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水色の恋 作者:上原直也

第4回   4
そして、彼女はいくら唐突に、ピアノを弾きはじめた。

間近で聴く彼女のピアノの演奏は、僕が想像していたものよりもずっと遙かに素晴らしいものだった。

彼女が紡ぎ出す音の粒は、あらゆる身体の部分から僕の意識のなかに入り込んでくると、今度はそこで意識の熱によって溶かされて、液状になって、僕の意識の隅々にまで広がっていった。意識全体が淡い水色の色彩に染まっていくような感覚があった。

 僕が彼女の音楽に耳を傾けながら思い浮かべたのは、湖の底に、ぽつんと、一本だけ咲いている花だった。彼女はそこで冷たい水に揺られながら、遙か遠い水面をじっと見上げている。深度の深いそこには太陽の光がほとんど届かない。水面に黄金色の光が溶け込んでキラキラ輝いているのが微かに見えるだけだ。

でも、一日のうちに、ごく短い間だけ、そこにも太陽の光が差し込むことがある。彼女にとってはまるで永遠とも思える距離から、やわらかく透き通った光が、ゆっくりと舞い降りてくる。そして、彼女はその光に向かって手を伸ばそうする。でも、その伸ばした手の指先が、光に触れた瞬間、湖底はまた透き通った闇に包まれてしまう。

・・彼女の音楽はどちかというと哀しげに感じられたけれど、でも、そこから力強く伸びていく希望の息吹のようなものも感じられた。でも、まだそれは出口が見出せずに、同じところをぐるぐると彷徨っているような印象も同時に受けた。

「綺麗な曲だね。」と、僕は感心して言った。「全体的に哀しい感じがするけど、でもすごく優しい感じがする。深い哀しみの底にありながら、それでも少しずつ、その哀しみから外へ向かって歩いて行こうとしているような、そんな感じがする。」

 彼女は僕の言葉に頷いた。「わたしこの曲が好きで、何か哀しいことがあったりすると、よくこの曲を弾くの。・・この曲を弾くとてね、少しだけその哀しみがやわらぐの。少しだけ優しい気持ちになれる。」 

 彼女は静かな声でそう言うと、何かの声が聞こえたかのように、ふと窓の外に視線を向けた。

窓の外にはまだ雨が降っていて、青灰色をした空間に、淡い水色の線が幾筋も走っていた。部屋のなかには彼女のピアノの音がまだ消え残っていて、雨音はその残滓を微かに震わせていった。

「・・お母さんがね、好きだった曲なの、この曲。」と、彼女は窓の外に視線を向けたままぼんやりとした口調で言った。「・・よく雨の日とかに、家でこの曲を弾いてたのを覚えてる。」

 彼女は窓の外に向けていた視線をピアノの方へ戻すと、人差し指で、ぽん、と高音のソの鍵盤を叩いた。すると、澄んだ、綺麗な音が鳴った。

彼女はその生まれた音が空間のなかに余韻を残して消えていくのを見届けるように少しの間黙っていて、それから、「・・去年の冬にね、お母さん、死んじゃったの。」と、ポツリと告げた。

彼女はピアノの鍵盤の上に視線を落としていたけれど、でも、その視線はそこにある鍵盤をすり抜けて、何か全然べつのものを見ているようにも思えた。

「2年間ぐらいずっと入院してたんだけど、でも結局助からなかった・・。お母さんが死んだのは、ちょうどこんなふうな雨の降る、冬の寒い日だったわ。」
 彼女はそう言うと、何か哀しみを押し込めようとするように、軽く瞼を閉じた。そして、何秒間の間そうしていてから、閉じていた瞼をゆっくりと開いた。

「・・こっちに引っ越して来ることになったのもね、実はお母さんが死んじゃったからなの。・・こっちにお父さんの仲のいい友達がいてね、ここでしばらく暮らしてみたらどうかって、そう言ってくれたの。この家を紹介してくれたのも、そのお父さんの友達でね

・・なんていうか、お母さんが死んじゃったことで、わたしたち家族は色んなことが上手くいかなくなっちゃったの。・・お父さんはそのせいで前みたいにピアノが弾けなくなっちゃったし・・きっとショックが大きすぎたのね。お父さん、口にだしてこそ言わなかったけど、お母さんのこと、すごく好きだったみたいだし

・・わたしもお母さんのこと、大好きだった。・・だから、わたし、お母さんが死んじゃってから、何もする気が起こらなくて、学校に行かなくなったの。家でお母さんのことばっかり考えて過ごしてた。

・・そしたら、それを見かねたおじさんが、しばらくこっちで暮らしてみたらどうかって言ってくれたの。こっちは東京に比べて自然もたくさんあるし、静かだし、一度仕事から離れて、療養した方がいいんじゃないかって。それでわたしたち引っ越してきたの。」
 
彼女はそこでふと何かに気がついたかのように顔を上げると、「ごめんなさい。わたし、ひとりで勝手にべらべら喋っちゃって・・。」と、申し訳なさそうに言った。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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