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作者:浅上陽一郎

第19回   19
 否応無しに引っ張り出されてしまった。確かに、昨日受けた恩義があるから断りにくい事ではあった。しかし、お巡りさんはあまりにもしつこ過ぎた。僕が外でジョギングをする事になったのは、果たして感謝に由来するものなのか義理に由来するものなのか僕の頭の中では判断がつかなかった。
「案外、動いてみればどうって事の無い事の方が世の中には多い」
 県道沿いのコンクリートを僕達は走った。道が狭いので一列になり、僕はお巡りさんの後ろを追走する形となった。お巡りさんを追いかけるというのも貴重な体験である。
「若い内は色々あるもんだ」
 お巡りさんは前を向いたまま一人で喋り続ける。お巡りさんの背中しか見えない僕には、お巡りさんの表情が読み取れない。
「助けて欲しい時に助けてもらえないというのは不幸な話しだよな。助けをあからさまに拒否する奴もいるが…。世の中には色んな奴がいる。一人で悩むのも結構な話だが…。自分一人だけが持っている知識だけじゃ、どうにも解決出来ない事だって多い。人間はパンのみにて生くるにあらず。芝居も必要だし、音楽も必要だし、友人も必要だし、デザートの果物も必要だし、味噌汁も必要だし、パイナップルの入った酢豚も必要だのな、なあ」
「パイナップルの入った酢豚は邪道ですよ」
「お、俺に楯突こうってのか上等だ」
 僕達の脇を何台も自動車が通り過ぎる。だいぶ長い間走っているような気もするが、案外それほど走っていないかもしれないとも思った。楽しい時間ほど早く流れ、辛い時間ほどゆっくり流れる。人の感覚とはとかくあてにはならないが。さて、今僕はこの時間を楽しいと考えているのか、辛いと考えているのか、自分自身がよく分かっていなかった。
「人間は悩みのみにて生きるにあらず。どうだ、いい言葉だろう。人間は学問のみにて生きるにあらず、でもいいかな。それとも、人間は一人のみにて生きるにあらず。うーむ、締まらない。お前はどっちがいいと思う?」
「そうですね、僕は、人間は言葉のみにて生きるにあらず、という言葉がいいと思います」
「また俺に楯突く気かこいつめ」
 談笑する僕らだった。
「それにしてもお前、結構体力あるんだな。もう一時間以上走っているんだが、平気な顔してるな。おまけに会話しながらだから、余計に体力を使うはずなんだが」
 それは一方的にお巡りさんが話しかけているのだとも思ったが、確かに僕も結構口を開いているような気もした。まるで釣り上げられるようにポンポンと言葉が出てくる。
「演劇部だって体が資本ですからね。基本的に筋トレは欠かさないんですよ」
「ふぅん」
 いつしか僕達は河原沿いの堤防を走っていた。住宅地が近くにあるからか、他のジョギング中の人もちらほらと見られた。
「人探しをお願いしてもいいですか?」
 僕達は河べりに腰掛け、他のジョギング中の人を横目に休憩を取ることにした。
「家出中の弟さんのことかい? でも、捜索願は既に出してあるんだろ?」
「ええ、それもあるんですが。実は友人が一人行方不明なんです」
「へぇ、お前にも友達がいたのか」
「茶化さないで下さいよ」
 僕は携帯していた手帳から一枚の写真を抜き出す。
「げ、お前男友達の写真を携帯しているのか? それはちょっと気持ち悪いぜ…、あ、ひょっとしてお前、俺のことを…」
「違いますよ」
 と僕は笑い飛ばす。そして、この事を話そうかどうか少し逡巡した後、
「この友人の事を、何故か忘れてしまいそうになるんです。とても大切な友人だったんですが。日が増すに連れ、記憶の中の彼の像が霞がかってぼやけていってしまうんです。彼に関する僕の記憶が幻のように消えてしまうのが怖くて、こうして写真を持ち歩いているんです」
「芥川澄志か…」
 お巡りさんは呆けている。
「お願いできますか?」
「あ、ああ? ああ。大丈夫だ、任せろ。出来る限り力になるよ」
「よろしくお願いします」
 家に帰宅途中、お巡りさんが僕の家の住所を知っている事の仕掛けが分かった。なんてことはない、お隣さんだったのだ。
「案外気づかないもんだろ」
 とお巡りさんは悪戯っぽく笑う。僕は苦笑い。
「冷たい世の中だよなぁ。お隣さんの顔にすら興味のない現代日本社会。まさに壁だ」
 その言葉には笑うに笑えなかった。
 父さんが出勤するのを見送った後、僕は受話器を手に取り、電話をかける。電話先は神奈川拓。神奈川拓とは高校の演劇部で知り合った。しかし、一年次から二年への進級の際に神奈川君は退学してしまう。僕は驚いた。彼は勉強も出来るし、部活も真面目に出ていた。先生とも問題を起こすこともなく、親との不和も感じさせない男だったからだ。
 しかし僕はどこかで神奈川君は学校を辞めるような人間だというのも認めていた。
「はい、拓です」
「あ? 神奈川君? 俺。元気―?」
「おお、久しぶり。元気元気―!」
「デザイナーの修行上手くいってるー?」
「あー…、いやまあ、あんまり上手くいってないかも」
「ちょっとお願いあるんだけど。実はね、仕事を依頼したいんだ。アクセサリを一個作って欲しいんだけど」
 しばらく受話器の向こう側は黙っている。「あまり上手くいってないかも」という神奈川君の言葉を頭の中で重く静かにゆっくりと反芻させる。
「おお、いいぞ。どんなの?」
「青い石を埋め込みたいんだけど」
「あー…。よし分かった。そのうちお前ん家行くから」
 僕はお互いの都合を確認し、会う日取りを決めた。
「あー、これ、トパーズだわ」
 僕が埋め込みたいと言った青い石を神奈川君はつまみ、まじまじと見つめる。
 その青い石は壁の向こう側からあのマントの人を通して僕の手に渡ったものである。何故か、僕が素手で触れると火のように熱くなるので扱いに困っていた。なら、青い石の周りを何かで覆ってしまえばいいと僕は思い、これをアクセサリにしようと思ったのだ。折角、壁の向こう側の彼女がくれたものなのだから。
「しかもこれ、結構いいやつだぞ。お前、これどうした?」
「母さんの形見」
 本当の事を言うのは躊躇われたので、咄嗟に嘘を吐いた。そこで僕は自分の謝りに気がつく。
「ああ、違う。婆ちゃんの形見」
「いいのか? そんな大切なものを…」
 細かいところに突っ込みを入れてくれない神奈川君が好きだ。僕の母さんも、それから父方母方共々に祖父母もご健在。ただ単に、神奈川君がそういう事を知らないだけかもしれないが。
「うん、頼むよ」
「しかし、高そうな宝石だよなぁ。うん、腕が鳴る」
 神奈川君は思ったよりも落ち込んでおらず、いつもの調子なので僕はやっと胸を撫で下ろす事が出来た。以前の電話で「あんまり上手くいっていない」と言っていたのが気になっていたのだ。
「うん、でどんなデザインがいい?」
 神奈川君はそれをそっと机の上に置く。
「任せるよ」
「いや、イメージとかさ。少しはクライアントの希望を聞いておかないと創作意欲が湧かないわけよ。なんかさ、漠然としたものでもいいからさ」
 困惑してしまう。しかしやはり、僕は人任せに過ぎたような気がする。折角の貰い物なのだから自分で責任を持たなければいけなかった。
「なあ、例えば。なんかないのか? ああ、そうだ。トパーズの宝石言葉とか、宝石にまつわる伝説とか、神奈川君、お前知らないか?」
「ああ、宝石言葉は友情、希望。ちなみに、十一月の誕生石なのな」
「…」
「でな、この宝石の名前の由来が面白いんだ。色々あるんだが、サンスクリット語では『火』を意味したり、ああ『心』を意味する事もあったかな。それとギリシャ語の『捜し求める』っていうのに由来しているとも言われてるし。ああそうだ太陽神ラーの化身だっていうのもあるぜ、これは確か…エジプトだっけかな?」
「…詳しいんだね」
「おう。デザイナーとして、こういう教養は必要だと思ってな、色々勉強してんだ」
「うん、それじゃあ、イメージが思い浮かんだら電話か何かするよ。その時まで、待ってくれ」
 しかし、神奈川君は首肯しなかった。
「いや、やっぱりデザイナー志望の俺としてはクライアントとは面と向かって打ち合わせとかしたいわけよ。今すぐになんて言わねえからよ、電話なんてちゃっちい物になんか頼らないでよ、フェイストゥフェイスでいこうぜ」
 僕は神奈川君の言葉に感動した。
神奈川君は真っ直ぐな瞳を持つ人だ。自分のやりたい事を見つけ、それに合わせた道を真摯な態度で選ぶ事の出来る人だ。奢らず、高ぶらず。それでも自分らしさは見失わない。僕はそんな神奈川君が好きだ。
 神奈川君は高校を中退した後に、親戚の小さい店でデザイナーの修行を積むという道を選んだ。それから、ほとんど会う機会がなかったというのに神奈川君は僕の家にわざわざやって来てくれた。僕はそれだけでも嬉しかった。
 そして僕は、この青いトパーズをどうするか決めた。
 母さんは親父との一件以来、また以前の抜け殻状態に戻ってしまった。どうやら魂が戻ってきたのは、何か発作的なものだったのだろう。ひょっとしたら、あの意識を取り戻した母の姿は僕の見た幻だったのかもしれない。そう思わせるくらいに、母さんは沈黙を守っている。相変わらず、母さんは僕の作ったご飯に決して手をつけない。僕はそろそろ気がつかなければいけないのかもしれないと思った。人間がなにも食わずに生きていけるわけは無いのだから。
 停学期間を有効に使おうという考え方は無粋の極みだろうか。しかし、僕はもう家の中でじっとしている気もなかった。
 僕はお巡りさんの言葉を思い出す。その意味をゆっくりと丁寧に自分の心に浸す。
 僕は自転車にまたがり、住宅地外れのアパートに向かった。如月京君の住むアパートだ。
 僕は如月君の住む部屋の戸の前に立つ。チャイムを数回鳴らしてみたが反応は無い。しかし如月君がこの部屋にいる可能性は残念ながら高いのだ。しかし、いなければいいとも思う。如月君が学校に来なくなってからもう三週間も経とうとしているのだから。
 何度もチャイムを鳴らす。その度に部屋の中にその電子音が響くのだろう。十分ぐらい、戸を叩いたりチャイムを鳴らしたりしていると、部屋の戸が開いた。ほんの少ししか開かなかった隙間から如月君の顔が見えた。しかし如月君は僕の顔を見た途端に戸を閉めてしまった。しかし僕は戸の向こう側に如月君がいるのだという事が分かった。とりあえずそれで僕は十分だった。
 僕は如月君の部屋の戸にもたれかかり、コンクリートの床に腰を落ち着けた。ズボンが汚れてしまうがそれは大した問題ではないだろう。何製かは分からないが、アパートのその戸も冷たかった。
 あの壁と同じである。
「夏の日の思い出なんだけどな…」
 僕は語る。この壁の向こうにいる如月君が僕の言葉に耳を傾けてくれる事を祈って。

―僕が中学二年の頃だった。僕はその時、剣道部で、学校の裏山で部の連中と鬼ごっこをする事にしたんだ。練習という大義名分のもとにな。僕は運悪く鬼になってしまった。鬼っていうのは、人を捜して追いかける役割だ。僕は十数えた後、目を開けた。その時、当然の事ながら、周りには人がいなくかった。馬鹿な空想だけれど、僕はその時、まるで自分が世界に取り残されてしまったのかと思ったよ。僕が目を瞑っている間に、戦争が起きて十秒で世界が滅んでしまったとか、宇宙人が来て友人をさらっていってしまったとか、逆に僕が違う世界に飛ばされてしまったりとかね。理性では分かっているんだよ、そんな事は馬鹿げているってね。でも、感情は理性の言う事を聞いてはくれないんだ。まあ、鬼ごっこやかくれんぼをしたのが、その時初めてだったってわけじゃないんだ。ただね、その空想にはあの山が重大な役割を果たしているんだと、今の僕になら分かる。それに、中学二年だった事も大きいかな。とにかく僕は必死に皆を探したんだ。でもなかなか見つからない。叢の中、幹の裏、枝の上、僕はありとあらゆる場所を見て回った。でも見つからない。次第に不安は募り、もう鬼ごっこなんかやめたいと思った。そんな時に僕は気がついた。この世界と、あの世界を隔てる壁というものをね。

 戸の向こうから微かな物音が響いた。如月君はこの話を聞いてくれている事を僕は確認できた。

―ただひたすら坂になっている山道の途中に窪みがあったんだ。僕はそこを転げ落ちた。そこに壁があったんだ。灰色で冷たくてどこまでも横に広がる壁が。
 とにかく壁を見つけ、日も暮れ、隠れ場所から出てきた連中も集まり解散し、皆が家に帰った後で僕は再び壁を見るために裏山に入った。僕は一週間、壁に通い続けた。そんなある時、僕は一人の女の子と会ったんだ。壁の向こう側から声がしたんで、僕はそこに人がいるのだと思った。僕も必死で壁の向こう側に向かって大声を出した。そうしたら、向こうから返事が返ってきた。こうして、僕と壁の向こう側の彼女との交流が始まったんだ。
 壁の向こう側の彼女との会話は楽しかった。壁の向こう側の彼女は素敵な人だった。うん、分かっている。会話だけで、人を判断してはいけないって。人は知っている事を、実行できない事もあるからね。でも、たとえ僕が人と会話をする事を主な交流ツールと考えていたとしても、それは大して間違っている事ではないと僕は思うよ。僕は今だって人と会話する事を楽しんでいる。人の優しさに触れるのが楽しいからね。でも、それだけじゃ駄目だったんだな。僕は少し後悔している事がある。
 壁の向こう側の彼女を僕は殺してしまったんだ。壁の向こう側の彼女の恋人が交通事故で死んだ、って本人は言っていたな。そして、彼女は精神的にとても落ち込んでいたらしい。僕は彼女を壁の隙間から差し出した手とそこから伝える事の出来る言葉だけで救おうとした。でも、壁の向こう側の彼女は自殺してしまった。僕はとても悲しかった。
 でね、僕はこれから壁の向こう側に行ってこようと思うんだ。壁の向こう側の彼女が本当に生きていないのかを確かめるためにね。

 僕はマントの人の言葉を思い出していた。―壁の向こう側と、壁のこちら側に偶然同じ響きの言葉が存在して、なんとなく会話が成立していたんじゃないんですか?
 今の僕になら、このマントの人の言葉を否定する事が出来る。壁の向こう側の彼女は泣いていた事を僕は思い出したからだ。僕は壁の向こう側の彼女に触れる事が出来たんだ。壁の向こう側の彼女は僕の手を両手で握り、そしてそれを丁寧に包んでくれた。壁の向こう側の彼女の顔に僕は微かだけれど触れる事が出来たんだ。その時、壁の向こう側の彼女の頬を撫でることが出来たときのあの感触を僕は忘れない。彼女は泣いていた。そして無力な僕に対して「ありがとう」と言ってくれた。
 僕は今になって思う。あの時、慰められたのは僕自身なのだ。「ありがとう」とは無力な僕に対する彼女のせめてもの感謝の気持ち。あくまでも『せめて』なのだ。
 お巡りさんは言っていた。―辛い事を知っているから、辛い状況にある人間を助けたいと思う。
 優しさを知る壁の向こう側の彼女だから、壁の向こう側の彼女は僕に「ありがとう」と言ったのだ。そういえば、僕はあの時、彼女になんの言葉をかけてやる事も出来なかった。
 皮肉な話しだけれど、僕は今なら壁の向こう側の彼女の事を助けてあげられるような気がするのだ。僕が壁の向こう側の彼女を失う経験をしたのだから。
 壁の向こう側の彼女に、今こそ「ありがとう」と伝えたい。

「だから、僕はもう行くよ」
 僕はコンクリートの床から腰を浮かし、すぐ横の階段を降りる。
 背中から音がした。如月君が戸を開けた音だ。
「いつか、壁は乗り越えなくちゃならない。壁の向こう側にいる人間に助けてもらわなくちゃならないんだ」
 これは、芥川が最後に僕に残した言葉である。だから僕はなるべく陽気に笑いながら大手を振る。僕の頭の中で今の自分と僕が最後に見た芥川の姿が重なってイメージされた。

 壁の前に僕は立つ。そう、この壁はジャンプすれば届くかもしれない高さだったが、僕は未だにその壁を飛び越えるという事にチャレンジした事はない。なんだか怖いのだ、自分が精一杯ジャンプして手が壁の縁に届かなかった時、僕は自分になんと言い訳したらいいのだろう。
 多分、芥川は寂しい奴なのだ。僕は勝手に、芥川の事を頼もしい奴だと思い込んでしまっていた。しかしそうでは無いのだ。芥川が僕に付きまとってくれたのは、ただ芥川が僕の事を心配してくれていただけなのだ。心配という概念に強弱という概念が入り込む余地は無い。あるのは優しさだけだ。
 芥川に何があったのかを僕は知らない。しかしなにかあったのだ。優しい人は、優しくされた人に似ている。芥川も家庭に問題があったらしい。暴力を絶やさない父親。その辛い経験から逃げる事しか考えない母親。
 僕には心残りがある。僕も芥川に優しくしたかった。恩返しをしたかった。芥川がいる間にそういう事に気づいておきたかった。
「それは、…」
 またマントの人が現れる。相変わらず唐突にマントの人は現れる。このマントの人はまるで僕の心の中を読み、出現のタイミングをはかっているようだ。
「あなた一人で苦しむ必要は無いんでしょう? だったら、優しさを他の人に分け与えればいい。芥川さんが誰かに優しくされたとしても、必ずしも芥川さんがその優しさに恩返しできていたわけではありません。その逆も然りですよ」
 マントの人は一息ついてから言う。
「さあ、そろそろ向こう側へ行く決心が着きましたか?」
 僕はなるべく冷淡に答えようとする。
「いえ、もう少し待ってください」
 僕が壁の向こう側に行くにはもう少し時間が必要なのだ。そういう事は、自分自身が一番よく知っている。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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