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作者:浅上陽一郎

第17回   17
 あのマントの人は僕の事を追い込むつもりであんな事を言ったのだろうか。僕を精神的に追い詰めて、『こんな世界なんかにいたくは無い』と思わせて、僕を壁の向こう側に連れ込もうとでもいうのだろうか。
 明かりをつけずに暗いままの部屋。僕は部屋の隅で、小さくなっていた。また、幻が現れた。
―話しを終わらせる前に逃げちゃうなんて酷いですよ。まだまだ言いたい事は沢山あったのに。でね、私が言いたかった事はね、感覚はわたしたちの世界のまやかしの像を伝える、という事なんです。古代の哲学者の言葉なんですがね、全くその通りですよ。例えば時間。楽しい時ほど早く、辛い時ほど遅く。人間って勝手ですよね。例えば魔女狩り。不幸を自分の失敗のせいとは思わずに、他人を魔女に見立てて不幸の原因を擦り付ける。魔女に見立てられた人は、お返しに自分を魔女に見立てた人を道連れに魔女に見立ててしまう。でも、時間が一定に流れるという事も、魔女がこの世には存在しないという事も、理性が知っていることでしょう? 感覚はわたしたちの世界のまやかしの像を伝えるんです。

 幻が消えた。幻の先にはやはり壁の向こう側の彼女から貰った輝く青い石。
 僕は長い間、暗闇の部屋の中でじっとしていた。ふと思い立ち、受話器を手に取る。掛ける電話先は、佐藤君。無機質な呼び出し音。その音は回数を重ねるにつれ重たくなる。耐えられなくなり、途中で受話器を下ろした。次に、小林さんに電話を掛ける。先ほど佐藤君に電話を掛けていたときと同じ呼び出し音がまた僕の耳の奥で響く。誰も出ない。井上さんに電話を掛ける。誰も出ない。田中君に電話を掛ける。誰も出ない。渡辺君に電話を掛ける。誰も出ない。担任の鈴木先生に電話を掛ける。クラスメイトの遠藤君に電話を掛ける。誰も出ない。誰も出ない。
 電話の電子音が響く。

 また朝がきた。僕が生まれてから何度目の朝なのかは知らないが、今日の朝日はいつにも増して目に痛い。思わずカーテンを閉じた。
 昨日は一睡もしなかった。長い夜。誰も動かない停滞した空気。いっそこのまま時間が止まってしまえばいいとも思ったのだが、残念ながら時間は流れ朝がきた。
 今日の朝に、喜びを感じる事が出来なかった。朝が僕を急かすので、とても不愉快だった。徹夜してしまったので、今の僕は調子がハイだ。
 階下で大きな物音がして、僕はハッとする。急いで駆け下りてリビングに飛び込む。親父が母さんを殴り続け、罵声を浴びせ続けていた。
「おいお前、なんで朝飯が出来ていないんだ。さぁ、早く作れ、俺は会社が忙しいんだ」
「何してやがんだクソ親父!」
 無抵抗の母をかばう様に俺は親父に飛び掛る。母さんと親父の間に立つ体勢になる。母さんは、抵抗を知らない。子供のように「やめて、やめて」と無力だ。
「おい母さんが、ご飯を作っていないんだぞ。お前の朝ごはんも、昼の弁当も無いな。これは困ったぞ。母さんが寝坊なんかするからなぁ」
 なんだかイライラした。イライラして

 つい殴った。

「何するんだ」
 まるで酔っ払いのように顔を真っ赤にした親父がこちらをギロリと睨む。そんなことよりも俺は、親父を殴った穢れてしまった右手の妙な感触が気になった。
「うるせぇ、ボケ、クソ親父」
「親に向かって、なんだその口の聞き方は」
 聞き飽きた見飽きたセリフだ。どこかで聞いた事のある言葉だ。ああ、こんな所にも壁があったのか。壁は壊さなきゃな。
 僕は右腕を振りかぶり、もう一発親父を殴った。
「何するんだ、この馬鹿!」
 今度は親父が僕を殴った。痛い、視界がグラリと歪んだ。首が安物の人形のようにカクンと外れてしまうかと思った。でも今の僕はそれどころでは無い。
「死ね! 死ね! 死ね! クソ親父」
 僕は三回殴った。ったく、なんだこいつは。まるで肉の塊だ。ああ、なんだこれは。ああ、石か小石が肉の間に紛れ込んだんだな。
「死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! クソ親父!」
 殴るたびに皮膚と肉と骨の不協和音が、僕の右手と左手を交互に流れる。親父の顔は殴る度に変化する。面白い。
 僕は倒れた親父の膨らんだビールっ腹に跨る。安物のソファーのようだ。全然腹が沈まない。流石、肉の塊だ。
「死ね、死ね、死ね、親父、死ね!」
 僕はまた殴った、殴った、殴った。何度も殴った。親父はもうぐちゃぐちゃだ。よだれとかどこから出ているのか分からない血とかで滅茶苦茶だ。僕は思った、涙も汗も涎も小便もそれからよく分からん汁もすべて同じものなのだと。
 どこかで笑い声が聞こえる。見ると、リビングの戸口に弟が立っていた。愉快そうに笑っている。おお、やっと帰ってきたのか。待ってろよ、さっさとこのデブを片付けて、朝食にしよう。僕はすっかり料理が上手になっちまったんだぜ。一度、お前に食べさせてみたいと思っていたんだ。だから待ってろ、もうすぐだ、もうすぐで

 この親父は死ぬ。

 パチンと乾いた音が響いた。気がつくと僕は親父の腹に跨っていた。目の前には、母さんが涙を流しながら立っていた。母さんが僕を平手で打ったらしい。
 そんな目で、僕を見ないでよ、母さん。
 母さん、やっと魂を取り戻したんだね。よかった。よかったけれど、魂を取り戻して最初にした事が僕を殴る事なんですか? 最初にしなければならない事が僕を殴る事なんですか?
 それはあんまりだ。僕はいつも母さんのために、馬鹿な親父のために母さんに成り代わってご飯を作り続けてきたのに。親父が母さんを殴るから、僕は今まで頑張ってきたのに。もう三年以上、食事の支度をしてきたのは僕だったのに。
 なのに母さんは僕を殴った。泣きながら僕を殴った。
 戸口に立っていた弟も消えていた。僕は走った。親父から降りて、ただ一目散に外に出た。僕は叫んだ。
「こんな世界なんか滅んじまえ!」
 なのに、太陽は眩しくて、風は冷たくて。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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