただきました。





投稿者 殻鎖希[3]
投稿日時 2005年01月22日(Sat) 20時12分51秒
お久しぶりですね、neseさん♪
殻鎖希(こくさのぞみ)です。覚えていらっしゃるでしょうか?

技術とは何ぞや?ということですが…
「小説を書く技術とは自己を表現するための手段である」と私、殻鎖は思います。
自分の書きたいことをうまく表現し、それを正確に相手に伝えるための手段…といったところでしょうか。
で…この技術というものなんですが、なかなかに厄介なものでもあるんです。
自己を表現するための手段、と書きましたが…そもそも表現したい事柄というのは人それぞれ異なるものですよね。
自分が何をどのように表現したいのかによって、技術の用い方もまた変わってくるものなんですよ。
ただマニュアル通りに書けばいいというものではない。
自身の表現したい事柄と技術を調和させなければ、本当に良い小説にはならないでしょう。

neseさんのおっしゃられる通り、結局は自分のやり方を確立するということで良いと私は思いますよ。
色々と模索しながら、自分なりの技術を見つけ磨いていく…ってところでしょうか。
ただ…小説となりますと、他人様に読んでいただくことになりますから、ある程度の腕を備えておかねばならないことも確かです。
日本語をうまく書けない人が小説を書けるはずがありません。
まぁ…ここで言うところの腕とは、小説の技術と言うよりも国語の勉強になりますが。
国語の勉強は、やっぱりしっかりしておいた方が良いですね♪

投稿者 nese[4]
投稿日時 2005年01月23日(Sun) 01時28分01秒
レッド様へ
>まずは、才能を芽をのばす、そして成熟してから技術をみにつければよい。
>そういうことですよね。
>
全く違います。そんなこと一言も言っておりません。そう伝わってしまったならそこは違うと認識しなおして欲しいです。(そう伝わってしまうように書いた私も原因あります。そうならないように長くしつこく書いたつもりだったんですが…。)
もし、技術という面に囚われ続けて書き悩んでいる人がいるのならば、そればかりが小説ではないという考えもある。というのがこの本質です。

後の事はレッド様の意見に共感です。「自由」であること、それに対する義務や責任を知り、行うこと等などは。


>きちんと責任の意味もしらせないで、舵や羅針盤、海図をまたぬ船を誘導する
これに関しての答えは上手く言えてないかもしれませんが、私達は書こうとした時点でそういった責任や舵、羅針盤などを持っているのが前提なのではないでしょうか?
だって、人まねをして書いているわけではないでしょう?人の地図に載って書いているわけではないでしょう?もし、そういう人がいるならば、その人に書くのを任せたらどうですか?ときついですが、そう言いたいです。
なので、自分の舵で自分の海図でなければいけないと思います。そして、それを作っていくには技術だけではなく、他のものも必要と私は提案したいのです。

自由すぎてもいけない、責任が必要とおっしゃっていますが、多分私はレッド様程強く思っていないでしょう。それは小説って元々は何でしょう?って事にあります。
よく「全く分からない」小説などに出くわすと人は「その意味や意図が理解できない」と言います。でも、それを言うのはとても無意味じゃないでしょうか?日常や常識の言葉で説明できるような小説は小説ではないのではないでしょうか?
なぜって、日常や常識が小説を説明するのではなくて、小説が日常や常識を照らすものだからと思っているからです。
また、私の考える稚拙とは作者が小説に対して怠惰をしたものです。技術云々ではなくて取り組み方です。なので、稚拙かどうかは本人が決めること。というのが定義です。
なので、ひょっとしたらこういった中で生まれた小説ならば、それは新しい書き方なのかもしれません。それに対して正しいか正しくないかなんて論議するのは本来はナンセンスなのかもしれないと思っています。(まあ、そうは言っても受け入れにくいものは存在していますので一概には言えませんし、物議になるとは思いますが・・・。)

う〜ん、長くなってしまいましたが、以上を持ちましてレッド様の返信とさせて頂きます!ご意見ありがとう御座いました。

投稿者 nese[5]
投稿日時 2005年01月23日(Sun) 02時16分52秒
殻鎖希様へ

お久しぶりです。
もちろん覚えておりますよ♪今回も返信してくださいまして、ありがとうございます。

>自己を表現するための手段、と書きましたが…そもそも表現したい事柄というのは人それぞれ異なるものですよね。
自分が何をどのように表現したいのかによって、技術の用い方もまた変わってくるものなんですよ。
ただマニュアル通りに書けばいいというものではない。
自身の表現したい事柄と技術を調和させなければ、本当に良い小説にはならないでしょう。

私もそう思います。
元々、色んな作品で成功している技術の例というのは、一つ一つの個別の小説が小説になっているから成功事例にみれているだけで、これから書こうというしている事にその技術を使えば、書きたい小説になるとはいえないと思うからです。
だったら、「技術は必要ないなのか!?」って声が聞こえてきそうですが、そんなの笑止です。技術が必要じゃないわけあるわけないじゃないですか。そうではなくて、技術が無くてはいけないと考えている、書いている事に問題があるのでは?
簡単に言えば、サッカー選手だって野球選手だって技術があるからサッカー選手、野球選手になったんじゃなくて、サッカー、野球が好きだから選手になったんじゃないの?って感じです。(あくまでも感じです!ニュアンスです。)

>国語の勉強は、やっぱりしっかりしておいた方が良いですね♪
私も賛成です。しかし、私はもっと言うなら人が読んで文の理解できる力があればオッケー!というレベルまで賛成です。間違えないで頂きたいのは、文の内容理解ではなく単にキャラクターがどうした動き(例えば、走る、座るなどの基本)をして、周囲はどういう環境(ビル?教室?庭?)なのかが理解できるレベルです。文の本質やキャラクターの心やイメージなんて作者と読者で差があるのは当然ですからね。
大体、それは技術の問題ではないと私は思うんです。だって、よく言われる技術って綺麗や分かりやすく見せる為の表現であったり技法であっても、本質(自分が自分の言葉で書くところ)というにそのままピッタリあてはまるなんて間接的にはあっても直接的にはないのではないでしょうか?(この場合の間接的にを、もっと分かりやすく言うならば、悩んで書いてから「ああ、ちょっとこれと似てるのか?」「使ったのか?」と気が付くという事です。直接的には紹介されている技術をそのまま使えるということです。)
そこで(本質の部分で)自分の言葉を押し殺して、使い古されたいわゆる「小説語」(この場合小説にしか出てこない言葉や技法)を使うのはいかがなものかでしょうか?。(それが自分の意図として使わなくてはいけないと思った場合は別ですが、)きっとそうしてしまったら小説とは何か?何で小説を書くのか?というのを忘れてしまうのではないでしょうか?そんな気がします。


またしても長々と書いてしまった…。すみません。


投稿者 tea[6]
投稿日時 2005年09月23日(Fri) 00時15分21秒
技術は読者の為にあります。
高い技術を求めるのは、作家の思いやりによるものであり、良心に基くものです。

話しはそれますが、
技術が高くなればプロになれるし、プロになれば印税が稼げる。
そう思う人がいたとしたら、僕は寂しい気が致します。

クラッシック音楽では一般に技術への拘りが強くあります。
パンクロックでは技術以上に情熱やメッセージに拘りを持っています。
どちらにも人の心に訴える力があり、ビジネス的にも認知されています。
ですから文学でも、「技術は関係無いぜ!!」と言えたらかっこいいですよね。

でも現実、言葉が足らないと人間は誤解されやすいものです。
言葉は人の心を運ぶ船のようなものかもしれません。
荷物である心の方が大切なのですが、機能しない船は心を伝えられないのです。

僕自身は、率直でわかりやすい表現を心がけています。
小説家としての野心は無いので、あまりかっこつけるつもりもないです。

投稿者 御前[7]
投稿日時 2005年11月18日(Fri) 15時33分38秒
 いや〜久しぶりだ。とても久しぶりだ。一ヶ月ぐらい前にはほのぼのしていたから入りにくかったけど、どうやらこの場所の空気は僕向きだな。 
「技術」について。難しい話をしているみたいだけど、頑張って書くとするか。
 まず文学という分野における小説というものは、とても技術という言葉を確立しにくい場所ではないか、と最初に僕は思いました。もし小説の技術というものが実際に物理学や、化学の技術と同じ次元で存在しているのなら、文学の技術について記した書物があってもおかしくないはずです。皆さんも学生であった頃に、現代文のテストの記述問題で「これ当たってんじゃん」といった自らの誤答を発見した記憶はありませんか?やはり技術というものは人それぞれの捉え方である、とするのが僕は自然だと考えます。従って、技術が必要か不必要か、と述べる前に、技術とは何なのか、ぜひ僕に明確な答えをお聞かせ願いたい。
 一応言っておきますが、書き方というのは守り事であるために、僕は技術だと思いません(三点を二回続ける、とか「」の書き出しにはマスを空けない、とか)。もしそれが技術だと皆さんが仰るのなら、僕の出る幕はありません。失礼させていただきます。