「ほんまによかったん?」と、藤崎さんは車の助手席に乗り込みながら言った。 「べつにわたしに気使わへんくてもいいんやで。わたし、男のひとがそういうの借りるのって全然気にならへんし…」 「いや、べつにな」と、池田は車のエンジンをかけながら言った。「俺もそんなにエロビデが借りたかったわけじゃないからな」 池田は藤崎さんの手前もあって、結局ビデオを借りるのは止めることにした。
「そんな無理せんでもいいで」と、藤崎さんは笑いながらからかうように言った。つられるようにして池田も笑いながら、「いや、ほんまやで」と、答えた。「ただビテオを返しにきたついでにちょっと見ていこうかなって思ってただけやねん」 「ほんまに?」と、言って藤崎さんはまた笑った。 「ほんま、ほんま」と、答えながら池田は車を走らせた。
立ち話というのもなんだし、これからご飯でも食べに行こうという話になった。といっても、この近辺にはご飯を食べるようなところなんてなかったから、じゃあという話になって、池田の車で出掛けることになった。
レンタルビデオ店まで、彼女は自宅から自転車で来ていた。
「でも、大丈夫なん?」と、池田は車を心地よいスピードで飛ばしながら訊いた。 もう夜の十時を過ぎているせいか、車道に車の姿は少なかった。街灯の光がオレンジ色に街を染めていた。
「何が?」と、藤崎さんは池田の方を振り向いて尋ね返した。池田は、「いや…」と、口ごもってから、「明日、仕事とか大丈夫なんかなって思ってな。…もう結構遅い時間やし」と、言葉を続けた。 すると、藤崎さんは、「それやったら大丈夫やで」と、答えた。「わたし、明日、久しぶりの休みやねん」
でも、そう答えた彼女の声は、心なしか寂しげに感じられた。池田は少し疑問に思ったけれど、でも結局何も訊かなかった。代わりに、「何の仕事してんの?」と、尋ねてみた。すると、彼女は今ショップの店員をしているのだと答えた。
彼女は大学四年のときにみんなと同じように就職活動した。彼女が目指したのは、マスコミ関係の仕事だった。昔からそういう仕事に憧れていたのだ、と彼女は語った。でも、結局そこには受からず、半ば妥協するような形で、今の服飾関係の会社に就職した。まあ、接客は嫌いじゃなかったし、服飾の仕事にもある程度興味はあったから、といいわけするように彼女は言った。
「どうなん?仕事は楽しいん?」と、池田が試しに訊いてみると、彼女は窓の外に視線を向けて、「どうなんやろ」と、少し弱い声で答えた。「楽しいときもあるんやけどな…」と、彼女は迷うように答えてから、「でも、上司とかうるさいしな、売り上げのことととか気にせなあかんかったりでな…何か色々大変やねん」と、疲れを帯びたような声で続けた。
「…そうなんや」と、池田は頷いた。何と言ったらいいのかわからなかった。池田の回りの友達も大学卒業と同時に働いていたけれど、みんなそれなり大変そうにしていた。みんなの話を総合すると、池田の就職に対するイメージはあまりパッとしなかった。
「池田くんは今何してんの?」と、藤崎さんが改まった調子で尋ねてきた。池田は少し迷ってから、「今、フリーターしてんねん」と、答えた。それから池田は自分の事情を彼女に話して聴かせた。
自分も大学四年のとき就職活動したのだが、結局行きたいところに行けず、途中で公務員を目指すことに変更したということ。そしてそれから一年半勉強して、今いくつか内定をもらっているということ。これからまだいくつか本命の試験が残っているということ。今日その本命うちのひとつがダメになってしまったということも、べつに話す必要はなかったのだけれど、つい勢いで話してしまった。
池田の話を聞き終わったあとで、藤崎さんは、「そっか。公務員かー」と、納得したように頷いた。「確かに、公務員やったらある程度好きなように時間が使えるもんな。…公務員のひともそれなりに大変やろうけど、でも、一応定時で帰れるし、ちゃんと土日休みもらえるし」
池田はその言葉に頷いてから、「俺は趣味に生きることにしてん」と、冗談交じりに答えた。すると、藤崎さんは可笑しそうに少し口元を綻ばせた。それから、彼女はふっと表情を消すと、「わたしも公務員になれば良かったんかな」と、ちょっと寂しそうな声で言った。 信号が赤に変わって、池田はブレーキを踏み込んだ。オレンジ色の光に照らされた街は、妙にひっそりとして感じられた。
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