佐真瀬アイさんとの送別会の日取りが決まった。夏休み前、一学期終了後の終業式の後の放課後。佐真瀬さんが転校してしまうのは、夏休み中の事になってしまうらしい。そのため、早めに済ませてしまうのだそうだ。その前に僕達には演劇の大会がある。 今日もいつも通りの練習を終えた帰り道。日はどっぷりと落ち、月が出かかった時間帯。僕は芥川の事を考えながら。帰りの途に着く。 夢から覚めかけ、ショックの大きい出来事が相次いだ。心が現実に着いてきてくれている気がしなかった。夢という壁が崩壊し、日常が見えてきた。それはいい。でも、それはとても寂しい事なのだと今の自分は考えている。でもそれは、多分自業自得なのだと思い直す。今まで、夢の中に閉じこもって現実と目を向けようとしなかったから、そのつけが今になってきているのだと考える。そして、そのつけが払い終わる頃には、僕はきっと現実の中の住人になれているのだろう。今は耐えるしかないと思った。 後ろからどんと背中を叩かれる。井上さんだ。 「また返しそびれるところだったよ、明日、あんた古文の授業があるんでしょ? 忘れちゃ駄目じゃない」 なんだか、そのノートはもうどうでもいいような気がしてきた。ひょっとしたら、これも夢なのかもしれない。 「そういえば、どうして僕の明日の授業に古文があるって知ってたの?」 「ああ、小林さんから聞いた」 小林さんと井上さんは仲がいいという設定だものな、なんて嫌らしい考えが頭をよぎる。 「小林さんからね、あんたの明日の授業に古文があるんだから、急いで渡してきなさい。っていきなり言われてさ。」 なんだかこの夜空に浮ぶ月も空も雲も憎たらしかった。 「一体どうしたんだろうね。小林さんが言うのよ。 “お礼は言える時にしっかり言っておきなさい”ってね。どういう意味なんだろうね。少しビックリしちゃったよ。今まで、そんな事もなかったし」 井上さんは笑う。せめて、この笑顔だけは本物であって欲しいと考えた。 「まあとにかくさ。もう少し自分の事は自分でしっかりしなさい。貸したものを貸したままなんて事のないようにさ」 「しょっちゅう、僕から予習復習その他宿題もろもろを見せてもらってる張本人が言う事か?」 笑う井上さん。別れ道に差し掛かった所で僕と井上さんを呼び止める声が聞こえた。 「なんだろうね?」 僕と井上さんが来た道を駆けてくる影が見える。佐真瀬さんだ。 「ああ、よかった。間に合って…」 肩で息をしている佐真瀬さん。大分急いできたらしく、折角の長い髪も乱れている。 「折角だから、一緒に帰ろうと思って」 僕と井上さんは別れ、佐真瀬さんと夜道を歩く。 「そういえば、佐真瀬さん…、っと漣君の方の佐真瀬アイさんはどうしたの?」 「実はそちらのほうの佐真瀬アイは自転車通学に切り換えたんです」 佐真瀬アイさんのいう話では、二人に差をつける為だったという。漣君の佐真瀬アイさんの方が学校に近かったため、彼女が自転車通学の役割を引き受けたのだそうだ。 「いつか言ったよな。自分が夢の存在なんだって」 「ええ…」 「そろそろ、この夢も終わっちまうんだなぁ、って僕思っちゃってさ。ちょっと今日は調子が悪くてさ」 佐真瀬アイさんが転校するという事もそういう事なのだろう。転校して、僕の目が届かない所に行ってしまう。たとえ、この広い世界のどこかで佐真瀬アイさんが生きていると言われても、そんなものに確証を持てやしないのだ。自分の知覚外に出てしまったものの存在を僕は知る事も出来ないのだから、僕にとっては佐真瀬アイさんが消えてしまうも当然なのだ。 「皆、今頃どうしてるのかな」 「多分、そうですね。芥川さんは、どこかで音楽活動をしているんじゃないんですか? 佐藤君は今頃大学受験に向けて演技の練習でもしているんじゃないですか?」 「芥川も夢売りの人形だったよ。君と同じでね」 僕は今、言ってはいけないことを言ってしまったような気がする。あまりにも虚しくて、今の気持ちを自分で制御できている自信もなかった。 「多分あれだな。芥川っていうのは、僕にとって理想の友人だったんだよ」 芥川がミュージシャン志望であることを思い出していた。その理由も今ならはっきりと分かる。僕は恐らく、弟の影を芥川に持たせてしまっていたのだ。 「でだ、実は僕の隣にお巡りさんが住んでいたんだが、それも偽者でさ。多分きっとあれは、僕にとって理想の兄貴とかそういう存在だったのだろう」 母さんの介護に疲れていた時に、兄貴がいればいいなと思った事もあった。 「笑えるのが、僕が母さんの幻まで作り出してしまっていた事なんだな」 失ったものを受け入れる事が出来なかったあまりに、僕はそんな幻まで作り出してしまっていた。 「そんなに、自嘲的にならないで…」 佐真瀬アイさんは僕の事を深い瞳で持って見つめてくれるが、それも作り物なんだという感覚をどうにも打ち消せないでいた。 「あーあ、僕はこれからどうなっちまうんだろう。虚しい、虚しい…」 乾いた音が響いた。佐真瀬アイさんが僕の頬を叩いたのだ。見ると、佐真瀬アイさんは泣いていた。いや、だからこの涙も幻なんだろうと自分に言い聞かせる。 「なんでそんな事を言うんですか。例え、今までの事が全て幻だったとしても、あなたは実際にそれらを経験して悲しいと思ったり、嬉しいと思ったりしながら強くなったじゃありませんか」 「そんな事、…」 「よく聞いてください。あなたは生きているんです。だから、私とあなたとそれから色々な人達があなたの周りにいて…」 嗚咽交じりの佐真瀬さんの声。僕はその覇気に圧されて、なにも言う事も出来なかった。 「あなたの心はなにものにも変えがたいものなんです」 佐真瀬アイさんは僕に泣き崩れてきた。 「もし、あなたが現実の世界に戻った後でも、私の事を忘れないで下さい。芥川さんの事を忘れないであげて下さい。お兄さんの事を忘れないであげて下さい…。目を背けずに生きていくっていう事は何かを切り捨てる事じゃないんです。全てを受け止める事なんです。もしあなたがこの町を出て、どこかの大学に通うんだとしても、この時の思い出を覚えていてよかったなと思うときが来るはずなんです。だから、だからどうか…」 結局僕は、佐真瀬アイさんの顔をまともに見る事は出来なかった。佐真瀬アイさんがどんな顔をしているのか分からず、怖かった。でもそれは、決して悪い事なのでは無いと思う。 駅で佐真瀬アイさんと別れた後、ふと思い立ち駐輪場に向かった。そこにあったのは、芥川に貸したはずの古い自転車だった。僕は自転車に乗り、中学校の裏山に向けて駆けていった。暗闇の中、僕は山を駆け上る。山にある白い曼珠紗華の数が減っていた。 壁の前に立つ。そして、初めて壁の向こう側の彼女と出会ったあの壁の穴まで行く。赤いリボンの目印がそこにはあるので、決してそれを見失う事は無い。 そして僕は叫ぶ。 「僕はここにいるよ!」 ―うん、知ってるよ。 マントの人が現れた。マントの中身は知れないが、恐らくは小林さんであると僕は推測する。僕達の日常に侵入し、僕が夢を見られるように暗躍してくれていた人だ。 「怖い、怖いんだ」 僕はマントの人にしがみついた。僕が強くしがみついてしまったため、するするとそのマントははだけ中からは一人の女性が現れた。僕は言葉を失った。そのマントの中から現れたのが、母さんそっくりだったからだ。しかし僕は、こらえる。『これは夢なのだ』と、自分に思い聞かせる。 「人間誰だって、一人じゃ怖いよね。ごめんね、あんたに寂しい思いをさせちゃってさ」 間違いなくその声は母さんのものだった。 「でも、あんたは強くなれたんだから。前を見なきゃ駄目だよ。あのお父さんを殴ったんでしょ、凄いじゃない。あなたはこれからどんどん強くなれるよ」 僕は母さんの幻にしがみついたまま離れられないでいた。 「最後だから、もう言うよ。あんたももう一人前になれたんだ。途中だけど、あんたはこれから自分で自分を強くしなきゃいけない。自分で自分がどんな人間になりたいのかを決める事は決して悪い事じゃないんだ。例え周りの人がその事を『夢だ』と言ってもね」 『将来の希望』の夢… 「これはね、私が…。あんたのお母さんが願った夢なんだよ。あんたの母さんが死ぬ前にね、夢売りである私にこう言ったんだ。『あの子は、弟が行方不明になってから落ち込んでしまった。その上、私までいなくなってしまったら、あの子はどうなってしまうんだろう。だからどうかお願いだ、あの子を立ち直らせるための物語を私に作らせてくれ』ってね…」 『はかないもの、頼りにならないもの』の夢… 「あなたのお母さんはこんな事も言っていたな。『あの子が母親を失うのは早過ぎる。もう少し、あの子に母親と一緒にいる時間というものを与えてくれ』ってね」 「でも、母さんは。あの幻の母さんは、全然母さんらしくなかったじゃないか。まるで抜け殻で、僕に苦労ばかりかけて」 クスリと母さんは言う。 「お陰で、料理も出来るようになったし、家事も出来るようになったでしょ。勘違いしないでね、あなたのお母さんは決してあなたを甘やかそうとして夢を見せていたんじゃないって事。あなたがゆっくりと、でも確実に強くなれるように、母さんはこういう夢をあなたに与えたのよ」 そして、『夢! 希望! 愛(アイ)!』の夢…。 「うぅっ…、それじゃあ僕は今までの事を本当の事として受け入れてもいいんですか…」 嗚咽混じりで言葉になっていない。しかし、母さんは僕の頬を撫で、そっと抱き締めてくれていた。
長い時間が流れた。どこかで飼われているらしい鶏の声が聞こえる。朝がきたのだ。 「そうだ母さん、結局、壁の向こう側にいた彼女って一体誰だったんだろう」 「きっと、あなたが将来出会う未来の一部だったのよ」 「でも、その壁の向こう側にいた彼女の彼氏は死んじまったんだぜ」 母さんはクスリと笑った。 「きっと、いつまで経っても壁を乗り越えてくれないあなたを焦らそうとしたよ。きっと、彼氏の話も嘘ね。同じ女だから分かるわ」 いつの間にか壁は消えていた。次第に陽光が山の木々の葉と葉の間を通り抜け始めていく。マントを肩にだけ羽織った母さんは次第にその陽光に飲み込まれていく。森の中に溶けるように消えていく。 前を向く。盆地の中にあるこの町。遠くの山から顔を覗かせる太陽。日の出である。少しずつ山の輪郭から浮き出るこの太陽。日の出の太陽は輝いている。光るのでは無いんだな、と僕は思う。 「じゃあ、僕はもう行くよ」 もう母さんの姿は消えていた。僕は前を向く。まだ目に涙が残っているためか、今日の太陽は一段と眩しく感じられた。 「よし、行こう」 階段を一気に駆け下りる。僕の胸ではトパーズが埋め込まれたシルバーネックレスが揺れていた。
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