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作者:浅上陽一郎

第18回   18
 どこかの家の壁を殴り続けた僕を保護したのは、駐在所のお巡りさんだった。僕にはそのお巡りさんが、ただ、与えられた役割を全うしているだけの、記号的な人間にしか僕には見えなかった。
「あー…、落ち着いたか?」
 駐在所の中は埃臭かった。神棚があり、それから簡素な机が三つ並べられている。日の当たりは悪く、室内は薄暗い。
 埃が漂う停滞した空気の中を、水蒸気を吐き出し続けるやかんの音が響く。
「手、大丈夫か? 病院に行った方がよくないか?」
 今、僕の目の前に立っているお巡りさんは四十代後半の男だった。落ち着いた物腰が優しそうだが、やはりそれも「四十代後半の優しいお巡りさん」という記号の中に収まってしまったような味気の無い人間に見える。
 お巡りさんはお茶を差し出してくれた。
「それとも麦茶のほうがいいか?」
 僕はその言葉を無視。お巡りさんは苦笑い。
「どれ、指の骨。折れてないか? 打撲してるかもしれないぞ」
 僕の右手も左手も皮が剥げ落ちて、肉が擦り切れて、血が滲み出ている。ヒリヒリと痛みが響き、ジンジンと痛みが染み渡る。
 お巡りさんは奥から色あせた救急箱を持ってくる。そして、僕の手を取ろうとする。
「触んな!」
 お巡りさんは驚いた風を見せるが、すぐに落ち着いた表情に戻る。その一連の顔の動きが偽善者めいていて気味が悪い。
「なんでお前は、他所の人の家の壁を殴っていたんだ?」
 停滞した空気の中、動いているのはお巡りさんの言葉と、薬缶の水蒸気だけだ。
「しかも、手がそんな風になるまで…」
 僕は決して答えない。少し疲れたらしいお巡りさんは背もたれに寄り掛かって背伸びをした。そしてお巡りさんは呟くように言った。
「今時の連中は何考えとるのか分からん」
 多分、お巡りさんはその言葉が僕には聞こえていないと思っているのだろう。それぐらいに小さな声だった。
僕だって、あんたの考えている事なんか分かんねえよ。いやそうじゃない。僕は人の考えていることが分からない。
「俺には一人の娘がいるんだが、癌で死んだんだ…」
「えっ!?」
 そのお巡りさんは急に神妙な面持ちで話し出した。虚空をぼうっと見つめ、背もたれを揺らしながら言う。
「…と言ったら、お前は信じるか?」
 とお巡りさんはニヤニヤ笑いながらこちらを見る。僕は多分、信じないと思う。お巡りさんは続ける。
「お前、今、驚いただろ。一瞬、信じただろ」
 お巡りさんは人が変わった様に急に笑い出した。
「今、『えっ!?』って言ったもんな」
 小学生が悪戯を仕掛けてそれを成功したのを喜ぶ。お巡りさんの今の状態がそんな感じだった。今のお巡りさんは急に「四十代後半の優しいお巡りさん」という記号から抜け出してきた。
「多分、今は信じていないが、それは俺が笑ったのを見たからだ。それは今俺が冗談めかしているからだ」
 なんだか、この人は違う、と僕は思った。
「少し、歩こう」
 お巡りさんは立ち上がる。
「あの、ここを留守にしてもいいんですか?」
 僕がそう言ったのをお巡りさんが返す。
「いつも、こんなもんだよん」
 お巡りさんは急に若返ってしまったのだろうか? その軽佻浮薄な調子に僕は困惑してしまう。

 田舎町の商店街をお巡りさんと私服の若者が並んで歩くのは周りからはどう写るものなのだろう。とにかく今僕は田舎町の商店街を歩いていた。
「よっ、お婆ちゃん。今日も元気だね」
「おっ、このリンゴ美味しそうだね。後で買いにくるからとっといてよ」
 商店街といっても、田舎町の商店街というものは酷く寂しい。申し訳程度に並べられた積み木のような寄せ集め感が酷く情けない。近くにショッピングモールが立ったら、あっという間に消えうせてしまうだろう。
 そんな町中を歩くお巡りさんは僕達を横切る人にいちいち声を掛け、目が合った店の店員に軽く挨拶を交わす。声を掛けられたお婆さんはにこやかに返事を返し、軒下に商品を並べる八百屋の店員さんも苦笑しながら手を振る。
「顔、広いんですね」
「お前は、広くないのか?」
「どういう意味ですか?」
「人ん家の壁を壊そうとする奴は、孤独から抜け出ようとする奴だ。お前は、人に挨拶も出来ないくせに、壁を壊そうとするのか?」
 僕達は歩きながら会話を続ける。
「お前は俺の若い頃にそっくりだ、と言ったらお前だったら、『またありきたりな言葉を使いやがって…』と思うかな?」
 お巡りさんは悪戯っぽく笑う。僕はどきりとする。今の言葉はつまり、本当にお巡りさんの若い頃が僕そっくりだった、という証明だからだ。
「何があったのか分からんが、焦らずに待つことも重要だぞ?」
「でも、手遅れになることも世の中にはありますよね。僕はどうしたらいいんでしょう」
「例えば、将来の夢、とかか?」
 僕はお巡りさんに全て打ち明けてしまおうと思った。将来の自分になら、何を打ち明けても恥ずかしくはあるまい。
「ええ、例えば、僕の将来の夢がミュージシャンになる事だとしますよね。その時、今の僕はどうしたらいいんでしょう。そのつまり…、今更、じゃないですか。小さい頃からミュージシャンになりたくて物心付いたときから音楽を弾き続けたような人に、高校生になってふと思い立ってミュージシャンになりたくなったような僕が、夢を叶えられるでしょうか?」
「でも、人間の趣味とかって変わっちまうモンだからなぁ。小さい頃からミュージシャンになる事を夢見て努力していたが、高校生ぐらいになってから急に歌舞伎役者になりたいと思うようになったら、不幸だよなぁ」
 ああ、やっぱりこの人は僕の事を分かってくれている。
「だがなお前さん」
 と先ほどまで前を向いていたお巡りさんが僕のほうを向く。
「人間っていうのは数字じゃないんだぜ? 数字っていうのはつまり…。Aさんの音楽の能力五十、歌舞伎の能力〇、勉強の能力二十三、性格のよさ四十八。なんていう風には人間を表現できるはずが無いんだ。経験を積めば積むほど数値が上がるってわけじゃない。そもそも、数値なんてものは存在しない。あるとき、ふっと何かをやりたくなる。そういう衝動が人間にはある。人間には上下なんてものは存在しない、上を目指す、とかそんなものは存在しない」
「でも…」
 と言いかけた僕の口を、お巡りさんが遮る。
「人間の脳味噌なんてものは案外あてにはならないもんだ。未だに解明されていない部分も多い」
 僕は昨晩の思い出したくも無い言葉を思い出す。
―感覚はわたしたちの世界にまやかしの像を伝える…
「どんな経験だろうと、人間には無駄になるものなんか無い。これが、偽善に聞こえるか?」
 いつもの僕ならここで首を縦に振るところだろう。世界の全てが胡散臭く見えるのだから。しかし今回は、首を縦にも横にも振れずにいた。お巡りさんは優しい調子で頷き、言葉を紡ぐ。
「いいか、人生に無駄になる経験なんていうものは本当は無いんだ。お前は、確か演劇部だったな」
 僕は首を縦に振る。
「俺は演劇をやった事は無いが、芝居はよく見るぜ。いいか、役者は色々な人間の感情を表現する職業だ。深い絶望を味わえれば、それを自分の糧にする事が出来る。大きい喜びを味わえれば、それを自分の糧にする事が出来る。役者になる事しか考えていない奴は役者にはなれねえよ。
 努力するばかりで絶望から目を背けるような奴は、役者にはなれない。絶望というものを表現できるからこそ、役者なんだ。俺の言っている意味、分かるか?」
 僕はお巡りさんの目を真っ直ぐに見る。
「いいか、人生だって同じなんだ。確かに、絶望っていうのはいざ自分の身に振るかかってみると洒落にならないくらいに辛い。そりゃ、『絶望』っていうくらいだからな。だがな、絶望を知るからこそ、出来る事って無いか?」
 心の奥の固く冷たいものがゆっくりとほぐれていくのを感じた。
「辛いからこそ、人は助けて欲しいんだよな。その『辛さ』を知っているから、人は『辛そう』にしている人間を助けたい、と思えるんだよな。違うか?
 『絶望』を知っているのなら、今はとにかく耐えて見せろ、乗り越えて見せろ。その後で、『絶望』している人を助けてやれ」
 お巡りさんのノリはいつまでも軽いままだった。だからこそ、お巡りさんの言葉の意味が、重たく伸し掛かってくる。
「だから、人間は孤独じゃないんだ。『辛さ』を知るっていうのは、他人の『辛さ』を知るって事だ。『孤独』を知るっていうのは、他人の『孤独』を知るって事だ。そして、『孤独』な人間が何を求めているのかを知る事が出来るのなら、お前はもう一人じゃない」
 お巡りさんの顔がとても頼もしく映る。その頼もしさは恐らく脳の見せた幻想なのだろう。人間の顔というものはそんなにすぐに変化するものではない。しかし、僕がお巡りさんのことを頼もしいと思っていることに違いは無いのだから、そう感じてしまってもいいと思った。
「だから俺は、お前を助けたい。この言葉の意味、分かるよな」
 お巡りさんのこの言葉を僕は永遠に胸に刻みつけて生きていくのだと思う。
「あれ、ここは」
 気がつくと僕は自宅の前に立っていた。白い壁が僕の目の前に立ちふさがる。
「なんで、僕の家がある場所を知っているんですか?」
「言ってるだろ、俺はお前の未来だって」
「でも…」
「でも…、じゃねえ! とにかく今はやるべき事をやってこい」
 背中を押されて、僕は玄関をくぐった。
 家の中の静寂は僕の心に重たく伸し掛かってきた。この緊張感は、芝居の本番中に、袖裏で出番を待つ時の緊張感に似ている。自分のするべき事は分かっている、自分のセリフも分かっている。しかし不安なのだ。舞台の上に立ち観客の視線が自分に集中する中で、自分のするべき事を忘れてしまわないかとか、自分のセリフを忘れてしまわないかとか。僕は演劇部に入部した後の最初に舞台の上に立った時の事を思い出していた。確か、最初に舞台の上に立った時、僕は自分のセリフを忘れてしまったのだ。
 ぎしり、ぎしりという自分の足音がいつもよりも大きく聞こえた。
 リビングへの扉を開ける。
 そこには部屋の中心で血まみれのまま仰向けになっている親父の姿と、それを抱き締める母さんの姿があった。
 僕はしばらく立ち竦んだ。緊張した。僕はあの最初に舞台の上に立った時と同じように、自分のセリフを忘れてしまった。じっとりと冷や汗が全身から滲み出る。
 意味を成さない言葉が頭の中を飛び交った。
「あぅ、あぅ…」
 緊張が高まり、自分の行動にためらいを覚える。まだ親父も母さんも僕の事に気がついていない、誰も僕の事に気がついていないのだからこのまま逃げ出してしまってもいいような気がした。
 一歩後ずさり、思い直す。
 本当に誰も僕の事に気がついていないのだろうか。誰も僕の事を観ていないといえるのだろうか。舞台の上に立つ僕は観客が観ている。僕は気がついた。僕は『僕』に観られている。だから、逃げてはいけない。
「父さん、ごめん」
 確か、僕が舞台の上でセリフを忘れてしまった時は
「父さんも寂しかったんだよね。ごめん」
 舞台袖に控えていた友人からセリフを教えてもらったのだ。
「僕も弟がいなくなって寂しい。父さんも寂しくて当然だよな」
 その友人のささやき声が観客席の方まで聞こえていたらしいのだが
「ごめん父さん、ごめん父さん…」
 しかしその時に僕は思ったのだ、助けてくれる仲間がいるというのはいいものだよな、と。
 父さんは病院へ運ばれたB打撲、打ち身、捻挫などの外傷は激しいのだが、命に別状も無く(僕は出血多量で父さんが死んでしまうかと思っていた)、包帯を体中にあてがわれながらも父さんは午後から会社に出勤した。
 医者が言った。
「まるで、誰かに殴られたような痕ですね」
 僕に向けられた医者の視線が痛かった。僕の背筋を一筋の汗が流れた。平日に家にいる高校生、というものはとにかく世間体が悪いものだ。
「いえ、転んだんです。そしてその後に女房と喧嘩したら相乗効果で少し傷が大袈裟に見えるんです」
 父さんが医者に言った。医者は何度も父さんに尋ねなおしたが、その度に父さんは「転んだんだ、転んだんだ」と言い張った。僕は泣きそうになったが、そのせいで父さんが必死に吐いてくれている嘘がばれるのも馬鹿らしいので必死に耐えた。
 病院という密室が僕の心を幾重にも締め付けてくる。締め上げられて心が悲鳴を上げている。泣けば楽になるとは思ったが、責めてこれくらいの苦しみに耐えなければ嘘だろうと思い、僕は泣かなかった。
 しかし、その時の僕の顔は酷く歪んでいたのだと思う。病院のトイレで手を洗っている時、ふと顔を上げたときに鏡に映った自分の顔を叩き割りたくなった。
 
 翌朝のそれはしかも早朝の事だった。激しく大きな音が玄関から響いた。その時僕はまだ布団の中にいた。体だけは目覚めたようだが、まだ頭は虚ろである。体中に張り巡らされているであろう神経は、僕に眠る事を要求したので、その階下から響く大きな音を自分の関係の無いものだと決め込んで頭から布団を被り無視する事を決め込んだ。しかし、その音はあまりにもしつこかった、苛立ちが積もり目が覚めてしまった。仕方なく階段を降り、玄関の戸を開けるとそこに立っていたのは昨日お世話になったお巡りさんだった。
「体を動かさないと、気が滅入るぞ」
 そのお巡りさんはジャージ姿だった。
「これからジョギングだ、お前も一緒に来い。どうせ、停学中だからする事が無いんだろ」
 

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Novel Editor by BS CGI Rental
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