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作者:浅上陽一郎

第5回  
壁から家までの距離はそれほどない。自転車で十五分の距離である。車通りの少ない道を無灯火で突っ走り、僕は家に帰る。
「ただいま」
 という僕の返事に答えるものは誰もいない。木造モルタル二階建て。しかし、奥の部屋からは人間の声がする。でもこれは、きっとテレビの音だ。母がテレビを見ているのだろう。
 着替えを終えて、テレビのある居間に向かうとそこにはやはり母がいた。
「ただいま」
 と耳元で言ってやって、「あ、うん」とか細く答えた母の声が僕の耳には聞こえた。母がテレビを眺めているのを僕は見る。
「母さん、昼飯食べた?」
 返事は無い。いつもの事なのでため息しつつも無視。母さんのために用意しておいた戸棚に入れておいた昼食のおにぎりとおかずは手がつけられないままになっている。母さんはものを食べない。
「母さん、夕飯何がいい?」
 聞いただけ。返事は勿論無い。米はジャーのタイマー機能を使ったので既に出来上がっている。ただし、ほぐしてくれる人がいなかったため、米は粘性を帯びたまま丸くジャーの中に収まっている。
「母さん、夕飯、できたよ」
 台所から顔を出し母の後姿を見る。生気の抜けきった後姿。それだけ見ると、母はもう既に死んでしまったのではないのかと思ってしまう。実際に不安になって、母の後姿を見る度に顔を覗き込んで彼女が生きているのかを確かめずにいられなくなることも多々あった。
 でも最近では母が死んでいようが生きていようがもうどうでもいいやと思ってしまっている自分がいる。そんな自分が怖くなるが、その恐怖にも次第に慣れてしまう。
「母さん、できたよ」
 耳元で怒鳴ってやって「あ、あ…」と言い、彼女は歩き出した。背筋を曲げ、足を引きずるように歩く様はもう老人そのものだ。
 でも、彼女はまだ三十九。
 母がこうなってしまったのは、四年前。中学校の裏山で壁を見つける一年も前の事である。喪失というのはそんなにも大きな事なのだろうか。僕は疑問を持たざるを得ない。僕達一家は弟を失った。世間では家出という事になってはいるが、そうではない事を僕だけは知っている。
 弟は連れ去られた。ハーメルンの笛吹きに。
 中学一年の僕に、小学六年の弟は言った。
「俺はアニキみたいにはなんねー。絶対、エラい人になる。ギターのプロになる。ベンチャーズか、ビートルズを目指す」
 それから一週間後、弟はいなくなった。僕はその時に弟が夢売りに連れ去られていくのを見た。黒服のマントの人に手を引かれる、弟の姿を。
 その後に、母は抜け殻となった。よほどショックだったのだろう。彼女は痴呆患者のように灰色になってしまった。髪には白髪が混じり始めた。抜け毛が多くて地肌が見えている。たまに風呂にも入り忘れてしまう彼女の皮膚も、粉が拭いたようになってしまっている。
 母は捜しているのだ、ひょっとしたらテレビの向こう側に弟無いのかと。
 それからだ、多分。僕が夢も希望も持つまいとしたのは。
小学生の頃の卒業文集を読み返した事はあるだろうか。あれは自分の馬鹿さを測るのにちょうどいい。弟がいなくなって気がついたことなのだが、文集に夢を書く奴は大抵落ちこぼれだ。頭が悪いくせに世界を知った気でいる奴なんかが「サッカー選手になる」「プロのミュージシャンになる(ただし、文集の中での表記は「ギターのプロ」と幼稚な表現)、「自衛隊になる」などなど…。
 まったく爆笑物である。文集の中で「ギターに燃えている」だの「『!』付きで絶対になってみせる」だの。ハイハイ、おめでたいね。と高校生になった僕は思う。サッカー選手になるといった人はせいぜい高校の部活で県大会どまりのチームでエースになるか否かが関の山だし、プロのミュージシャンになるといった人はせいぜい文化祭の英雄どまり。
 ちなみにその文集で「僕は小学校生活で成長した。五年生の時、運動会の応援団を務めてから積極的になった。小学校生活は楽しかったです」と書いた僕は幼心ながらそういう事を分かっていたのかもしれない。
 おかげさまでいい大学にも入れそうである。
 つまり、世界を知るという事は夢をあきらめる事なんだ。
 親の背中を見て僕は思う。

 彼女―佐真瀬アイはいつまで経っても変だった。変だった、と表現するにはいささか誤謬があるかもしれない。彼女は完璧だった。いつでも同じ事ばかりをするのだから、多分それは完璧なのだと思う。
 佐真瀬さんが僕達の生活に登場するようになってから、如月君は急に明るくなった。しかしそれは間の抜けた明るさで、クラスの皆はそんな彼を「今更…」といった目で見ていた。しかし、如月君はクラスのその冷たい視線には気がついていないのだろう。もしくは、別に構わないとでも思っているのだろうか。自分を映画か何かの主人公と重ね合わせて「世界を敵に回してでも、僕は君を守る」といった感じで佐真瀬さんの事を見ているのだろうか。とにかく、如月君の行動はいい年した十七歳の行動とはとても思えなかった。
自然とクラスの連中は如月君の事を避けた。
佐真瀬さんはその明るい表情と暖かい言葉使いで男女を問わずに人気があった。佐真瀬さんの周りにはいつも沢山のクラスメイトがいた。佐真瀬さんはいつも如月君の傍にいたので、必然的に如月君の周りには友人が沢山いるように見える。そして多分、如月君自身は実際にそう思っているのだろう。しかし、それは単なる勘違いに過ぎず、如月君にまともな友人はいつまで経ってもできなかった。
佐真瀬さんの登場による生活の変化は、僕達―S高校演劇部の活動にも及んだ。彼女はとにかく“演技をする事”に関しては天才的だった。部長の佐藤君も舌を巻いていた。僕もそんな彼女をすごいと思った。セリフの覚えは悪かったが、台本を持ちながらの立ち稽古が天才的に上手だった。しかし台本が手元を離れると覚束なくなるのだ、彼女は。
クラスでは人気のある彼女だったが、部内での彼女への評価はパッとしないものだった。彼女は完璧だったが、圧倒的に何かが足りなかったのだ。
佐真瀬さんが現れてから一週間後、新たなイレギュラーが現れた。長い髪の毛、凛とした瞳、すらっとした体躯。姿形はおろか、服装から何までそのイレギュラーは佐真瀬さんと同じだった。
「へ、へ、へ、私も買っちゃいましたよ、夢」
 イレギュラーの名前は、佐真瀬アイといった。
「あ、ああ、漣クンも買ったのか…」
 そのイレギュラー―もう一人の佐真瀬アイは隣のクラスの男子、漣龍君と一緒に僕のクラスにやってきた。ガラガラと教室の前の戸を開けて、何かに怯えるような歩みで、前から二番目、廊下側から三番目の席に座る如月君のところまで行った。如月君の左隣の席には佐真瀬さんがいる。
 漣龍君は小太りの男だ。メガネを掛けて、髪をだらしなく伸ばしている。如月君とは趣味が合うらしく、このクラスにもちょくちょく顔を覗かせていた。
 僕は漣君がこのクラスに現れるたびに「自分のクラスには友達がいねぇのかな」と思っていた。
「う、うん。や、やっぱり佐真瀬アイが、い、いいよね」
「う、うん、佐真瀬アイは、か、可愛いよね」
 と如月君と漣君の二人は低い小さな声で、顔を寄せ合いまるでヒソヒソ話をするかのように会話をしていた。
 如月君の左隣の席に座る佐真瀬アイは意味も無くただウンウンと二人の話を聞きながら笑顔で頷き、漣君の右後ろに立つ佐真瀬アイも意味も無くただウンウンと二人の話を聞きながら笑顔で頷いていた。
 クラスの他の連中は、彼らとは関係の無い所で―彼らを避けるように、教室の隅に固まってそれぞれ他愛の無い話をしていた。その会話の中には、如月君と漣君を気持ち悪がる趣旨の物もあった。
 一番後ろの廊下側から四番目(ちなみに窓側からは三番目)の僕の席に、芥川も逃げるようにやってきた。芥川の席はちょうど如月君の一つ後ろなのだ。
 僕は本から目を離し、背表紙を表にしてそれを机の上に置く。
 芥川は「ったく、勘弁してくれよ」といった表情で苦笑いしていた。
 僕は「ははは…」と笑いながら、教室をさっと見渡した。クラスの前方右隅、如月君達の周囲がまるでエアポケットのようになっていた。
 僕と芥川も佐真瀬アイから目を反らした。

 僕が壁に空いた穴の向こう側の声を聞きにいくのは、週に三日だ。火曜日と金曜日と土曜日。冬の間は会わない。僕が住んでいる地域は豪雪地帯で結構な雪が降る。そのため山奥にあるこの壁に行くには莫大な労力が必要だ。
 彼女の住んでいる世界には雪が降るのだろうか?
 そういえば、そんな事気にしたことも無かった。彼女がどんな所に住んでいるかなんて、僕にとってはどうでもいいことなのだ。
「ったくまいっちまったよ」
 壁に背中をくっつけて僕は、壁の向こう側の彼女に言う。壁は今でもひやりと冷たいが、衣服を介すればその冷たさもまるで嘘のようだ。シャツ一枚とスーパーの安物T−シャツ一枚だけだっていうのに。
つまり壁に直接触れなければ問題無いらしいということだ。僕が感じている壁の温度は、薄手のシャツ一枚で触れたときでも、幾重にも衣服を重ね更にその上にコートを羽織っていたとときでも変わりは無い。そういう事に、つい最近気づいた。
「なに、また佐真瀬さんの事?」
 壁の向こうから、今日も声がする。いつもと同じ声。
「あいつら、自分で自分のやっている事が分かってんのかな? 幾ら作られたものだからって、同じ人間がいるって事に違和感がねぇのかな」
 如月君が連れた佐真瀬アイも、漣君が連れた佐真瀬アイも寸分違わぬ同じ顔。同じ出来事に同じように反応する自分の佐真瀬アイが自分独りだけのものだと信じて疑わない如月君と漣君。なんだか不気味だ。そういう事は不気味だ。
「…、麻痺しちゃったのかな?」
 壁の向こう側の彼女はぽつりと呟くように言った。今にも壁に吸い込まれそうな声だったが、壁に空いた穴はきちんと今でもあって、きちんと僕達の声を伝えている。音とはつまり空気の振動だ。これを習ったのは中学校の理科だったか、高校の物理だったかよく覚えてはいないのだけれど。
「自分の世界に閉じこもっちゃったから、周りが見えなくなっちゃったのかな? ほら、自分の家の匂いって慣れちゃうとぜんぜん気がつかなくなっちゃうでしょ。自分の家が無臭だと思っていても、よそから来たお客さんなんかにはきちんとその家の臭いがばれちゃっているのよね。あれと似たようなものでさ、自分の世界の臭いに慣れちゃってその臭さにぜんぜん気がつかなくなっちゃう」
「…君の世界のにおいは…」
 僕はポツリと
「どんな香りがするんだろう?」
 壁の向こう側の声はなんでもないよといった風に。
「きっと同じにおいだよ。私とあなたの世界の間には大きな壁があるみたいだけれど、きちんと穴も開いているし、そもそも壁の高さは三メートルも無いんだから空気ぐらい通すでしょ」
 本当にそうだろうか。
 例えば僕らはこうして山の中にあった壁を挟んで会話を行き来させているが、僕から見た壁の高さと壁の向こうの彼女から見た壁の高さは違うのかもしれない。確か、ここは下り坂の途中だった。つまり壁の向こう側までその坂が続いていた場合、向こうの世界から壁を見ると壁は僕から見た場合よりも少し高いはずだ。更に彼女が今いる場所に大きなくぼみがあったりした場合は尚更である。
「今度さ、こっち側の世界にもおいでよ。あんたは男なんだから、これぐらいの壁ちょろいでしょ? ポーンと飛んできて、ポーンと帰っちゃえばいいよ」
 正直な話、怖かった。万が一壁の向こう側に行けたとしても、次に僕は帰る事が出来るのだろうか。
 行ったきり、帰ってこられなくなるのはごめんだった。
「あー…、考えとく」
 彼女に吐いた嘘はこれが初めてかもしれない。
 そんな僕に彼女は本当に嬉しそうに言うのだ。
「待ってるね、楽しみにしているから」
 まるで歌っているかのような、起伏豊かな物言いだ。
 ここは山の中の坂の途中。
 彼女は壁の向こう側でいつまでも意気地なしの僕の事を待ってくれているのだろうか?

 そして今日も学校が始まる。本当にいつもと変わらない。窓を開ければ日が差して、窓の先の電線には雀が行ったり来たり。
 でもよく考えたら、地球は公転しているのだ。とすれば僕達はこの広大な宇宙を常に移動しているということになる。この空気は先ほどまで地球があった宇宙のとある場所の空気と違う宇宙空間の空気なのではないのか? と中学の理科の授業中に僕は思ったのだが、残念ながらそうではなく地球には引力と重力があるから、この空気はいつもと同じ地球の空気だ。
 でも、やっぱり違う空気だと思うことにした。
 今僕が吸っている空気は、北朝鮮に自生している木々植物が作り出してくれた酸素だと思うことにした。うん、グローバル。
 今日はいつもゴミ出しを手伝う女の子は通らなかった。彼女の家では昨日はあまりゴミが出なかったのかもしれない。もしくは女の子が風邪を引いたのかもしれない。ひょっとしたら引っ越したのかもしれない。まあどのみち、窓の縁に肘をあてがって考えた僕の推理は空想に過ぎず、そのうちのどれかは真実かもしれないけれど間違っているのかもしれず。しかしどの道、僕はその本当の事を知る事は出来ない。
 部屋の中、窓から見える景色なんかほんの一部だ。
 それでも、確かに毎日の変化を見て取る事は出来るんだけれど。

 登校中、珍しく友人と会った。自転車を修理に出していたため、僕は駅までの道のりを歩かなければならなかったのだ。住んでいる団地を抜けた長い殺風景な農道が続くその手前で、ボサボサ髪の如月君とサラサラ髪の佐真瀬さんに会った。
 こうして見ると本当に二人は対照的だ。
「おはよう」
 僕はどちらに先に声を掛けたらいいのか分からず、二人の間の微妙な何も無い空間にそう言ってみた。
「や、やあ、おはよう」
 如月君は相変わらずどこか怯えた調子だ。
「おはよう」
 佐真瀬さんはまるでレストランのウェイトレスのように丁寧に頭を下げてそう言った。嘘みたいな人間だな、と僕は佐真瀬さんの事を気持ち悪いと思ってしまった。でも僕は、昨晩壁の向こう側の彼女から言われた言葉を思い出す。
―彼女とも、真剣に向き合ってみたら?
 田んぼの脇のあぜ道を歩き始めた僕達。三人並んで歩くのは流石に危ないだろうか。
 僕の脇には乗用車が盛んに行き来している。この車の殆どが市の方に向かうものだ。
「如月君と佐真瀬さんって、家近いんだ?」
 佐真瀬さんは嘘の人間だけれど。
「う、うん、ぼ、僕と佐真瀬は、お、お、お、幼馴染だからさ。い、いつも、じゃなくて、む、む、む、昔は僕と佐真瀬はお隣同士の幼馴染だったんだけど、い、い、家の都合で僕と佐真瀬は離れ離れ、で、で、でも十年振りに、か、か、彼女は昔の家に戻ってきて、う、う、う、運命の再会を果たしたと、い、言うわけさ」
 如月君は鼻息荒く首だけを向けて、僕の目を真っ直ぐ見る。
 僕は少しばかり頭にきたので、睨むように見返してやった。
 そしたら如月君は直ぐに視線を地面に落としてしまった。
 なんだ、そんなものか。
「京ちゃんは、小さい頃と変わっていないねー」
 佐真瀬さんの目は光に満ちている。ただし、左右共に同じくらいの明るさだ。ひょっとしたら、佐真瀬さんには太陽の光は常に真上にあるのかもしれない。
「わ、わぁ、やめろよー」
「京ちゃんったら、幼稚園の頃ねー。幼稚園のガキ大将に苛められていた私を…」
 夢とはこういうものなのだろうな、と僕は思う。
 如月君の「やめろよー」は、佐真瀬さんの「苛められていた私を…」よりも大分早かった。
 つまり与えられたセリフ、与えられた過去。如月君は演技に失敗した。しかも、間抜けなくらいに棒読みだった。そもそも如月君は三年前にこの団地に引っ越してきたのだ。設定がちぐはぐしている。十年前に、彼の家も彼女の家もここにあるはずがないのだ。
 しかし、佐真瀬さんの存在は幻なのだ。佐真瀬さんの家はこの世のどこにも存在してはいないのだろう。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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