ぱちぱちぱちという拍手のような乾いた音が響く。部活が終わり僕以外に誰もいない旧体育館。僕はそこのステージの上に座り静寂に身を委ねる。僕は人を待っていた。 そのぱちぱちぱちという乾いた音が少しずつ大きくなり、やがて薄い暗闇の中に二つの影が立つ。 「どうして、脚本から逸脱しちゃうんですか。演出とか色々、仕込み直さなきゃいけないじゃないですか」 その言葉の内容に反し、口調は皮肉に満ちながらも軽い。 「私が作った脚本なんだけどなぁ」 と虚空にぼやくようにその影は言った。 「ごめん、でもありがとう」 と僕は言う。 「おかげで色々考える事が出来たよ。ただあの時は必要だと思ったんだ。どうしても舞台の上で佐真瀬アイさんに言いたい事があったんだ。日常の中じゃ、なかなか伝わらない事を、舞台の上で僕は言いたかったんだ」 「これ、見てください。なかなかいいものでしょ」 僕は首に下げていたアクセサリを小林久美さんに見せる。 「トパーズっていう宝石をとある人から貰いました。『捜し求める』という外国語に由来する名前なんだって。このアクセサリ、カッコいいだろ。神奈川君に作ってもらったんだ。僕達が一年の時にいた神奈川君の事、覚えてる?」 「うん」 「あいつは凄いやつだ。こんなものを作っちまうなんて」 昨日、神奈川君がこのトパーズを埋め込んだシルバーアクセサリを届けてくれた。郵便でもいいと言ったのに神奈川君は「いや、やっぱりクライアントとはフェイストゥフェイス」と笑いそしてこのアクセサリを渡してくれた。これは色々な意味で大切なものだ。 僕は先ほどまで腰掛けていたステージの上から降り、背伸びをする。骨が鳴る。最近、運動不足なのかもしれない。 「少し、僕に付き合って」 「何、デートのお誘い?」 「まあね」 僕達は電車に乗り、僕の住む町で降りた。駅前の駐輪場で僕は小林さんに聞いた。 「ねえ、小林さん。自転車の二人乗りの運転って得意?」 「いや、苦手。やったこと無い」 「じゃ、僕の方が一回分の経験があるのか」 自転車にまたがり夜の街を駆けた。小林さんは後輪カバーに据え付けられた荷物乗せの金具に足を引っ掛け、僕の肩に手を乗っける。僕が座席に座り、ペダルを漕ぐ。 「夜の町って好き?」 と小林さんが後ろから言った。 「うん、好きだな。ひっそりと静まり返っている感じがさ。落ち着くよ」 「徹夜とか好き?」 「好きだよ。特に朝を迎える瞬間が好きだな。昨日と今日に意識を跨らせるっていうのかな、あの感覚がいいんだよ」 「何で皆は夜になると眠っちゃうのかな?」 「夢を見るからだろ」 坂を駆け上る途中、苦しくなり失速してしまう。 「ごめん、俺も二人乗り運転は苦手なんだ。ここからは歩いていこう」 それから十分ほどして、壁のある山の入り口に立った。左手には僕が以前通っていた中学校が見える。自転車をその場に置き、石畳と角材で区切られただけの粗末な階段を昇る。木々の隙間からは、段々と小さくなっていく中学校が見えた。 十五分ほど暗闇の中をさまよい、そして壁にたどり着く。そこに咲くのは白い曼珠紗華。 「今初めて、この曼珠紗華が綺麗だと思えるよ」 「今までは、どう思ってたの?」 「今までは存在自体に気がつかなかった」 「どうして?」 「僕が、生きるという事を無視していたからなんだと思う」 僕は壁に寄りかかるように背中をつける。腰を土の上に落ち着かせる。 「初めて曼珠紗華に気がついたのは、壁の向こう側の彼女が死んだと知らされた時だったんだ。胸にぽっかりと穴が開いた感じがしたまま、ぼんやりとしていたら闇の中に浮かぶこの白い曼珠紗華に気がついたんだ。 今までは人が死ぬっていう事を本当に分かっていなかったのかもしれない。大切なものは失ってみて初めて分かるってよく言うよね。ああいう感じだったのかな僕も。 人が死ぬという経験。そこから得た経験で生きるという事の悲しさを知った時、僕はこの花が存在する事に気がついた。この花の持つ意味―花言葉は『悲しい思い出』」 小林久美さんは優しい顔をしている。 「僕は色々な事に無関心過ぎました。神奈川君に教えてもらわなかったら僕はトパーズの由来や宝石言葉を知らないままでした」 僕は暗闇の中ちらちらと揺れるトパーズが埋め込まれたシルバーアクセサリを弄りながら話を続ける。 「実は神奈川君にトパーズの由来と宝石言葉を聞いた後、図書館で花言葉について調べてきたんです。その時に初めて曼珠紗華の花言葉を知ったんです。曼珠紗華だけじゃなく、色々な木々草花の花言葉を僕はついでに知る事が出来ました」 ネックレスとして僕の胸で揺れるシルバーアクセサリはこの空間から異様に浮き出ていた。土、草、花、木、人からこのシルバーアクセサリは浮いている。銀色のネックレスは冷たく固く金属的な美しさで周囲から抜き出ている。 「人っていうのは色々な物にすがって生きているんですね。花は花でしかない筈なのに、そこに言葉という心を込める。もし、昔の誰かがこの曼珠紗華に『悲しい思い出』という心を込めてくれなかったら、僕は『悲しい思い出』と向き合う事は無かったと思います」 いつの間にか小林久美さんはいなくなっていた。変わりに先ほどまで小林久美さんが立っていた場所に、マントの人が立っている。この人は自分の立ち位置が分かっている人なのだなと、演劇部員である僕は思う。 「世の中は決して見た目通りでは無いんですね。錯覚しながら生きている。曼珠紗華が悲しい思い出であったり、トパーズが希望であったりね。夢売りという存在はそういうあやふやなものをあやふやなまま終わらせるのが嫌いな人の事なんですね」 僕はネックレスを弄る手を休め。虚空を見つめる。夜空には美しい月が今も輝きを僕達に示してくれている。一体、この月というやつは何人の人間に見上げられてきたのだろう。そして、過去の人々は月に何を思ったのだろう。 「小林さんは言いましたよね。曖昧な物を形にするものが自分の仕事だって。それが、曖昧なままであれ、具体的であれ、とにかく形にする。夢を売るっていうのはそういう仕事なんですか?」 マントの人は立ったまま微動だにしない。よく目を凝らさなければ、存在自体を見失ってしまいそうだ。マントの人の足元には白い曼珠紗華が風に揺れている。 「じゃあ、この壁の意味はなんだろうって僕は考えてみたんです。今までは無かったのに、偶然そこに現れて。よく考えてみたらおかしいんです。こんな所に壁があるなんて、常識的に考えたら、誰だっておかしいと思うじゃないですか。それなのに、なんで僕はここに壁があって当然だと考えたんだろう」 マントの人は何も言わない。夏の初めの淡い空気がこの森にも満ちている。 「僕はこの壁の先に夢を見ようとしていたのかもしれない。だけれど、壁の先には絶望しか無いような気がして僕は怖かった。逃げていた。自分の世界の向こう側、自分の世界のこちら側。小学校にこの町に引っ越してきて、この町の中学に通い、隣の市の高校に通う。思えば、僕の世界なんていうのはそんなちっぽけな存在でしかなかった。いつまでも世界に籠もって、壁の向こう側を僕は知ろうとはしなかった。ほら、見てくださいよ。この壁、ジャンプすれば届きそうでしょ? なのに、僕ときたら…」 少し自嘲気味になる。 「夢を見るっていうのは難しい事ですね、自分がひょっとしたら、幻想の中に生きているんじゃないかと思ったらキリが無いですよね。自分にそのつもりが無くても、実は夢の中に取り込まれてしまっている事もある。もしくは、夢を願った事を忘れていたりね。ゆっくりと夢が現実を飲み込んでいってしまうんだ」 僕はマントの人をじっと見据える。 「僕は今、夢の中にいるんですか?」 「ええ、そうです。あなたは確かに、私に夢を叶えるように依頼しました。そして私は、あなたの夢を叶えるために、幻想を形に変える力を行使しています」 僕は大きく深呼吸。夏の初めの淡い空気が、僕を取り込もうとするように肺に入り込んでくる。 「それじゃあ、僕はそろそろ夢から覚めるんだと思います」 「新しい夢を叶えてあげてもいいんですよ」 沈黙を続けたマントの人は、ここで口を開いてきた。しかし、その口調は決して積極的ではない。自分の言葉が拒否されるのを分かっていながら、ただおざなりに言葉を発す。芝居の脚本のようにお決まりのセリフを紡ぐ。 「もういいんです。これ以上、ここに留まっていたら皆に置いていかれます」 「そうですか…」 マントの人は残念そうに言う。 「では、もうこの夢はお終いですね。今からゆっくりとあなたを現実の世界に戻します」
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