「―とそんな事があったんだよ」 僕は壁にもたれ掛かり、その壁の向こう側に向かってそう言った。 辺りは暗闇ひっそりと静まり返り、虫の音がりーんりーんと響いている。木々が時折風になでられさわさわと揺れる。空には月と星と雲がある。今日もひっそりと静まり返った、ここは山の外れの森の中。 「へえ、それはとても怖い事だね」 「全くだよ」 僕がもたれかかっている壁は何処までも続いていた。東から西へ、もしくは北から南へかもしれないがとにかくその壁は何処までも真っ直ぐに作られていた。果ても見えない。高さもそれなりにある。ジャンプすれば届くかもしれない高さだったが、僕は未だにその壁を飛び越えるという事にチャレンジした事はない。なんだか怖いのだ、自分が精一杯ジャンプして手が壁の縁に届かなかった時、僕は自分になんと言い訳したらいいのだろう。 「君は、そういう人間が自分の傍に居たらいいなぁ、って思うの?」 僕がこの壁を見つけたのは、十四歳の秋、当時中学二年の夏休み、僕達はクラスメートと部活をサボって学校の裏山であるA山に来ていた。そして、何処から持ってきたのか、僕達は缶蹴りを始めた。じゃんけんに負けた僕が鬼で、山の中にある寺の社や木の陰に隠れているであろう友人を探して僕は木々の間をさまようのだが、人を探すのが苦手な僕はいつも缶から距離を取りすぎてしまい、何度も他の連中に缶を蹴られてしまうのだ。 そして、もう数え切れないぐらいに缶を蹴られ僕は疲れ果てていた。もうこんなことやめようよ、なんて思いながら遠くに蹴り上げられてしまったらしい空き缶を探しているとその壁はあった。 その存在は唐突だった。なんでこんな所に壁があるんだろうと思った。しかし、次の瞬間には「どうして今までここにある壁の事に気がつかなかったんだろう」と思っていた。壁に触れてみる。触れたものの温度を全て奪ってしまうぐらいその壁は冷たい。僕は自分の熱が壁に奪われないよう慎重に右手に握りこぶしを作ってトイレの戸をノックするみたいにコンコンと叩いてみた。しかしコンコンと音はしなかった。この壁は全く音を伝えないんだなぁ、と僕は何気なく思った。真空みたいだな、真空が固まったらきっとこんな感じの固形物が出来上がるんだろうな、などと自分でもわけの分からない感想を抱いた。 「ここに、壁があるよぅ」 大声で叫んだが誰も気づいてもらえなかった。 仕方がないので、僕は再び友人探しをする事にしたのだった。 「ヤだな、作り物の人間なんて。気味悪ぃ」 「でも、君は演劇部で、作り物の人間を演じるんでしょう?」 「あー、ん」 夕刻になり友達との缶蹴りを終え、それぞれの家路についた中学二年の僕達だったが、夕飯を食べ終え、風呂に入り、勉強する振りをして夜更かしをした僕は、親が寝静まったのを見計らいこっそり家を抜け出した。実は、これが初めての夜更かしであり、初めての無断夜間外出だった。 壁の事が気になり忘れられなかった。 自転車を十五分ほど走らせ、僕の通う中学校に着く。校舎裏のグラウンドの脇に自転車を止め、それから懐中電灯を持って深い森の中をさまよった。 自転車で学校に行くまでの間、僕は常に左腕に掛けていた時計が示す時間を気にしていたのだが、山の中に入り木々の中を縫うように進んでいると既に時間の事なんか忘れていた。毎時ゼロ分ゼロ秒になったときに鳴る腕時計の電子音に、自分が腕時計を付けていたのだという事に気づかされたほどだ。 完全に時間を忘れ、あんなのは僕の幻だったのかな、と思った頃にやっとその壁を見つけた。壁は模様も無くデコボコも無くツルツルだった。壁は灰色でその灰色が何処までも真っ直ぐに広がった。山の斜面なんかも無視し、とにかく真っ直ぐだった。この壁は上手い具合に木とぶつかり合う事は無かった。ダムの堤防みたいだった。万里の長城がこんな具合だろうかとも思った。黒板みたいだな、とも思ったりした。とにかく、この壁はありとあらゆるものを連想させた。 壁を見つけた僕だったが、何故か感動は無かった。せっかく見つけたのに、変だなと僕は思った。この壁は何故灰色なのだろうかと次に僕は思った。僕は多分、月の明かりのせいだと思った。しかし、日曜の朝、再び壁のもとにやって来た僕は自分の考えが間違いだった事に気づく。日に照らされても、この壁はいつでも灰色なのだ。 「いや、ん…、“演劇の真髄とは劇中人物になりきる事により、その役柄の生命の躍動を感じ取る事にある”んだぜ」 「なにそれ、何かの引用?」 「ん…、多分、ゲーテかワーグナーかダンテか…」 「ワーグナーは作曲家よ」 「でもミュージカルも作ったんだぜ?」 「それを言うなら楽劇よ」 「詳しいんだね」 「高校生ならこの程度知っていて当然よ」 「あれ、君高校生だったんだ?」 「そうよ、この前言わなかったっけ?」 壁の向こうの声はクスリと笑った。 何処までも続く完全無欠のはずのこの壁の隙間を見つけたのは、壁との接触から一週間後のことだった。 壁を見つけた中学二年生の僕は、それから毎日学校の裏山の壁に通った。放課後はもとより、金曜の深夜と土曜の深夜にもこっそり通った。日曜日には一日中、壁と向き合った。そして、何気なく壁に沿って何処までいけるのかを試していた僕は、日曜日の夜にぽっかりと空いた壁の隙間を見つけた。 最初僕は戸惑った。何でこんな所に穴があるのだろうと思った。そしてその穴を僕は覗くべきだとも思ったのだが、それはとても大きな罪であるような気がした。誰の断りも無しにこの穴を覗いてはいけないと思った。しかし、この壁の存在を知っているのは僕の周りには僕しかいなかったので、僕はこの穴を覗く事は出来なかった。 僕はその穴の開いたポイントから、壁に垂直になるように真っ直ぐ歩いた。壁は森の木々が途切れたあとのちょっとした坂の下にあったので、僕は大きな疲労を背負いこの坂を上る羽目となった。坂を上りきる少し手前に木があった、僕はあらかじめ印をつけるために持ってきた赤いリボンをその木の幹に結びつけた。血の色のような真っ赤な赤だ。炎のような真っ赤な赤だ。そして僕は、その赤いリボンのおかげで壁の中にある小さな穴に行く事が容易となった。 そして僕は彼女と出会った。 彼女はその壁の向こう側の住人で、僕が毎日のように壁に通っている時、偶然彼女の存在を知る事になった。壁に空いた穴を見つけて更に一週間後の事だった。 僕は穴を見つけてからも毎日壁に通っていた。今まではただ壁を観察する僕だったが、壁に空いた穴を見つけてからは、僕は少し積極的になっていた。手の平大程度のその穴に口をつけて叫ぶようになったのだ。 「ねぇ、誰かいない?」 当時剣道部だった僕だが、その時の声は多分、稽古中でも試合中でも出した事の無いほど大きなものだったのだと思う。 壁に通い、穴に向かって叫ぶ日々が続いた。僕は毎日穴の隙間に向かって「ねぇ、誰かいない?」と言い続けた。そんな生活が続いて一週間、僕は彼女に出会えたのだ。 それは図らずもあちら側からのアプローチだった。 「ねぇ、誰かいない?」 今日も暇つぶし程度にと、野山の散策と壁の探索をしていた僕に突然その声が聞こえた。女性の声だった。僕はほとんど直感的に、この声はあの壁の向こう側の小さな隙間から発せられたものに違いないと思った。そういう風に確かに僕の耳には届いていた。いざ、穴のもとへ向かおうとして僕は急いで坂を駆け下りた。 坂を下る際、急ぎ過ぎて木の葉で足を滑らせ、僕は尻餅をつきそのまま坂を転がり落ちてしまった。体中、木の葉塗れで土の匂いがした。しかし、幸い大きな怪我も無く済んだ。そんな事よりも僕はその声の主が壁から離れてしまう事を恐れた。 「ねぇ、誰かいない?」 その声が先ほどよりも小さな調子だったので僕は慌てた。急いで返事をしないとその声はどこかに行ってしまうと思った。僕はお尻を地面につけた状態のまま、藁にもすがる思いで思いっきり叫んだ。 「僕はここにいるよ!」 あれから三年経ったのだ。 彼女と出会った最初の一年間は、毎日この穴に通い、互いに学校であった事、家であった事、友人の事、親の事、将来の事、恋愛の事について語り合った。 そういえば僕が中学三年生になった時、彼女はこんな事を言っていた。 「私、今年高校受験だから今度からここに来られなくなっちゃう」 そのとき僕はこう返したのだ。 「へぇ、そうだったんだ。実は僕も今年受験なんだ、高校の」 その時になってやっと僕達はお互いの年齢を知ったのだ。けれど、相手の年齢なんて実はどうでも良かったのだ、あの時は。 「ああ、そういえば俺と君は同じ年なんだっけ?」 「そうだよ、男の人はそういう事すぐ忘れちゃうんだね」 「高校には無事合格したんだっけ?」 「したよ、失礼なヤツだな君は」 「留年は?」 「してないよ」 壁の向こう側の声はまた笑っている。僕が冗談を言っているのだという事を分かってくれているのだ。 「とにかくさ、その佐真瀬さん…だっけ? その人とも誠実に向き合ってみるべきだと、あたしは思うな」 「でもよ、作り物みたいなんだぜ? あいつ…」 「それは、理性的、とも受け取れないかな。理性的なのは人間の証だよ」 「うーん…」 と僕は言葉に詰まってしまう。 「でもさ、何処の世界も変わらないよね」 と今度は彼女から話し出す。 「私の世界にもさ、そういうのがあるんだよ。“げぇむ”っていってね、お金を払って“げぇむ”をするための機械を買ってさ、遊ぶんだよ。架空の世界を。 一つの本体の機械を買った後は、自分で好きな世界が表現された“げぇむ”を選ぶの。また、お金を払ってね。 最近は、皆そういうのばっかりで詰まんなくってさ」 「はぁ、変わってるな、お前の世界は」 「それは、お互い様だよ」 「そうかな?」 「そうだよ」 「違いねぇ」 僕と彼女は大きな冷たい壁を挟んで笑った。天には月と星が輝いている。 「ああそうだ、実は今、本持ってきてんだ」 「へぇ、君は読書家なんだ。意外だね?」 「何が、どう意外なんだよ」 壁を隔てた付き合いに意外もへったくれも無いと僕は思う。 僕は鞄に入れっぱなしにしておいた文庫本を数冊取り出し、壁の隙間から彼女に手渡す。 「えっと…、あーん。暗くて読めないよぅ。これ、何?」 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 「それは楽劇だよ」 「え、あ、ああ、そっか。ヴィルヘルム・マイスターだった。悪い悪い。似ていたから間違った」 「で、これが何?」 「さっき話していた“演劇の真髄とは劇中人物になりきる事により、その役柄の生命の躍動を感じ取る事にある”がその本のどこかに書かれてたんだよ。正しくどういう表現をされていたのかは忘れたけどな」 「へぇ、面白そうだね。貸して貸して」 「そのつもり」 「よっしゃ、でどういう話なの?」 「んっとな…」 ―ヴィルヘルム・マイスターの修行時代、ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代。作者はドイツワイマール帝国の宰相、ゲーテ。十八世紀の封建制下のドイツを舞台にした小説。主人公はヴィルヘルム。ヴィルヘルムは幼い頃、親に見せられら芝居がきっかけで演劇に身を投じる事を前々から願い、創作や芝居修行を重ねていた。しかし、とある女性との恋に破れてしまう。人生に絶望しかけたヴィルヘルムだったが、演劇界に身を投じ、あらゆる人との出会いや別れを繰り返していくうちに、人生の浮沈を味わう 「…とかなんとか。俺も読み終えたわけじゃないから、詳しくは言えん」 「うんちく聞かされる事になるとは思わなかったよ」 「あ、悪い。長かったか」 「あー、でも君ってあんまり本とか読む人には見えなかったから、意外な一面を見たような気がして、それは面白かったのかも」 「で、なんで俺が本を読むと意外なんだよ」 「君って、大学の受験対策で読書してるの?」 「…いや、面白いから読んでいるだけ」 「ほら、それが意外なんだよ」 天には星と月が冷たく銀色に輝いている。壁に阻まれたこちら側とあちら側だが、夜空は繋がっているのだ。 「じゃ、今日もそろそろ…」 「うん、今日も話せてよかったよ。部活、頑張りなよ」 「そういえば君は部活していないの?」 「あたしは帰宅部なのだー」 「遊んでばかりいるのかこのヤロウ」 僕と彼女の笑い声が夜の闇の中に木霊する。彼女の抑揚の効いた生き生きとした喋り方は、彼女の表情を容易に想像させる。僕はそういう喋り方が出来ないので少し羨ましくなる。 「あんたは演劇部なんだから、もっとはっきりと喋りなさい」 と彼女からはよく怒られている。 「顔が見えなくても、どんな人か分かるくらいに」 というのが彼女の願いらしい。 壁を隔てた僕と彼女の交流は、ひどく危ういのだと僕はつくづく感じていた。 「じゃあな」 「うん、また」
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