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作者:浅上陽一郎

第22回   22

 家に帰ると母さんはいなくなっていた。そう、それでいい。僕のお母さんは既に死んでいるのだ。母さんは今まで僕の作った料理を食べた事なんかありはしなかったのだから。
 翌朝、隣の家が消えていた。あの『自称未来の僕』のお巡りさんが住んでいた家だ。つまり、あのお巡りさんも夢幻だったのだというオチ。お巡りさんが夢として作られた存在なのなら、僕の事を事細かに知っていても、当然だという話だ。
しかし、僕は何かを忘れてはいないだろうか? ぽっかりと心に穴が空いている。多分僕は次第にそういう事に慣れていくはずだ。だから大丈夫だ、これは一時的な喪失感なんだと自分に言い聞かせた。
 登校途中、学校手前の坂で小林さんと井上さんを見かけた。相変わらず、井上さんは黄色い自転車を引いている。二人とも僕に挨拶を交わしてくれたが、小林さんの調子は暗い。それが何を暗示しているのかは、僕も承知している。これから、僕は現実の世界へと戻っていくのだ。小林さんはその夢売りとして、ゆっくりと現実と夢との齟齬を解除していくのだ。
 しかし、何故か僕の胸の中のしこりは消えてくれない。何かを忘れているような気がしてならない。
「ああ、そうだ。これ、返すよ。すっかり忘れてた、ごめんごめん」
 笑いながら、井上さんは一冊のノートを僕に手渡した。それは僕が昨日、井上さんに貸した数学のノートだ。
「う、うん」
「なんだ、今日はやけに暗いね。なんか嫌な事でもあった?」
「ああ、昨日はちょっと眠れなかったんだ。すっかり夜更かししちゃってね、調子が悪い」
「ふぅん」
 やがて僕達は坂を上りきり、校舎の中へと入る。三階にある教室までの階段を上り、そしてそれぞれの教室へと入る。
「ああ、そうだ」
 教室に入る前に、井上さんは言った。
「ごめん、後ででいいから数学のノート貸してよ。古文の予習、まだだったからさ」
 僕はいつもの事なのでこう返した。
「ああ、いいよ」
「ありがとう」
 どんと背中を押されたような感覚。でも、僕は誰にも背中を押されてなんかいやしない。錯覚である。でも僕は井上さんにこう言った。
「今なんて言った?」
「え?」
「今なんて言ったの?」
「あ、ああ。ありがとう、って言ったの。聞こえなかった?」
 井上さんは特に気にすることもなく後は教室の中へと入っていった。
 僕はいいようも知れぬ不安に苛まれながら、自分の教室へと入っていった。
 教室の中はなにやら盛り上がっていた。教室の隅のほうになにやら人だかりが出来ている。
「どうしたの?」
 僕は尋ねた。
「あ、ああ。お前か。いや、なにね。佐真瀬さんとのお別れ会の話をしてたんだ」
「お前も当然来るよな?」
 明言するのはためらわれた。停学期間中の事もある。あまり、クラスの人達とは関わりたくはなかった。僕はその時は曖昧な返事でその場を誤魔化した。
 鞄を机の上に置き、一息吐く。どうしてか、今日はこうも妙なのだろう。今までと大してなんら変わりは無いはずだ。あまり変わりが無いから、戸惑っているのだろうか。しかし、次第に夢からは抜け出る事が出来ているはずだ。隣家は確かに無くなり、母さんの幻も消えた。僕はその事をすんなりと思い出せるようになっていた。母さんが病気で死んだ当時の自分の事も思い出せる。泣きながら母さんの膝元で泣いた事も。それに、隣家は確かに空き家だった。よくあそこでサッカーの練習をしていたし。
 しかし、やはり僕は何かを忘れてはいないだろうか? 夢から覚めた虚無感だと僕は思いたかった。
 僕は違和感を思い出す。少し躊躇ってから隣の席の奴に声を掛けた。
「なあ、芥川、今はどうしてんだろうな」
 しかし、そいつはこう言うのだ。
「はぁ? お前、なんの事を言ってんだ?」
 心臓を突然掴まれたような感じがした。
「ほら、茶髪でピアスの…」
「お前よ。この学校が、染髪もピアスも禁止だって事ぐらい、分かるよな。そんな奴はこの学校にいねえよ」
 ハンマーで後頭部を殴られたような感じがした。
 深い虚無感が僕の全身を駆け巡った。焦燥が心臓を急かすような感覚がした。
 やがて鐘は鳴り、先生が教室の中に入ってくる。鈴木史郎先生だ。僕は鈴木先生の頬に、僕が殴った時についてしまった傷跡が綺麗さっぱり消えてしまっているという事に気がつく。
 やはり聞きにくかったが、僕は隣の奴に話しかけずにはいられなかった。しかしそいつはこう答えた。
「はぁ? 鈴木先生に傷なんか元から無かっただろ? はぁ? お前が停学? 一体いつの話だよ。そりゃあ」
 そいつは笑った。僕は反対側の奴にも確認した。しかしやはり答えは同じだった。
「お前は鈴木先生を殴ってなんかいないし、停学にもなってなんかいない」

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Novel Editor by BS CGI Rental
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