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冬の花 作者:上原直也

第1回   1
             「冬の花」

「・・たまに意味もなく気持ちが沈んでしまうことがあるな。」
 と、和華ちゃんはいくらか眼差しを伏せるようにして静かな声で言った。

「べつに何が理由ってこともないんやけどな、たまにどうしようもなく寂しくなってしまうことがあってな・・ちょっと大袈裟かもしらんけど、生きるのがちょっと苦しいなって思ってしまうくらい・・それでな、そういう気持ちのとき、わたしよく、暗い海の底に沈んでいくおもちゃ箱のことを考えるんよね。」


 和華ちゃんが僕に向かってそんな話をしたのは、もうずいぶん昔のことだ。確か僕がまだ大阪に住んでいたときのことだったと思う。

 他の友人と一緒に遊ぶ約束をしていて、でも、その待ち合わせの時間までまだ少し時間があったので、僕と和華ちゃんはたまたま近くにあった小さな喫茶店に入って軽く話をした。そしてそのときに和華ちゃんが僕に向かってそんな話をはじめのだ。

 どういう経緯でそんな話をすることになったのかは思い出せないのだけれど、アルバイトからの帰り道、十一月下旬の冷たい風に吹かれながら自転車を漕いでいるうちに、僕はどうしてか、和華ちゃんがそのとき僕に話してくれたことをふいに思い出した。


「わたしにお姉ちゃんがひとりいるっていう話、吉田くんにしたことってあったけ?」
 と、和華ちゃんは訊いてきた。
 僕はその和華ちゃんの問いに軽く首を振って答えた。

 すると、彼女は僕のリアクションに軽く頷くと、「わたしには五つ年上のお姉ちゃんがおるんけどな。」と、話し始めた。

「今、お姉ちゃんはデパートで販売員の仕事をしててな、結構仲も良くて、二週間に一回くらいは一緒にご飯を食べにいったりもしてるんやけど・・でも、ずっとちっちゃい頃にな、一回だけ、めっちゃすごい喧嘩をしてしまったことがあってな。」
 僕はどう答えたらいいのかわからなかったので曖昧に相槌を打った。


「それでそのときな、わたしの方が年下やったし、力も弱かったから、全然お姉ちゃんに太刀打ちできんくてな・・それがめっちゃくやしくてな・・だから、お姉ちゃんが友達とどこかに遊びにいってる間に、お姉ちゃんがめっちゃに大事にしておもちゃ箱を勝手に持ち出して、それを家の近くの海に投げ捨ててしまったことがあるんよね。」

「よっぽどくやしかったんだね。」
 と、僕は和華ちゃんの突然の告白に少し笑って言った。
「今から考えるとずいぶんひどいことをしてしまったなって思うな。」
と、和華ちゃんも軽く口元を綻ばせて答えた。

「それでそのあとどうなったの?」と、僕は気になって尋ねてみた。「お姉ちゃんが大事にしてたものを勝手に捨てたりしたら大変なことになったんじゃない?」

 僕の問いに、和華ちゃんはそれまで口元に浮かべていた笑みを消すと、妙に神妙な表情になって頷いた。

「自分が大事にしてたおもちゃ箱がなくなってるのに気がついたお姉ちゃんはもうすごい剣幕で怒りだしてな・・一体にどこに隠したんだってわたしに詰め寄ってきて。でも、わたしは知らない、どこかに自分で忘れてきたんじゃないかって言い張ってな・・お母さんとかに泣きついたりとかして・・お姉ちゃんに嘘を突き通してん。」
「そっか。」と、僕は上手いコメントが思いつかなくてただ頷いた。

「・・・それでお姉ちゃんもわたしを責めるのはやめたんやけど・・でも、そのあとお姉ちゃんはずっと何日も元気がなくてな・・あとで聞いたんやけど、そのおもちゃ箱のなかには好きな男の子にもらったペンダントが入ってたらしくてな・・最初はいい気味だくらいにしか思ってなかったんやけど、だんだんお姉ちゃんのことが可愛そうになってきな・・だから、わたし探しにいってん。自分がおもちゃ箱を捨てた海に。でも、海は深くてな、子供の力ではどうすることもできひんくてな・・結局、お姉ちゃんのおもちゃ箱は海に沈んだままなんよね。」

 僕は和華ちゃんの言葉に耳を傾けながら、重い金属の箱が小さな気泡をたてながら暗い海の底に沈んでいくところを想像してみた。

「・・それでそのときのことを、何か落ち込むことがあったりすると、思い出してしまうな。」と、和華ちゃんは弱い声で言った。「あのとき、お姉ちゃんに悪いことをしてしまったなって想って、哀しい気持ちになる。」


 アルバイトを終えてアパートに帰り着いたのはもう夜中の十二時過ぎだった。
 僕は大阪の大学を卒業してから東京でアルバイトをしながら生活をしている。東京にはちょっとやりたいことがあってでてきた。

 一人暮らしなので玄関を開けてももちろん誰もいない。部屋の暗闇と一緒に、孤独が僕のことを待ち伏せしているような気持ちになる。

 音がないと心細いので、とりあえずという感じでテレビをつけ、そのテレビを点けっぱなしにしたままシャワーを浴びる。風呂から上がると、テレビでは深夜のバラエティ番組がやっていた。しばらくの間僕はそのバラエティ番組を眺めるようにして見ていたのだけれど、やがて退屈になってテレビを消した。

 でも、テレビを消したとたんに、僕は落ち着かない気持ちになった。テレビを消した瞬間に、鉛筆で突いた程度の小さな静寂が生まれ、それはたちまち大きく膨張して、部屋のなかから僕の居場所を奪い去っていくような感覚に駆られた。

 僕は半ば圧迫感にも似た孤独感を感じて、それを紛らわすために音楽をかけることにした。といって、咄嗟に自分は今何の音楽が聴きたいのかわからなかった。

 少し悩んだ末に、僕はふと鞄のなかに今日武田くんに借りたCDが入っていたことを思い出した。武田くんというのは、アルバイト先が一緒の人間だ。僕よりも五つ年下なのだけれど、バンドをやっていたりするせいで、僕なんかよりもずっと音楽に詳しい。

 早速鞄のなかからCDを取り出してミニコンポでかけてみると、静かで繊細な感じのする女のひとの歌声が、部屋のなかに優しく流れはじめた。英語の歌詞の歌だった。アルバムのジャケットには、もう既に絶滅してしまった鳥の絵が描かれている。

 流れてくる歌声は、降りしきる雨が緑の木々の葉を濡らしていく様子や、雨の日のひっそりと静まり返った海辺を僕に想像させた。どこなく哀しげ感じのする歌声だった。

 僕はなんとなくコーヒーが飲みたい気分になったので、廊下と一体化している小さなキッチンに行ってひとりぶんのコーヒーを沸かした。そしてそれを赤いマグカップに注いで部屋に戻ると、音楽に耳を傾けながらゆっくりと飲んだ。


 音楽に耳を傾けているうちに、僕はふと、一年程前に和華ちゃんに会ったときのことを思い出した。どうして唐突にそのときのことを思い出したのか自分でもよくわからなかったけれど、思考のなかに浮かびあがったそのときの情景は、逆光のなかで見た景色のように白く霞み、そしてそれは僕の心をほんのり淡い水色の色素に染めていった。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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