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作者:浅上陽一郎

第20回   20
一週間の停学期間がいよいよ終わりを迎えた。罪による罰を受けていた期間が終わりを告げたのだ。妙な話なのだが、今の僕の心の中は主に占めているのは清々しさだ。罰を受けて、清々しさを感じるなんて今まであまり無いことだった。特に中学や高校に上がってからは全くそんな事を感じた事は無かった。
 確かに罰を受ける期間は終わりを告げた。しかし決して罪は消えないのだと教室の中に入った時に感じた。僕はそれをすんなりと受け入れる事が出来た。何故なら、僕は先週一週間の停学期間を忘れたくは無いからだ。クラスメイトと距離が出来てしまった事は悲しいが、それこそ自業自得である。
 僕はちらと教室の前の方に目をやる。如月君は学校に来ていた。僕は近くにいた多田君に話しかけた。
「如月君、学校に来るようになったんだ」
「あ、ああ。まあ、そうみたいだ、な」
 腫れ物を触るような目で、多田君は僕を見た。耐えなければならない。やはり耐えなければ嘘なのだと思う。
 朝のHR。教室に入ってきた鈴木先生を見た時に、最初に僕はどきりとした。罪悪感が刺激されるよりも早く、僕はただ驚いた。一発殴られただけの鈴木先生にはどこにも傷跡など無い、僕が殴る以前と全く変わりの無いライオンを連想させるようなりりしくしっかりとした顔つきもそのままだ。
 僕は日常が続いているという事に驚いたのだ。人を殴るという罪を僕が犯したにもかかわらず、日常を再び迎える事ができた事に驚いているのだ。病み上がりの人の心持である。
「えー、少し残念な事がある。佐真瀬アイさんが転校する事になった」
 佐真瀬アイさんがずいと教壇の横に立つ。佐真瀬アイさんが転入してきた時に自己紹介を行った場所と同じ立ち位置だ。
「短い間でしたが、お世話になりました。皆さん、どうか私の事をいつまでも覚えておいて下さい」
 そう言って佐真瀬アイさんは「お世話になったお礼、思い出の印」にと小さな紙袋をクラス中に配って周った。それは平凡なディクショナリーセットだった。シャープペンが一本、赤ペンが一本、消しゴムが一個、メモ帳が一冊。
 「お世話になったお礼、思い出の印」がディクショナリーセット。僕は悲しくなった。ひょっとしたら佐真瀬アイさんは未だに自分の事を魂の無い人形だとでも思っているのかもしれない。ペンも消しゴムもメモ帳もすぐに日常に溶け込んでしまう。それゆえに自分の存在価値を隠してしまう。ペンを失くす。少しの間だけ探して、それで見つからなかったら新しいのを買ってしまう。すぐに代替が利くもの、日常に溶け込んでしまうものを思い出の印になんかしてはいけない。思い出というものはかけがえのないものだ。自分の中に大切にしまっておくべきものでもある。しかし、他者と共有した思い出に限りそれは例外だ。他者と共有した思い出が日常から浮き出てしまっても僕はいいと思う。茶箪笥の上に置かれた東京タワーの模型みたいに特異なものが日常の隙間に存在してもいいと思う。東京タワーの模型は数多くあるが、東京タワーそれ自体はこの世に一つしか無いからだ。
 この世にあるもの全てが唯一の存在である事を僕は佐真瀬アイさんに教えなければならない。僕に出来るかどうか分からない。しかし、自分を大切に思えないという事はとても辛い事なのだ。そういう事を知っているからこそ、僕は佐真瀬アイさんを助けたいのだ。
 放課後、僕を含めた部員皆が揃う。佐真瀬アイを中心に神妙な空気が渦巻く。
「大丈夫です、転校するといってもそんな直ぐの話しじゃないんです。大会がある間はまだこの学校にいるんですよ。大丈夫です」
 場を必死に盛り上げようとする佐真瀬アイさん。しかし、佐真瀬アイさんは勘違いをしている。僕達は大会の事を心配しているのではない。大切な仲間を一人失ってしまうのがただ残念なだけなのだ。
 僕達は決して、人間を数字としては見なさない。演劇をやっていると分かる。全ての人間が大切な存在なのだ。
 もう一人の佐真瀬アイ―つまり漣クンに連れられてきた佐真瀬アイは今どのような事を考えているのだろう。漣君に連れられてきた佐真瀬アイが転校するという話はまだ聞かないが不安なことではあった。

―この世界に光が差した時、闇が生まれた。闇は常に光と共にあったのに、光の中の住人達は闇から目を逸らす事しかしなかった。夜が来るとともに人が眠りにつくのはそういう事なのである。そうやって見捨てられた闇はやがて、孤独というレッテルを貼られる。人は闇の中に住まおうとしないからである。…
(照明が落とされた暗闇の中、ただ一つの明かりであるスポットライトの丸い円の中に立つ佐真瀬アイ。やがて長セリフが終わり、舞台には照明が入る。僕は下手から登場)
―おう、待たせたな
「おそーい、私もう三十分以上前から待ってたんだからね」
芝居は続く。皆本光と比良野静香のデート、比良野静香の奇妙な噂、友人と絶交宣言をする皆本光、相次ぐ奇妙な現象、やがて皆本光は比良野静香が二人いる事を知る。
「な、なんで比良野静香が…、二人いるんだよ?」
 と僕はいい、三歩あとずさる。
「人間は誰しも一人では生きていけない」
 と如月君に連れられてやってきた佐真瀬アイは言い
「だから私はもう一人の自分を呼びました」
 と漣君に連れられてやってきた佐真瀬アイが言う。
「だってこの世界に生きている人は、まるで皆人形みたいなんですもの」
「夢も持たず、希望も持たず、ただ流されていく人々は味気ない」
「仕方が無いので、もう一人の自分を作り出して寂しさを紛らわすんです」
「私が人形じゃないのは私が一番良く知っていることですから」
「だから怖がらなくてもいい」
「私―比良野静香と」
「私―比良野静香の」
『両方を愛して下さい』
「保証はないんだけどね…」
 僕は言う。舞台の外から声がする。
「おい、これ、脚本と違うくないか?」
「しっ、このままやらせてみよう」
 僕は比良野静香の中にいる佐真瀬アイに向かって言う。
「僕の感情っていうのはお芝居となんら変わらない。全ては考え方次第って事なんだ。僕が君達の心のうちを知る事は難しいと思うし、それでも僕が君の事を分かったと思ったとしたらそれはただ傲慢なだけだと思う」
「私は人の心を知る事が出来ない。だから怖いんです」
 佐真瀬アイは脚本に無いセリフを言う。そう、それでいいんだと僕は思う。
「悲しいけれど僕も君の事が分からないんだ」
「そんな、それじゃっ…!」
 青い顔をした佐真瀬アイが狼狽する。しかし、次の言葉が出ないらしい様子の佐真瀬アイを僕は見とめる。
「僕は君を愛する事が出来るんだろうか。君は僕を愛する事が出来るんだろうか」
「私は寂しいんです。だから、助けてください」
 二人の佐真瀬アイは泣いている。
「僕だって、君だって、誰だって人の心を分かる事は出来ないんだ。だから、寂しいんだろ?」
「うん」
「だからこそ、僕達は一人になっちゃいけないんだ」
「…」
「分からないからこそ、信じなくちゃいけないんだ。そして、信じる事を僕達はやらなくちゃいけない」
 そして、信じたり愛したり優しくしたりという事は、決して人に求めてはいけないことだ。
「ありがとう」
 と佐真瀬アイが言った。これは脚本には無いセリフだ。だから、よかったと僕は思った。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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