僕は彼女に憧れを抱くようになっていった。もっと彼女とゆっくり話がしてみたいと思うようになった。でも臆病な僕は、彼女と朝短い会話交わす以外は、それ以上どうすることもできずにいた。そして、そのようにして何ヶ月かの日々が流れていった。 最終的に、僕が最も長い時間を彼女と一緒に過ごすことができたのは、彼女がその住んでいた家を引っ越していく一週間前のことだった。
あるとき思い切って、僕は彼女にピアノを弾いて聴かせて欲しいと頼んでみた。その言葉を口にすることは、僕にとってひどく神経をすり減らすことだった。だけど、彼女はそんな僕の想いとは裏腹に、あっさりとオッケーしてくれた。
彼女の家に遊びに行ったのは、雨の降る、日曜日の静かな午後だった。
約束通り、僕が彼女の家を訪ねていくと、彼女は自分の部屋に僕を通してくれた。
雨が降っていてあたりは薄暗かったから、彼女の部屋には電灯の明かりが灯されていた。白熱灯の、オレンジ色がかった、暖かみのある光だ。でも、明かりが灯されているにもかかわらず、その彼女の部屋はどことなく薄暗く感じられた。まるで彼女の身体に含まれている哀しみの色素が、部屋の空間のなかに薄く溶けだしてしまっているように感じられた。
出窓があって、そこにはクマのぬいぐるみだとか、ミッキーマウスのぬいぐるみだとかが飾られていた。出窓の横にはピアノが置かれていた。そして、そのピアノの上には、花が飾られていた。名前の知らない、淡い水色の、綺麗な花だった。
僕がその花に視線を止めていると、「・・あの花、最近なってやっと咲いたのよ。」と、横から彼女の声が聞こえてきた。
振り向いて彼女の方を見てみると、彼女は花の方へ視線を向けて、少し寂しそうな顔をしていた。彼女の瞳のなかに溶け込んだ、淡い水色の花が、妙に哀しげに見えた。
僕は「綺麗な花だね。」と、感想を述べた。彼女は僕の言葉に少しの間黙っていて、それから、「お母さんが好きだった花なの。」と、そう呟くような声で言った。彼女の声が消えていったあとに、雨音がサラサラと降り積もっていった。
彼女は椅子に腰を下ろすと、まるで壊れ物を扱うときのような仕草でそっとピアノの蓋を開けた。そして、鍵盤の上にかけられている赤い布を取り除くと、そこに静かに両手をそえた。 鍵盤の上にそえられた彼女の両手は美しかった。その肌の白さは、冷たく澄んだ月の光を思わせ、細くて形の良い10本の指は、優れた彫刻作品を僕に連想させた。
彼女は振り返って、隣りに立っている僕の顔を見上げると、「何の曲がいい?」と、訊いてきた。僕はちょっとの間考えてみたけれど、でも、何も思い浮かばなかった。もともとそれほどピアノ曲に明るいわけではなかった。
「何でもいいよ。藤崎さんが好きな曲を弾いてよ。」と、僕はしばらくしてから言った。 彼女は僕の言葉に頷くと、少しの間思案するように黙っていたけれど、「じゃあ、ヴェートベンの曲を弾こうかな。ヴェートベンのピアノのソナタ。たぶん、佐藤くんも聞いたらわかるんじゃない?」と、やがてそう言った。
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