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作者:浅上陽一郎

第8回   8
「はい、ここまで」
 ステージ下の中央で、様子を見守っていた佐藤君が大きく手を叩く。それを合図に劇が中断され、比良野静香は佐真瀬アイに戻り、皆本光は僕になる。全体の緊張が解け、ふっと明るくなる。人形を吊るす糸が断ち切られたようだ。皆、ざわつき始め、ステージ下にいた連中もゆっくりとステージ中央に集まる。
「声、聞こえていたかー?」
 体育館の奥の角で、ステージからの声の通りを確認していた小林さんが苦笑しながら僕達のいるほうにとことこやって来る。
 そうして全員はステージ中央で輪になり、駄目出しを行う。全員で十五人いる僕達演劇部は脚本とにらめあいながら、口々に意見を出し合う。言われた事に時には頷き、時には反論し、一つの芝居が出来上がる。舞台を照らす照明は照明の、舞台を奏でる音響は音響の、それぞれの立場からより多くの長所と短所が上げられる。友人同士の談笑というよりも、まるで一種の議論だ。
「皆本光の動きが硬かったみたいだから気をつけて」
 体育館の後ろのほうで声の通りを見ていた小林さんからの注意がきた。
「比良野静香の動きが良過ぎたから、却ってその硬さが目立つみたいだよ」
 佐藤君もそれに同調する。
「全体のバランスを取るように各自気を付けて」
 と佐藤君は続けた。
 各自がメモを取っている間、佐藤君が小林さんとなにやら相談事をしているのを、僕は横目で見る。どうやら、練習の打ち合わせのようだ。僕もふと気になり、時計を見る。五時四十分。夏の入り始め、外はまだ嘘のように明るい。
「あー、悪ぃ、今日ちょっと用事があったんだわ」
 僕はわざとらしくならないよう頭を掻いてみたりして、困っている様子を作る。ペンを走らせる音しかしない体育館の静寂の中、僕の声はやたらと響いた。
「えー! お前がいないと練習出来ねぇじゃねえかよ」
 という声が周りから漏る。背筋につーと走る汗の嫌な冷たさは、何もこの体育館の気温のせいだけではない。
「まあ、用事があるんじゃ仕方ないよな」
 と佐藤君は皆をなだめるように言う。しかし彼は僕の目をじっと見る。
「うん、代役でも立ててよ」
「おう」
 逃げるように放送室に引っ込む僕。体育館の脇に据えられた放送室に僕達は荷物を置くのだ。その荷物を取りに行く。なんだか、皆の視線が痛い。
 やたらと重たく感じる肩掛けのバッグに無理やりジャージを詰め込み、僕はステージを降りる。
「お疲れ様」
 と僕は言い
「お疲れ様でした」
 と皆が言う。
 旧体育館を抜け、本校舎に繋がるプレハブで覆われた渡り廊下を歩いている時に、僕を呼び止める声があった。振り返ってみると、そこには井上さんがいた。
「忘れ物だよ」
 と言って手渡されたそれは、先ほどまで僕達が取り組んでいた脚本だった。メモを取っていた時、そのまま置きっぱなしにしてしまっていたらしい。
「あんまり気負うなよ、って佐藤君が言っていたよ」
 と井上さんは長い髪を揺らしながら。
「あいつは真面目すぎるからな、っても言ってた」
 なんだか背中がむず痒い。
「俺が言っていたって事は言うなよ、っても言っていたけどね」
 と彼女の目は笑っている。どこか悪戯っぽい。
 苦笑しながらその脚本を鞄に仕舞う僕。詰め込み過ぎて、上手く閉まらない。
「手伝おっか?」
 と彼女は手をかける。
「いや、別にいいよ。手伝ってもらったからってどうなるってわけでもないし」
「だからさぁ、そういうのが…」
 と彼女はぶつぶつ。
「いいから貸しなさい」
 彼女は無理やり鞄の肩にかける部分を引っ張った。
「これはね、こうして、こうやって」
 と彼女はてきぱきと僕の鞄の中身を取り出しては入れ、入れては取り出したりしている。
「ああ、もう! ジャージがプリントと一緒になってしわくちゃじゃない。意外と無精者なんだね」
 と彼女はジャージを畳みつつ
「脚本にはびっしりとメモするくせに」
 と言った。
「うし、これでオーケイだ」
 見事に彼女は僕の鞄を整理してしまった。
「 “演劇とはお互いを知る事だ”だってよ」
「それも、佐藤君の持ち論?」
「そうそう」
 「じゃあね、明日、ちゃんと練習には来てよ」と笑い、彼女は旧体育館の方に走って戻っていった。
 彼女が整理し直してくれた鞄は、いつもよりも軽い気がした。
 今日、僕が部活を途中で抜け出したのは今日が金曜日だったからだ。最近は、部活動の練習にばかり時間を取られ、待ち合わせをキャンセルする事も多かった。ただ、約束をしたりする事は滅多に無かった。
 行きたい時に行くというのが僕達の暗黙のルールだった。だから、気紛れを起こされて待ち惚けを食らう事もしばしばだったが、僕達は互いを恨むような事はしなかった。少なくとも僕のほうは。
 学校から自宅までの最寄りの駅まで電車で行き、駅前の自転車置き場で電車に乗るのだが今回はトラブルに見舞われてしまった。自転車が盗まれていた。
「おう、どうした」
 と不意に後ろから声をかけられた。振り返ったその先にいたのはここにいるはずも無い芥川だった。彼は自転車に乗っている。据付の前カゴがひしゃげ、ギアの蓋が外れているという独特の壊れ方をしているそれは僕の自転車と酷似していた。
「あのよ、その自転車、どうした?」
「ああ、盗んだ」
「それ、俺のっぽいんだけど」
「…」
 逃げ出そうとする芥川が乗った自転車を捕まえ、後輪カバーに貼られたシールの防犯登録番号を見る。僕のじゃん。
 ばつが悪そうにしぶしぶ自転車から降りる芥川。
「いやぁ、お前のとは思わなかった…、ってか自分の自転車の登録番号を覚えているやつってのも珍しいな」
「俺のじゃなかったら盗んでもいいのかよ。まあ、最近自転車泥棒多いからね、念のため覚えといた」
「変わったやつ」
「うるせぇ、犯罪者。前科一犯だ」
 前カゴに鞄を入れる。いつもはぎつぎつなのに、今日に限って難無く鞄がカゴに収まる。今度、井上さんに整理整頓の仕方を教わるのもいいかもしれない。
「ところでお前、何でこんなところにいんの?」
 芥川が住む場所は隣の市だ。
「ああ、ちょっとな」
 と芥川は口ごもる。
「まあ、今回の事は勘弁してくれや。ちょいと急用があったんだ」
 芥川の目は泳いでいる。不良ぶっているこいつにとっては珍しい事だ。本当に何かあったのかもしれない。
「まあいいや、じゃ」
「あ、いや待て、乗せてけ!」
 僕は意地悪するつもりで無視を決め込んだが、そしたらまたこいつは別の自転車を泥棒するかもしれないと思った。そして俺はしぶしぶUターン。
「おお、流石我が心の友」
「ジャイ○ンかお前は。ったく、よく自転車を盗んだ相手にそういう事、頼めるよな」
「なに言ってんだ、友達だろ」
 僕は自転車を急発進。
「ああ、待て、コラ置いてくな」
 しばらく芥川をからかった後、僕は彼を乗せてから自転車を発進させた。
「お前、自転車漕ぐの下手なのな」
「うるせぇ、なんなら降りたっていいんだぞ」
「そうすぐキレんな」
「キレてねぇよ」
 路肩を走る僕らの脇を先ほどから自動車が何台も通り過ぎる。
「ああ、また抜かれた」
「車に抜かれるのは当たり前だ」
「でもよ、さっきから自転車ふらついてるぜ。大丈夫か?」
 実は自転車の二人乗りは初めてである。
「案外、駄目かもしんない」
「変われ、俺が運転する」
「…頼む」
 自転車を一旦止め、運転を交代する僕ら。僕は後輪カバーに据え付けられた荷物乗せの金具に足を引っ掛け、芥川の肩に手を乗っける。
「うわっ、キモッ。お前、女になれないか?」
「馬鹿な事言うな。その考え方のほうが気持ち悪い」
 「ははは、違いねぇ」と笑いながら芥川はペダルを漕ぐ。最初はゆっくりだったが、勢いがついた頃にはスピードも先ほどよりもずっと出ている。波に乗っている感じだ。安定感のなさからくる恐怖感は相変わらずだったが、こいつに運転を任せておけば大丈夫のような気がする。
「お前、変な所真面目だからな。自転車の二人乗り、あんまりした事ねえだろ?」
「今回が初めて」
「マジかよ」
 威勢のいい声で僕達の自転車は角を曲がる。
「そういえば、お前、どこに行くんだ?」
「ああ、ちょっと人探し」
「誰?」
「…」
「行くあてあんの?」
「ない」
 黙ったまま自転車を走らせる芥川。少し日が傾き始めている。
「どうするの」
「知らん」
「この自転車、俺のなんだけど」
「…」
 傾き始めた日。空が光を失っていく。それと比例するかのように夏の湿った空気も落ち着き始めている。どこかで蛙の鳴き声が聞こえ始める。グェコグェコ
「なあ、今日一日この自転車貸してくれねぇか? 明日返すからよ」
「俺は今日どうするのよ?」
「あー…、だからお前を一旦家に送ってから、その後でこの自転車を俺が借りると」
「じゃあさ、家じゃなくて別の場所で降ろしてくれよ」
「何所だ?」
 僕は壁のある山の場所を指示した。この町に唯一ある中学校の裏山。
「げー、山の上かよ」
「文句あるんなら自転車返せ」
「分かったよ」
 とぶつぶつ文句を言う芥川を、僕はこき使ってやった。
「ここ、お前の学校?」
 十五分ほど自転車を走らせ、僕の目的地である裏山のある中学校に着いた。
「はぁ、お前んとこ、いかにも田舎の学校って感じだな」
「気ぃ変わった、お前、自転車返せ」
「悪ぃ悪ぃ、冗談だ」
 芥川は笑っている。でも、彼の笑いはどこか危うい。いつもふざけている調子の彼が、今は本気で僕から自転車を取り上げられる事を恐れている。そんなに信用なかったっけ?
「じゃ、俺はこれで」
 僕は後ろに手を振り、芥川と別れる。
「おぅ」
 という芥川の声が遠ざかっていくのが聞こえた。
「ああ、そうだ!」
 遠くから聞こえてくる芥川の声に僕は驚き、思わず振り返る。
「お前、少しは人に任せてみろ。何でもかんでも自分で背負い込むな。俺の方が自転車漕ぐのが上手なんだ。井上さんの方が鞄の整理が上手なんだ。いいか、よく覚えておけよ。人は一人じゃ生きていけないんだから。いつか、壁は越えなくちゃならない。壁の向こう側にいる人間に助けてもらわなきゃいけないんだ」
 僕は呆気に取られてしまう。芥川の消えていった先を見る。下り坂の途中で、芥川はやけに陽気に笑いながら大手を振っていた。
 今晩彼女は来なかった。森の中の熱帯夜。僕は壁に背を持たれかけさせて、ぼうっと蛍光ライトが光る腕時計を眺めながら時間を消費した。日付が変わったのを確認してから、僕は立ち上がった。湿った落枝落葉が僕の足元で音を立てる。そこで奇妙な物を僕は拾った。
 それは青く光る固形物だった。葉と葉の間に隠れるように埋もれていたそれは親指と人差し指だけでつまめる程度の小石大の大きさだ。
 僕がその固形物に触れた瞬間、それはカッと光った。森の闇を全てなぎ払うかのようなその強烈の光は一瞬だった。僕は思わず手を離したが、手遅れのようだ。その固形物に触れた指先から激痛が走った。それからじんわりと熱を帯びた。仕方がないので僕は、その石を持って帰る事を諦めた。折角綺麗なのに、勿体無い。
 森は既に静寂を取り戻していた。まるで先ほどの激しい光など最初からなかったかのように夜が広がっていた。遠くではフクロウの声がし、白い曼珠沙華が闇から浮き出るように咲き誇っている。
 僕はこの光景に違和感を覚えた。
「ははは、この山は特別なんですよ」
 不意に笑い声交じりの声が木々の間の暗い闇の向こうから聞こえた。僕は身を硬くする。妙な緊張感が走った。とんとんと僕の肩が叩かれた。
 振り向くや否や、マントに覆われた一人の男が現れる。
「うわっ」
 驚きのあまり、足を滑らせる。石畳と角材で区切られただけの粗末な階段から、転げ落ちそうになる。しかし、僕が頭を地面に叩きつけるより早く、右手を力強く引っ張られ体勢を強引に立て直す。一瞬、右腕に全体重がかかり、腕が体から千切れそうになる。
 鈍痛が肩に走り、体の奥から嫌な音がした。
「ははははは…」
 マントの人は笑った。先ほど聞こえた笑いと同じ声だ
「大丈夫、念じて御覧なさい。腕はすぐ直るよ」
 その声は変に間延びした高く細い声だ。若いのか年を取っているのか判然としない不敵さを持つ。
「あれ? 直らない? おかしいな。じゃあ、仕方がない僕に体を預けてごらん」
 僕はその人の持つ独特の不審さから、そいつの指示通りにする事はためらわれた。
「ははは、ずいぶん僕も信用がないみたいだなぁ」
「普通、こんな所で突然出会ったマント被りの男なんか信用できませんよ」
「あー…、こっちの人は皆そんなモンなんだ」
 僕はその一言に心臓を掴まれた。とても苦しい。人を『こちら』『そちら』と区切る事のできる人間とはどんな人間なのだろう。それは言わずもがな、壁を知る人間である。僕はそのマントの人に壁の向こう側の事を聞きたいと思った。しかし、ためらわれた。マントの人とは妙な距離感が自分とはある事を感じてしまっている。まるで、入学したばかりの小学生が、先生に始めて物を尋ねる時のような心細さが僕の中に芽生えていた。
 しかし僕は自分の中に生まれたそういう感情に違和感を覚えずにはいられなかった。壁を越えてきた人間なのに、それに違和感を覚えてしまうとは一体何事だろう。辻褄が合わない気がした。
「まあ、貸しな」
 そうこう悩んでいるうちにその人は僕の肩に自分の両手を掛けた。そして、今もなお激痛の走る右肩を彼は撫でる。
 すぅっと痛みが引いた。それこそ魔法のように。
 肩が暖かくなる。驚くべき事にマントの人の両手とそれに被さる僕の肩との間が青白く発光していた。
「よし、とどめだ。無理するぞ。せーの!」
 マントの人は急に力を込める。マントの人の全体重が僕の右肩に圧し掛かり、次の瞬間に鈍い音を立て肩と腕がはまった。
「脱臼だったみたいだからね。魔法だけじゃ、治せなかった」
「あ、どうも…」
 素直にお礼を言うことは躊躇われた。そもそもこいつのせいでこのような事になったのではないのだろうか。
「魔法、なんですか」
「うん、魔法」
 先ほどまで外れていた右肩を撫でる。まだ痛みがあるような気もするが、それは病み上がりの違和感というものだろう。
「探し物しているんだけど知らない?」
 マントの人は相変わらずの軽い調子。
「いや、知りませんよ」
「こんぐらいの、青い石なんだけど」
 とその人は両手の親指と人差し指で大きな輪を作った。
「それほど大きくはありませんでしたけど、青い石ならさっきあそこで見ました」
「何? 何所で!?」
 その人は不意に言葉を重くする、僕は適当に
「あっちのほうです」
 と先ほどまで僕がいた場所を指差す。一応、嘘ではない。
「案内してよ」
 その人は目を細める。マントの隙間から漏る彼の顔はホンの一部だったが、彼の眼光は闇に浮かび上がるようだった。この周囲に咲いている曼珠沙華と同じだ。光らずに、浮かび上がる。
「嫌ですよ」
 僕は逃げるように彼を後にした。

 次の日俺は、家から駅までの道のりを歩いて済ませた。朝、ウチの敷地内の駐車場に僕の自転車はなかった。
 あいつがだらしないのはいつもの事と特に気にもせず電車に乗り、今朝あったらとっちめてやろうと教室に入った。
 今日も佐真瀬アイは如月君の隣で笑っている。自分達が、教室で避けられているという事も気づかずに。
 一時間目の数学の予習をやっていると、担任の鈴木先生が鐘の音と共にやって来た。一人の少女を連れてきた。黒い艶やかな短い髪、何かを見据えるような真っ直ぐな視線。中学生位の小さくほっそりとした体形。首から青い透き通った石のアクセサリをかけている。また、転校生?
「あー、今日からウチのクラスで実習を行う事になった青海月(おうみつき)先生だ」
 恐らく他の連中も転校生か何かだと思っていたんだろう、賑わうよりも危うげな驚きに教室中ざわめき立っている。黒板に書かれた「青海月 沙李亜」という文字を見て、僕は何故か肌寒いものを感じていた。
 青海月先生はここのクラスの担任補佐とそれから横山一二三先生の数学の授業の補佐をする事になったらしい。そのため、今日の一時間目の数学の授業はちょっとした歓迎会になっていた。
 クラスが青海月先生への質問に躍起になっている中(青海月先生への質問が途絶えた途端、授業が始まってしまう危機)、僕は如月君の後ろの席をぼんやりと眺めていた。
「年なんて聞かないでよー。二十少しよ二十少し。留年も浪人もしてないんだからね」
 教育実習生への歓迎なんかこんなものである。
 突然のクラスへの乱入者で、皆は特に芥川の不欠席を話題にはしなかった。もともと授業態度が好ましい方ではなかったからまあ大したことではないのだろうと、皆も先生も僕も思ったのかもしれない。その時だって僕は、今日の帰りも徒歩か、だなんて呑気な事を考えていたぐらいである。
 三時間目の授業が終わり、昼休みが始まったとき、僕は学生食堂へ向かう連中の波に逆らうように職員室脇にある公衆電話に手をかけた。芥川の携帯に電話をかけてみる。くしくも青海月先生への質問が途絶えてしまった一時間目の数学、凶悪な宿題が出たために僕は芥川にそれを伝えておこうと思ったのだ。
 クラスの中で、僕が一番芥川と仲がいい事になっていたために、それを伝える役目を仰せつかってしまった。悪い気はしなかったけれど。
 しかし、何度も鳴る呼び出し音の向こう側のそこから聞こえてくるであろう「はい芥川です」という奴の呑気な声はいつまで経っても聞こえてはこなかった。時間が経つごとに呼び出し音が重たくなる気がした。
 受話器を戻す。テレホンカードが吐き出される。思い出した、このテレホンカードは以前芥川から借りっぱなしにしていたものだった。返しそびれたのはお互い様だなと僕は思った。
 こうして芥川不在のまま放課後を向かえ、学校は放課後を迎えた。不真面目な掃除当番を尻目に俺はカビの澄んだ匂いのする旧体育館に向かう。
「あんた、カビに毒されてんのよ。中毒起こしてんじゃないの?」
 小林さんが俺を後ろから鞄で引っ叩いた。どうやら、僕は独り言を言ってしまっていたらしい。
「カビの匂いを澄んでいるだなんて、危ないやつね」
「痛ぇな。このヤロウ」
 先ほど鞄で叩かれた頭を撫でながら、僕は笑ってみせた。
「うし、今日は大丈夫だね。最後まで練習するんでしょ」
「うん」
「脚本は暗記してきた?」
「いや」
「なんだー、あたしはてっきり家で一人猛特訓でもしてくんのかなーとか思ったんだけどさ」
「うるせぇ」
 俺はゆっくりと小林さんに対して蹴りの動作をしてみせる。彼女は笑いながらそれを避ける。
「まあ、大丈夫でしょ」
 彼女は右手に持った手提げ鞄をブンブンと振り回しながらステージの上へとジャンプした。俺は歩きながらステージ脇の階段を上った。

 部活が終わった後、僕は駅から歩いて壁の所まで行った。今日も彼女は来なかった。壁に背中をもたれて僕はふうとため息を吐く。
 森の中、虫の音と蛙の声が混じり合い響きあう。しかし僕は草むらの中にいるはずの彼らの姿を一度も見たことは無い。
腕時計に目をやる。彼女を待ってもう二時間以上経った。
 彼女の彼氏が交通事故で死んでしまったという話を聞いてから、一週間が経つ。僕が彼女の声を聞いたのも、その話題が最後である。
「いや、最期というべきですよ」
 闇の向こう側から声がした。聞き覚えのある不敵でいやらしい声だ。昨日、森の中で出会った怪しいマントの人と同じ声だった。案の定、昨日と同じマントの人が僕に姿を晒した。
「彼女は死んでしまいました、悲壮に暮れてね。ノイローゼになって、手首を切ってしまってね」
「えっ…」
 突然後ろから鈍器で頭を殴られたような感覚。心臓がきゅっと音を立てて縮み上がる。冷や汗が背中から沸き立つ。
 「ああやっぱりな」という声と「そんな馬鹿な」という声が交互に僕の耳に聞こえた。
 虫の音と蛙の声が遠ざかる。
「どうします、それでも待ちます?」
 こいつは笑う。僕は惑う。
「あなたは、壁の向こう側からやってきたんですか?」
 それはとても恐ろしい確認作業だった。
 そしてこいつはあろうことか首を縦に振った。信じるも信じないも自由な話だが、こいつの不敵な容貌と風体は僕にそう思わせるのに十分であった。
「で、私は彼女からこれをあなたに渡すように言われました」
 こいつはマントの下に隠していた自分の腕を外に出し、握り締めていた手の平を開く。そこには、昨日僕が木の葉の間に見た青い石があった。僕はふらふらと男に近づき、石に触れようと手を伸ばして、直ぐに引っ込める。
「すみません、僕はこの石に触れないみたいなんです。昨日、この石に触った時、この石がとても熱くて火傷してしまったんです」
 マントの人はこちらをじっと見る。相変わらず、目しか見えない人である。まるで目以外のものをマントの内に閉じ込めているようだ。
「袋に入れますから、受け取ってください」
 こいつはマントの下に隠しておいたらしい布の巾着袋にそれを入れ、スッとそれを差し出した。僕は両手で包み込むようにそっと受け取った。
「彼女が、死んだっていうのは本当のことなんですか?」
「ええ、本当ですよ。サービスで現場の証拠写真も撮ってきました。見る?」
「結構です」
「君はこれからどうするの?」
「あー…。いや」
 僕は考えた。僕はこれからも彼女の事をこうして待ち続けるのだろうか。
「別に彼女が来ても来なくても、この壁の事は忘れたくはありません。だから多分、これからもここに来ると思います」
「彼女がいてもいなくても関係ないんだ?」
「あー…、いや。やっぱり、彼女がいないと寂しいですね。でも…、しょうがない…」
「そうだね、そうかもしれないね。ねぇ、君は彼女の葬式に出たくはないかい?」
「でも、この壁が邪魔ですよ。仕切られた壁の向こう側になんかどうやって…」
 そう言った後に僕はハッとした。今、僕の目の前にいる彼こそが壁を越えてきた人間じゃないか。マントの人はにやりと微笑んでいるように見えた。
「私が連れていってあげようか?」
「本当ですか!?」
 驚きのあまり僕は大声を上げる。
「でもね、一つ条件があるんだよ。君が壁の向こう側に行ったら、こちら側の世界の事はすっかり忘れないといけないんだ」
「魔法か、何かですか? それとも、手術とか…」
 マントの人は昨日僕に魔法を見せてくれた。
「本当に、素朴な疑問なんですけれど、そうしたら僕は向こう側の世界ではどうやって過ごしたらいいんですか?」
「それを知っても、向こう側に行った君は記憶を失ってしまうんだから、聞くだけ無駄だよ」
「でも、一応、聞くだけ」
「なんとかなる。とだけ言っておくよ」
 この人は何者なのだろうと僕は思う。壁の向こう側に住む人間はみんなこんな格好をしているのだろうか。その事を尋ねてみるとマントの人は笑った。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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