■ トップページ  ■ 目次  ■ 一覧 

作者:浅上陽一郎

第6回  
「―ということが今日あった」
「君って最近、その話ばっかじゃん」
 言われてしまった。
そうかもしれない。何故かは知らないが、彼女の―佐真瀬さんの存在が気になる。
 俺ってそんなに意地悪な人間だっただろうか?
 他人の夢にケチを付けるような心の狭い人間だっただろうか?
「わりぃ、んじゃ、たまにはお前が話せ」
「えー」
 と彼女は驚いているんだか喜んでいるんだかよく分からない声を上げた。元気のいい声、と僕の心の中で処理しておく事にした。
「ん…、実は、大分込み入った話なんだけど」
 声のトーンが急に低くなった。
 彼女が大切な話をする時はいつも声の調子を落とす。低い声なのだが、音量自体が小さくはならず聞き取れないという事はない。低い調子で大きな声は、とても芯のしっかりした人間じゃないと出せない。部活での発声練習中、僕はそう思った。
「あたしの彼氏、交通事故で…、死んじゃって…。実は大分、へこんでるんだ…」
 彼女はこういうことまで僕に打ち明けてしまっていいのだろうかという事まで僕に打ち明ける。
 中学三年になる少し前には、進路について相談したし(僕も彼女と同じ中学三年生なので殆どためになるアドバイスは送れなかったと思う)、高校一年の夏には「好きな人が出来た」と打ち明けられ、僕は彼女を元気付け、彼女はついに告白した。
 その時、告白した彼だろうか、交通事故で死んでしまったのは…。
 多分、彼女は僕の事を特別に信頼しているわけではないのだと思う。壁の向こう側にいる存在だったら、彼女は誰にでもこのことを打ち明けていたのだろう。「旅の恥はかき捨て」みたいなものだ。もしくは「王様の耳はロバの耳」みたいなものかもしれない。
 それでも僕は、彼女には深刻な話を持ちかけた事はない。
「そうか…、それは辛いな」
「うん…、辛いよ。もう、あいつとは会えないと思うとさ…」
「会えないってのは辛い事だよな」
「うん…」
 沈黙。りーんりーんとどこかで虫の音が聞こえる。音のほうから察するに、どうやら僕がいる側の山の草むらに潜んでいる鈴虫のようだ。
 この虫の音は、向こう側にも届いているのだろうか。
「会いたいよぅ、あたし、もう一度生きているしょうちゃんと、会って話がしたいよぅ…」
 彼女の彼氏が一体どんな人だったのか気になったが、彼女にそれを尋ねるのは憚られた。でも、彼女をこんなにも悲しませるなんて、彼氏はとても素敵な人なのだろう。ちょっと嫉妬してみたり。
「ん…」
 こういう時、そっと背中をさすってあげたり出来ればいいのだが、壁に阻まれてそれが出来ない。
 彼女に触れる事が出来ない事をこれほどもどかしく思ったことは今までになかった。何もしてやれない。言葉だけじゃ、彼女を慰める事は出来ないのだろうか。
「ん…」
 縦十センチ、横十五センチのレンガ一つ分の小さな穴に僕は右手を突っ込んだ。やはり、その穴は小さくて手首の途中で引っかかってしまったが、手の平は向こう側に顔を覗かせた。向こうの空気はなんだかスースーした。キンカンを手のひらにだけ塗りたくられたみたいだ。思っていたよりも壁は薄かった。壁の内部でもある穴の中はやはりゴツゴツして冷たくて、僕は一刻も早く穴に突っ込んだ手を引っ込めたかったが、そうもいかない。これぐらい、我慢しないといけない。
「なあ」
 彼女は穴から顔を覗かせた僕の右手に気がついたようだった。
「ぷっ、それって、慰めてくれてんの」
 笑われてしまった。
「なんだか、ギャグにしか見えないよ」
 ギャグにしか見えないらしい。
 そうかもしれない、壁の穴から顔を覗かせた手首なんてロマンチックでもなんでもなく、やはりただのギャグなのかもしれない。僕は、こんなシリアスな場面でとんだポカをやらかした。
「…ありがとう」
 でも、彼女は僕の間抜けな右手をそっと両手で包み込むように握ってくれた。そして自分の頬を、僕の右手に当てた。
 とても柔らかかった。そして温かかった。
「あ、ん」
 そんな時でも僕は間抜けだった。穴に手を突っ込んだまま動けずに何をしたらいいのかも分からない。本当は、背中をさすってやったりしてやりたかったのだけれど。でもどうやら、この壁が僕らの間にある限りそれは不可能らしかった。
 彼女を慰めるため、僕は壁を乗り越えないといけないのだろうか。
 たとえ戻れなくなったとしても。
 それともやはりそんな必要はなくて、この壁の隙間だけでも僕達は十分にコミュニケーションを取れているのだろうか。
 やはり分からなかった。
 彼女は僕の手をいつまでも握ってくれていた。
 そんな僕の状態は、夢の中にいるようなものなのかもしれない。
 目を閉じていようが開けていようが大して変わりのない世界。
 とてもとても長い間、僕達はずっとそうしていたが、やがて別れて、それぞれの帰途に着いて目を閉じる。自宅の自分の部屋のベッドの中で、僕は壁のこちら側にいるのだという実感を始めて得る。とても危うい日常だ、何気に僕はそう思った。
 もし僕も彼女の彼氏のように交通事故に遭って死んでしまったら、この世界はどうなるのだろう。壁の向こう側の彼女はどうなるのだろう。いつまでも、壁の向こう側の彼女は僕が死んだという事も知らずにいつまでも僕の事を待ち続けるのだろうか。
 いや、それは本当じゃない。
 僕は思った。
 世の中はそれほどロマンチックには出来ていない。
 壁に来なくなった僕の事を、彼女はきっと少しは残念に思うだろう。軽蔑するかもしれない。
 僕と彼女の間には恋愛の入る余地がない。そもそも僕達はお互いの顔も知らない。友人ですらない。多分、お互い暇つぶしだ。
 せいぜい、「あーあ、これでおしまいか」と思う程度だろう。花火で遊び、最後の線香花火の赤い火球が地面に落ちてしまった時の残響感に似たものに一時的にセンチメンタルになるだけで、きっと彼女は次の日から、壁の事も僕の事も忘れて元気に日常を生きていくのだろう。
 僕の事を忘れてもいいから、壁の事は覚えておいて欲しいな、と僕は思った。
 それと同時に、もし壁の向こう側の彼女が同じように壁に来なくなったとしたら、僕はそれを心の中でどう処理したらいいのだろう、とも思った。もし何かの弾みで彼女が死んでしまったら、僕はその事実を知る事が出来るのだろうか。
多分無理だ。
 あんな小さな穴から聞く事の出来る情報だけでは無理だ。
 …似たような事を今朝考えていたような気がする。ああ、自分の部屋の窓から眺めた外の景色の事について、だっけ。
「いや、しかし…」
 布団の中にある自分の体を横に倒し、右腕を枕にする体勢になる。
「どうせ、俺達はもうすぐお別れだよな」
 来年僕達は高校三年生になる。そして、高校卒業後には多分僕と彼女はこの街を離れる事になる。
 やっと見つけた向こう側の世界に通じる壁。それをこの街で見つけるのに僕は十年以上もかかったのだ。大学か専門学校かは分からないけれど、どっちにしたところで僕達のこれからの進路は、僕達自身を見知らぬ街へといざなう。
 もし進学した後にまた再び向こう側の世界を知ろうと思えば、新たに壁を見つける必要がある。
 でも専門学校は二年間。大学生活ですらせいぜい四年間。その間にあちら側の世界の境目である壁を慣れない新天地で見つける事は不可能だ。きっと僕達は卒業後の就職などのどたばたで壁そのものの存在を忘れてしまい、あとは永久にお互いの事を忘れる。お互い結婚して子供を産んで、幸せな家庭を築くんだろう。
 でも、きっと僕達はお互いの事を忘れてしまう。
 それはどうしようもない事だ。
 またどこかで会いましょう、なんて気紛れにもならない。もう会えない、という事を自覚しなければならない。
「はぁ…」
 意味もなく溜息が出た。自分の無力さに情けなさを覚えた時の溜息だ。溜息すら不安定に震えている。肺も気管も喉も口も、溜息を吐く事しか出来ないみたいだ。頭の中では嫌な事しか考えられない。あと何回彼女と話をする事が出来るのだろう。
 明かりのない部屋の中。小学生の頃、この家に引っ越してきた僕。この部屋には僕のお気に入りのカーテンがある。宇宙をイメージした薄い青色の生地に星と月の模様がプリントされたカーテンだ。この部屋には机の左脇と、ストーブの真上に窓が二つあり、それらの窓にはそれぞれの大きさに合わせてそのカーテンがあてがわれている。
 このカーテンがお気に入りの理由。それは僕が生まれて初めて、選んだ物だからだ。選んだ、といっても幼い頃の僕だっていくらか我侭だ。おまけ入りのお菓子や、キャラクターのイラストが袋にプリントされただけのふりかけなんかを親にねだったことぐらいあるだろう。
 しかし、このカーテンは特別なのだ。小学一年か幼稚園の頃か、僕はもう覚えていないのだけれど、僕と母と父が一軒の貸家アパートからこの住宅地に引っ越してきた。両親が設計したわけではないのだけれど、両親が選んだ家だ。両親が選んだ家財道具だ。
 そんな中で、このカーテンは僕が唯一選んだ物だ。
 当たり前の事だけれど、人間は自分が生まれる時に親を選ぶ事は出来ない。そして、家を選ぶ事も出来ない。生れた時、ただそこにあったものが与えられる。…望むと望まざるとに関わらず。自分が生まれた家でハイハイしている僕が見ているものは、両親が選んだ角に冷たい鉄具があてがわれたテーブルだ。僕よりも大きい薄い木の板のTVラックだ。安上がりの塗装で済ませた安い石油ストーブだ。
 それらの殆どが引越しする際に買い換えられた。
 今僕が住んでいるこの家に、初めて僕の部屋が与えられた。僕が選んだカーテンがある部屋だ。
 夜の月明かり、その光をフィルターに掛けるカーテンだ。薄明かりにぼぅっと部屋の中が照らされる。そのカーテンを通してこの部屋に入る光は色彩を帯び、僕は海の底にいるような気分になる。
 とても苦しい。
 思い立って、部屋の明かりをつけ、据え置きストーブの脇に掛けられてある大きなカレンダーを見てみた。そして、彼女と会う予定になっている日付を一つずつ数え上げてみた。しかし僕は七月分の所まで数えた後、もう数えるのが嫌になってしまった。そもそも冬の雪が積もっている間は完全に会えないのだ。もう嫌だ。
 絶望に打ちひしがれて、僕は泣いた。
 僕達はもう会えない。
 そんな実感が今更訪れた。何で今まで気がつかなかったんだろう。あの壁と同じだ。いつもそこにあったのに、誰もそれに気がつかない。いざ気がついてみると、何で今まで気がつかなかったんだろうと思う。
 それは結局、向き合わなかったからなんだと思う。
 前々から分かっていた事じゃないか。知らなかっただなんて言わせない。
 ああ、ああ、ああ、ああ。
 僕は泣いた。しかし、いつしか僕は眠っていて、目を覚ます頃にはすっかり朝だった。僕は、生まれてから何度朝を迎えたのだろう、と目覚めて一番初めにそう思った。カーテンからは光が漏れている。雀の鳴き声が、陽光を遮るそのカーテンの向こう側から聞こえる。
 カーテンの前に立ち、机上に置かれているカレンダーを見た。机の上には読みかけの小説、やりかけの宿題、何かを調べたあとらしい国語辞典が散乱していた。
 カーテンの裾を握ったまま僕は棒立つ。僕は色々な事に無関心過ぎたんだ。今日はゆっくりとカーテンを開けてみた。朝の光が、所狭しとカーテンを開けた部分の端々から漏れ出る。劇の幕開けみたいだな、と僕は思った。
 僕は舞台の主人公になれているのだろうか、それとも世を照らす照明か、音を奏でる音響か、それらをつなぐ舞台監督か、運命を形作る脚本家か、運命を彩る演出家か。
 多分、僕は何者にもなれていない。そんな絶望ばかりがあった。
 そうだ、僕は絶望しているんだ。今更知った。
 時間が流れるという事をこれほど悲しいと思ったことは多分、無かった。
 上映時間はあとどれぐらいだろう。

 漣君に連れられたもう一人の佐真瀬アイも演劇部にやってきた。その時僕達は夏の大会に向けて大忙しだった。おんぼろの旧体育館は中途半端に空気と通りがよい。蒸し器の中に入れられた心持で僕達は練習に励んでいた。僕は大道具兼役者。一応、役者だけれど僕はぜんぜん偉くない。照明も音響も出来ないから役者をやっているというだけだ。
 やはりこの佐真瀬アイは漣君と一緒にやってきた。僕達が活動しているステージ上の脇にすえられた小さな階段を上り、彼らはやってきた。
 漣君は萎縮してしまい、顔を強張らせたまま何も言わない。目線は虚ろでその癖に鋭い。見た目ほど悪い人間ではないのだろうけど、あれじゃ友達は出来ねぇよ、と僕は思っていた。
 ステージの出入り口で漣君は猫背のまま挙動不審。佐真瀬アイは笑顔のまま直立不動。あからさまに二人は声を掛けられるのを待っている様子だ。僕はそんな漣君に少しイライラしていた。佐真瀬アイには少し同情していた。
 僕達は舞台の稽古に忙しく部員があちらこちらと動き回り、ステージ上は戦場のようになっている。散乱した木材、テーブルの上に広げられたMDとその他音響機材。殆どの人は大道具作りに励み、舞台監督と演出担当の二人は奥の放送室で打ち合わせをしている。時折、役者が呼ばれては奥の放送室に引っ込み、打ち合わせの確認を行う。つまり、役者は待機状態なのだ。舞台監督と演出担当に呼ばれるのを待つ間、役者はこうして大道具小道具作成に励む。
 もう十分位、漣君はステージの入り口脇で立ちっぱなしだった。佐真瀬アイもそのまま立ちっ放し。
 また壁の向こうの彼女の声が聞こえてきた。
―彼女とも、真剣に向き合ってみたら?
「どうしたの、漣君、佐真瀬さん」
 なるべく穏当に滑らかに。壁の向こうの彼女の声を真似するように言ってみた。この時、もし自分の言葉で喋っていたら、語気荒く彼らを脅かしてしまっていたかもしれない。
「あ、あの」
 と漣君はドモる。
 彼が口下手だというのは分かっていた事だ。
「ひょっとして、入部希望者?」
 僕は佐真瀬アイに向かってこう言った。
「はい!」
 と佐真瀬アイは言い、
「そ、そうなんだよ」
 と蚊の鳴くような声で漣君は言う。
 これじゃ僕も、漣君の夢の住人の一部だなと心の中で苦笑した。
「ん、分かった、んじゃちょっと待ってて」
 俺はステージ上に散らばった木材をトントン拍子に避けつつ、ステージの出入り口とはちょうど反対側にある放送室の古びたドアを叩いた。薄緑色の塗装は剥げ、回転式のドアノブもさび付いており、たてつけも悪い。そのうち、放送室に閉じ込められる人間が出てくるかもしれない、とよく友人の間で話のネタにされる部屋だ。
「部長、部長」
 ノックするたびに、古びたドアはガタンガタンと危うい音を立てる。なんだか、このままこちらに倒れてきそうだ。ドアに据え付けられたヒビのはいったガラスの覗き窓も今にも割れてしまいそうだ。
「はーい」
 と僕が三度目の戸叩きの後に、低く間延びした声が聞こえた。
 舞台監督でもあり部長でもある佐藤君の声だ。
 その声を確認した僕は、戸を開け放送室の中に入る。塗装の禿げかかった古めかしい部屋だ。
 部屋に入った時、中には三人、人がいた。佐藤君と小林さんと佐真瀬さんだ。佐藤君と小林さんは綿の抜けたパイプ椅子に腰掛けている。佐真瀬さんは直立のまま手には台本が握られている。どうやら、佐真瀬さんとの打ち合わせ中だったらしい。
 「どうした?」と佐藤君が言うよりも早く、僕は漣君が連れた佐真瀬さんの入部希望の旨を伝えた。
 佐藤君は困っているとも喜んでいるともどちらとも付かない微妙な顔をしていた。怪訝さが満ちている。佐藤君は「うーん…」と頭を掻いた後、机の引き出しから入部希望届けの用紙を取り出した。手の平の大きさほども無い、小さな物だ。
「じゃ、練習やっといて」
 と佐藤君は放送室の戸に手を掛け、振り向きざまに小林さんと佐真瀬さんに指示を出す。それを受けた「じゃ、十六ページの三つ目のセリフのとこからね…」という小林さんの声が、放送室の戸を閉める直前に聞こえた。この戸を閉めた後、佐真瀬アイは演技しだすんだな、と思った。
 やっぱり、こちらには漣君と一緒の佐真瀬さんがいた。ステージ上の放送室とは反対側にある物置からパイプ椅子を持ってきて、漣君と佐真瀬さんを座らせる。そのパイプ椅子はさび付いていてぎちぎちと空気を締め付けるような変な音がする。僕と佐藤君もパイプ椅子に腰掛ける。こちらのパイプ椅子は綿が抜けている。変な音はしないのだけれど、お尻が痛くなる。
「じゃ、これに名前書いて、ハンコ押して…」
 と佐真瀬さんに用紙を差し出す佐藤君はいつだって真面目だ。目の前で起きた出来事を淡々とこなす。
 僕はそれを見ているだけ。漣君も佐真瀬が走らせる筆の動きを見ているだけ。何をやっているんだろう、僕達は。
 漣君に連れられた佐真瀬アイの入部手続きもつつがなく終わり、漣君も家に帰った。漣君自身の心の中では一体どんな劇が上映されているのだろう。
作り物の佐真瀬アイ。夢売りの夢である彼女の役割は決まっている。佐真瀬アイは演劇部員所属でその夢の中のヒロインだ。その夢を買った人は、その佐真瀬アイとは幼馴染として設定される。そしてその佐真瀬アイの幼馴染はサッカー部のエースでなければいけない。
そういう風に、夢が日常を侵食する。
だから如月君も漣君も佐真瀬アイを演劇部に連れてくる。でも、それはあくまでも設定だから、本人達は何もしなくてもいいらしい。例え帰宅部で成績もクラスの中以下でも、体育のサッカーの授業でボールをドリブルせずにピンボールのように前に蹴る事しか出来ない奴でも、佐真瀬アイは幼馴染という設定の如月君と漣君をサッカー部のエースとして扱う。だから佐真瀬アイはいつだって輝いているし、普段のコンプレックスから解き放たれたらしい漣君も如月君も何かしら変わった、ような気がしないでもない。
しかし僕はなんだか不安だった。日に日に、漣君と如月君達と僕達との距離が増しているような気がしてならない。そう思った時、僕はもう佐真瀬アイを直視する事は出来なかった。彼女は、人さらいだ。そんな気がした。
脚本が変更された。もう一人現れた佐真瀬アイに合わせて、ヒロインが二人になった。頭の回転の速い小林久美さんの機転の利いた脚色で、佐真瀬アイ本人達以外の箇所は殆ど変更せずに済んだ。新しい動作が加えられたり、少し端折る箇所があったものの、セリフも殆どそのままだ。
部活が終わった後の暗い夜道、僕は小林久美さんと駅へと続く暗い夜道を歩いていた。丘の上に立つ僕らの学校。下り坂が僕らの目下に見える。まだらに散在する街灯も頼りない。
「しかし、よくもこんなに直ぐに脚本を直せたね」
「へへへー」
 今回、僕達がやる脚本は彼女が書いたものだ。既成の脚本を使うと著作権に関係した使用料を払わなければならない。県立高校の僕達演劇部にはお金が無い。生徒が脚本を書くというのはある意味、この学校の演劇部の伝統になっている。部費をたくさん学校から出してもらっている他校の演劇部は殆ど既成脚本を使う。確かに、内容が粗雑でセリフが青臭いみっともない脚本かもしれないが、僕達はこれを誇りに思う。賞を取るばかりが、能では無いと僕は思う。
小林さんと別れる。脇道に入り、街灯の少ない心細い道を歩く。僕は、佐真瀬アイの事と今度やる脚本の事について頭を何度も巡らせた。しかし、いくらそれらの事について答えを与えてみようとしてもどれもしっくりとこない。佐真瀬アイを普通の人間として見る事は僕には出来ない、かといって作り物の人間として割り切る事も出来ない。
 彼女とどう向かうべきなのだろう。
 それから僕は答えの無い問題を解く事を諦め、脚本のセリフを頭の中で反芻してみる。何度も何度も僕の頭の中で、僕のセリフが響く。何度も何度も僕の頭の中で、その劇が終わる。当たり前の事だが、脚本をいくら頭の中で反芻してみてもその内容が変化する事はない。寧ろ、回数を重ねる度に内容が頭に焼き付き、固定されたイメージが一種の呪いのように僕の心にずっしりと圧し掛かり、心を侵食していく。

← 前の回  次の回 → ■ 目次

Novel Editor by BS CGI Rental
Novel Collections