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水色の恋 作者:上原直也

第2回   2
あれはまだ僕が高校生のときだ。僕がその当時住んでいた家の前には、ちょうど今僕の視界のなかにあるのと同じような、白い、二階建ての家が建っていた。その家は借家として貸し出されていたのだけれど、長い間借りてがつかずに、ずっと空き家の状態になっていた。でもその家に、確かその年の春頃だったと思うのだけれど、新しく家族が引っ越してきた。

 何でもそこに住む家族の父親は、日本ではわりと名前の知られた有名なピアニストだという話だった。どうしてそんな有名なピアニストが、わざわざこんな田舎に引っ越して来なければならなかったのか、不思議に思えたけれど、とにかくその日以来、その家からはよくピアノの音が聞こえてくるようになった。

 その当時の僕にはもちろんピアノの音の善し悪しなんてわからなかったけれど、でもその聞こえてくるピアノ演奏が一流のものであるということは、何となく理解できた。

音の質が全く異なっているのだ。近所でもピアノを習っている子供達はたくさんいて、その子供達がピアノを練習する音もよく聞こえてきていたけれど、明らかにそれらの演奏とは異なっていた。音のひとつひとつに、何か気品のようなものが感じられる気がするのだ。

でも、気品が感じられるといっても、その家から聞こえてくるピアノの音には、全くタイプの異なる、二種類のものがあった。

ひとつは、全体的な音の印象が明瞭で、自信に満ちた、隙のない、完成された演奏に感じられた。逆にもうひとつの方は、いくらかたどたどしく、ぎこちないものに感じられた。でもそのぶん、そこには繊細で細やかな、瑞々しい感受性の力が感じられた。月の光を浴びて静かに煌めく湖面のような。淡く、儚げで、どこまでも澄み渡っていくような。じっとその聞こえてくるピアノ旋律に耳を澄ませていると、あまりにも綺麗で、哀しくなってくるような感覚がある。

・・最初僕は、ピアニストの奥さんがそのピアノを弾いているのだと思っていた。完成されたピアノの演奏は父親のもので、いくらか感傷的に響くピアノの演奏は、その奥さんのものなのだ、と。でも、あとになってみてわかったことなのだけれど、それは間違った見解だった。

 向かいの家に新しくひとが住むようになってから、僕は毎朝学校に行くのが少し楽しみになった。学校に出ていくとき、僕は家の前で必ずといっていいほど、ひとりの女の子と顔を会わせるようになった。長い黒髪の、綺麗な二重の瞳をした、色の白い女の子だった。高校の制服を着ていたけれど、それは僕の通っている学校とは違うものだった。

彼女は目が会うと、目元で静かに微笑みかけてくれた。その彼女が自転車に乗って学校に出掛けていく姿を、僕は家の玄関の前でぼんやりと見送った。


 彼女の声をはじめて耳にしたのは、冬の気配が空気のなかに混ざりはじめた、雨の降る、静かな朝だった。

いつもは彼女の姿を見送ってから学校に行くのだけれど、でもその日は友達と約束が会って、僕は彼女よりも早く家を出る形になった。傘をさして自転車に乗ると、家を出ようとした。でもそのとき、彼女の姿が気になって、横目でちらりと彼女の方へ視線を向けた。彼女は紫水色の傘をさして、自転車のかごのなかに鞄を入れようとしているところだった。

と、その瞬間、僕の視界は斜めに傾いて、最後には大きく上下に震えた。マンホールの上を通ったときに、それが雨に濡れているせいで、自転車のタイヤが滑って、横倒しに倒れてしまったのだ。

僕はアスファルトの地面の上に派手に自転車ごと転んでしまった。倒れた衝撃で、持っていた傘は近くに転がってしまった。

と、そこへ、横から、「大丈夫?」という声が聞こえてきた。しかめっ面をしながら、声が聞こえてきた方向へ視線を向けてみると、そこには彼女がこちらを覗き込むようして立っていた。

彼女は僕の自転車を起こしてくれると、傘も拾ってそれを手渡してくれた。そして、「気をつけてね。」と、笑みの形に唇を広げてそう言った。

はじめて耳にしたその彼女の声は、とても綺麗に感じられた。まるで雨に濡れた花を想わせるような。僕は何か言いたかったけれど、でも、転んだ衝撃と、緊張のせいで、上手く言葉が出てこなかった。


 それ以来、僕は朝学校に行く前に、彼女と少し話をするようになった。話をするといっても、ごく短い間のことだったから、それほど多くのことが話せるわけじゃなかったけれど、それでも少しずつ、僕たちは打ち解けた仲になっていった。

彼女と話していくなでわかったことは、彼女の父親は本当に噂通り、有名なピアニストだということだった。でも今はある事情があって、ピアニストとしての活動は休止しているのだ、と彼女は話していた。一体どんな事情があるのか気になったけれど、でも、そのことを尋ねるのは何となく憚られた。

そして、なかでも僕が一番驚されたのは、あのピアノを弾いているのは、彼女の母親ではなく、彼女が弾いているのだ、という事実だった。あの、いくらかぎこちなくはあるけれど、でも澄み渡った、美しいピアノの演奏は、彼女によるものだったのだ。

「ずっと小さな頃からわたしにとってピアノは身近な存在だったの。」と、彼女はあるとき僕に語った。「お父さんもお母さんもある程度名前の知られたピアニストだったし、だから、わたしがピアノをやるようになったのは、もう運命みたいなものよね。」と、彼女は口元で微笑しながら冗談めかしてそう言った。

でも、微笑みながら、彼女のその瞳はどこか哀しそうに映った。彼女はピアノについて語るとき、いつもその瞳を、それとわからないほどの微かさで曇らせた。何かピアノに関して哀しい思い出でもあるのだろうかと思ったけれど、でも僕は何も訊けなかった。彼女の方からそれについて語ることもなかった。



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Novel Editor by BS CGI Rental
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