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作者:浅上陽一郎

第16回   16
 この場面を想像する度にぞっとする。この場面は佐真瀬アイが二人になってから、急に変更になった箇所である。比良野静香を演じる二人の佐真瀬アイ。二人の佐真瀬アイは瓜二つなので、この場面の二人は異様なくらいに不気味に映える。観客席からは分からないだろうが、舞台の上で二人と向き合う僕の心境は穏やかではない。このまま芝居の中に取り込まれてしまうのではないのかと思ったのも二度や三度ではない。僕はいつもこの場面で怖くなり、ワザとセリフを間違え、芝居を中断させる。今まで、この場面をそのまま通して終わらせたことは無い。このまま芝居を続けて芝居を終わらせてしまうと僕はもう二度と帰ってこられなくなるような気がする。
 この脚本を書いた小林久美さんを尊敬はする。しかし、僕は小林さんを恐れている。僕以外の他人がこんな事を考えているだなんて思った途端、世界中のあらゆる人間が怖くなってしまった。
 他人が何を考えているのか分からないのは当たり前のことだが、それを実感するのはとても怖いことだった。
 大きくため息を吐き、脚本を鞄の中にしまう。一週間の停学期間中、演劇部のほうには迷惑を掛けることになってしまった。主役である僕が抜けてしまった以上、本格的な練習をするのも難しいだろう。代役を立てて練習を続けることは出来るだろうが、本人がそこにいてこそ出来る練習というものも確かにそこにはある。そもそも、僕自身にも練習が必要だ。出来れば、このまま僕を主役から降ろして、別の人が主役をやってくれたらどんなにか楽だろう。そのほうが僕としても助かりはする。
 いっそのこと、こちらからそう言ってしまおうと思い受話器を何度か手に取るのだが、そのたびにダイヤルを押すことを躊躇ってしまう。なんだかそうする事は逃げてしまう事のようである。受話器を手に取ると、体が鉛の塊になってしまったように固く重たくなる。電話番号を一つ押すたびに、体がだんだんと鉛になっていってしまうようだ。
 降板の希望を出すのは、早ければ早いほうがいいのだろう。そのほうが、部の皆にも迷惑を掛けずに済む。
 まだ昼過ぎなので外は明るい。問題を先延ばしにし、鬱な気分を払ってしまおうと自分の部屋のカーテンを開ける。朝、学校への支度と朝食の準備で忙しかったため、カーテンを閉めっぱなしにしていたのだった。
 明るくなった部屋で、一つの巾着袋を取り出す。壁の向こう側の彼女が僕に送ってくれたものだ。青い光り輝く石。宝石か何かだろうか? 
 僕は彼女の事を思い出す。結局、顔も名前も分からないまま別れてしまった。彼女の言葉を思い出す。
―今度さ、こっち側の世界にもおいでよ。あんたは男なんだから、これぐらいの壁ちょろいでしょ? ポーンと飛んできて、ポーンと帰っちゃえばいいよ。
 彼女はそう言って、僕と会う事を楽しみにしてくれていた。しかし、彼女は死んでしまった。僕が彼女を慰め切れなかったから。そんな罪悪感ばかりが心の中にある。
 しかし、僕はやはり壁を乗り越えるのが怖いのだ。弟が夢売りに連れさらわれ消えていってしまったように、僕という存在がこの世界から消えてしまいそうで、どうしても壁を乗り越えることが出来ない。
 不意に、思いついた。弟は壁の向こう側に連れて行かれたのではないのだろうかと。夢売りが弟を壁の向こう側に連れて行ってしまったのでは無いのかと。
 もしそうなら―と僕は仮定を続ける。ひょっとしたら、芥川も壁の向こう側にいるのではないのだろうか。この世の中にいない人間全てを、壁の向こう側に消えてしまったと考えてしまうのは少しばかり突飛な気もしたが、僕はとにかくそれを確かめようと外に出ることを思いついた。
 鞄の中に弟の日記帳と壁の向こう側の彼女から借りているCDが入ったポータブルプレイヤーを詰め込み。部屋をあとにする。少し、思うところがあって、部屋を出る前に窓を開けた。夏の熱い空気を他所に、清々しい風が僕の部屋を駆け抜けた。
「母さん、行ってくるよ」
 相変わらず返事は無い。
 先日、買い換えたばかりの新しい自転車を走らせる。イヤホンからは音楽が流れる。もう死んでしまった壁の向こう側の彼女から借りているCDである。いつも陽気だった彼女の趣味からは想像も出来ないような陰鬱とした調子の曲だった。ただ、歌詞が英語であるためにいまいち意味は理解しかねた。しかし、まるでノイズが入っているような漠々とした曲調だけでその歌手の嘆き悲壮が聞き取れる。これは魂の叫びなんだと思った。
 僕が卒業した中学の近くの裏山。その裏山から坂を下る途中に芥川澄志の恋人である包子さんの家がある。とりあえず、彼女の家に寄っていこうと思った。
 しかし、玄関から出てきた包子さんの父親らしい男に門前払いを食らってしまう。僕は訝りながらも包子さんからの家を離れる。しかし、どうしても包子さんと話がしたかったので僕は家の前をしばらくうろついてみる。包子さんは出掛けているのだろうか。なかなか家から出てこない。この前みたいに、坂の途中などですれ違えればいいのだがそうもいかず諦めて真っ直ぐに山に向かうことにした。
 石畳と角材で区切られただけの粗末な階段を上り、階段を上りきる途中から藪の中に踏み入る。十分近く鬱蒼とした木々草花の中を歩き続けると、そこにはいつも通りに壁があった。相変わらず壁の向こう側は見えない。
 壁の正面に立ち、そのあまりにも滑らかなつるつるとした壁面を見つめる。
 壁面に手を触れている。相変わらず冷たい。一瞬、手を触れた右手の体温が全て吸い込まれたような錯覚を覚える。ひょっとしたら錯覚でも無いのかもしれないなと今更ながら思う。
 相変わらず僕は壁の前に立ち尽くしたまま何も出来ないでいた。頑張れば手が届きそうなのに。
「僕は、嫌な奴ですね」
 背後に人の気配を感じたので、僕は振り返らないままその気配に向かって言った。
「ここに来ると胸が苦しくなるんです。でも、なにも出来ないんです。なにも出来ないから、胸が苦しくなるんです」
 こつんとおでこを壁にあてがう。触れているおでこの面からぐんぐんと体温が奪われる
のを実感する。このまま、頭を冷やしてしまえ自分。
「あーあ、僕は一体何をやっているんだろう、っていう感情ばかりが募っていっつも何も出来ないんです。普通の人はこういう時、どうするんでしょう」
「あなたは普通の人じゃないんですか?」
 ああ、懐かしい声色だ。壁の向こう側の彼女とそっくりな抑揚のつけ方だ。
「知りませんよ、自分が普通の人かどうかなんて。ただ、壁の前で立ちすくんでいる自分が情けないんです。壁を乗り越えられない自分が情けないんです」
 向こう側にあの彼女がいたのかと思うと胸が締め付けられる。背後の気配は返す。
「あなたが今立っている場所が壁の前とは限りませんよ。後ろかもしれないじゃないですか」
「いえ、前なんです。壁に後ろなんかありませんよ。乗り越えられなければ、壁はいつだって目の前にあるんです」
「壁を乗り越えた後は?」
「壁を乗り越えた後は、壁の存在自体を忘れてしまうんです。だから、壁に後面なんか存在し得ないんです。人間の観念上にはね」
「ずいぶん乱暴な論旨ですね」
「でも、僕はいつだってそう思うんです」
 僕は振り返り、今まで背後にあった気配を正面に取る。
「マントの人は言いましたよね。壁を乗り越えた向こう側の世界に言った時に、僕は記憶を失ってしまうって。
 それは、これからの事なんですか? それとも、これまでの事なんですか?」
 既に背後の気配は形すら帯びてはいなかった。僕に言葉を返す者はもうそこにはいなく
なっていた。僕の視線の先にあったものは風に揺れる一輪の白い曼珠紗華。
 家に帰る。相変わらず自失呆然としている母の姿を見る。僕は黙ったまま自分の部屋に籠もる。外から流れてくる風がいちいち僕にぶつかるので、不愉快になり窓を閉じる。日差しが僕の視界を悪戯に広げたりするのが不愉快でカーテンを閉じる。
 停滞した空気に身を委ねると落ち着く。人間、眠る時はいつだって目を閉じる。
 僕はそうやって落ち着きを取り戻した後に、ポータブルCDプレイヤーに入れていた、壁の向こう側の彼女から借りているCDを取り出し、部屋に据え置いたままにしている大き目のCDプレイヤーに入れる。
 先ほどまで僕の耳元で響いていた矮小な音楽が、急に僕の部屋中をダイナミックに流れる。僕はその状態のまま机に突っ伏した。
 停滞した空気に流れる音楽。この部屋は一種の宇宙だ。小学生の頃の僕が選んだカーテンの模様そのままである。薄暗く、温度と湿度という概念はなく、ただ僕という存在が閉鎖空間に漂うのだ。
 弟の幻が現れた。
―俺は兄貴みたいにはならねぇ。
 僕はその言葉に違和感を覚えた。僕は弟から嫌われていたのだろうか。
―俺はベンチャーズやビートルズを目指す。
 つまり僕はベンチャーズやビートルズとは対極に位置する存在なのだろうか。
 部屋に流れるのは壁の向こう側の彼女から借りたピンク・フロイドのCD。
『お前は、ピンク・フロイドなんてバンドは知らないだろ』
 僕は壁の向こう側の彼女から借りたCDの事を思い出しながら、弟を嘲ってみる。たまには言い返さないと、兄の威厳というものが立たない。
―なぁに、今更強がってんだよ。俺は小学生のうちからビートルズとベンチャーズの事を知ってたんだぜ。兄貴は中学一年の時点でSMAPもB’zすらも知らなかっただろうが。
『なあ、なんでお前は俺の事を嫌いなんだ?』
―だって兄貴の小学校の卒業文集、クソつまんねぇんだもん。
『ああ、あれか』
 僕は小学校生活で成長した。五年生の時、運動会の応援団を務めてから積極的になった。小学校生活は楽しかったです。
『あれのどこが悪いんだよ』
―全部。特に五年生の時〜 のくだりが最悪だね。
『何でだよ』
―兄貴はいつまでそこにとどまっている気だよ。
『お前こそ、家に戻って来いよ』
 お前のせいで、母さんはおかしくなっちまったし。親父の弱さは目に付くし。
『別に俺は…』
 なにも悪い事などしてはいないのに。
―あのなぁ兄貴。いくら長男だからっていつまでも家に籠もってばかりいるんじゃねぇよ。
『あのなぁ、俺はまだ高校生なんだぜ。どうせ、大学生になったら一人暮らしぐらいするさ』
 口ではそう言ったが、本当のところはよく分からない。地元の大学に進学してしまえば、これからもこの家に住むことになる。
―『俺はまだ高校生なんだぜ』か。はんっ。
 弟の幻は笑う。僕を追い詰めるかのように、僕の言った言葉を反芻する。
―兄貴、兄貴はよぅ。きっと、大学生になっても同じこと言うぜ。
『『俺はまだ大学生なんだぜ』ってか?』
―そうだ。
『違いねぇ』
 僕は笑った。停滞した空気の中でその笑いはひどく乾いたものだった。
 しかし、そんな僕を弟は蔑んだ目で見る。
―兄貴はいつまでそうやって自分を誤魔化している気なんだよ。
『あのなぁ、話がもつれる前に言っておくとだな。俺はお前みたいにならない様に生きてんだ。夢と希望を持った人間は、馬鹿だっていうのはお前が証明してくれたからな』
―じゃあ、お互い様だな。
 僕は小首を傾げる。
―俺は兄貴みたいになりたくないから、こんな風になっちまったんだぜ。でも俺はそれを人のせいにしたりはしないぜ。俺は確かに兄貴の後姿を見て育って、それに反発するみたいにこんな風になったけど、それを兄貴が悪いからだなんて思ってない。俺はな、兄貴の後姿を見て学習したんだ。俺の責任で、俺が決めた人生だ。他人がどうのこうの言うんじゃねえよ。
『…』
 僕は大きくため息。
『だからお前は駄目なんだ。いいか、よく聞け。『俺の責任で、俺が決めた人生だ』だぁ? ふざけるのもたいがいにしておけよ。『他人がどうのこうの言うんじゃねえよ』だぁ? ふざけんなよ。
 いいか、よく聞け。人間は一人では生きていけないんだ。お前はベンチャーズやビートルズに憧れてミュージシャンを目指していた。そのベンチャーズやビートルズの苦悩をお前は知っているのか?』
―知らねぇよ。俺は俺の道を行く。全てを自分の責任で受け持って、自分が頑張ればいいだけの話だろうがよ。
『ベンチャーズやビートルズが、自分一人の力でああなったと思うんじゃねえよ。詳しくは知らないからよく分からんが。ジョン・レノンだってポール・マッカートニーにだって、母親と父親がいたはずなんだ。兄弟がいたかどうかは知らないが…。そいつらは本当に全てを自分一人の責任で受け持って、自分一人が頑張って、ああなったとお前は思うのか?』
―どういう意味だよ。はっきり言えよ。
『じゃあ言うぞ。ジョン・レノンやポール・マッカートニーは確かにプロのミュージシャン。それは俺だって知っている。でもなぁ、ビートルズの背後には色々な人間がいるはずなんだ。極端な話、ビートルズの四人だけではレコードを作る事はできないはずなんだ。音楽を録音する技術者がいたはずなんだ、レコードをプレスする技術者がいたはずなんだ』
―急に話が飛ぶじゃねえか。
『どんなにアウトロー気取ってもな、アウトローだって国が作った道路の上を歩くし、国が作った電車に乗るし、国が行う福祉だって受けてるはずなんだ。自分勝手に好き勝手に出来るほど世界は甘く無いんだ』
 弟は黙っている。
―じゃあよ、なんで兄貴は泣いてんだ。
『…』
 弟に言われて、目の下を拭う。確かにそこには涙があった。
―兄貴、それ汚ぇよ。じゃあ、俺たちはいつまで経っても苦しいままじゃねえか。
『生きる事は苦しい事だ。当たり前の事じゃないか』
―兄貴、俺、窒息しちまいそうだ。
『だから、家を出たのか?』
―兄貴、俺、苦しい。嫌だ、こんな世界になんかいたくないんだ。
『お前は、壁の向こう側にいるのか?』
―兄貴、俺、死ぬ。死んじまいそうだ。こんな世界で生きていると死んじまいそうだ。
『世界は一つしかないんだぜ。どんなに苦しくても俺達はこの世界で生きていかなくちゃならないんだ』
―俺は嫌だ。俺はもっとカッコよく生きていきたいんだ。
『ビートルズみたいにか?』
―…
『ベンチャーズみたいにか?』
―…
『なあ、本当にビートルズやベンチャーズっていうのはカッコいいものなのかな?』
―もう、いい。兄貴は死ね。死んじまえ! 俺と血を分けた兄弟だろ。俺と同じ親を持つ兄貴なんだろ。
『いい加減、諦めろよ』
―もう、世界なんか滅んじまえ、クソったれ!
『…』
 次の瞬間に、弟の幻は消えた。先ほどまで、弟の幻が立っていた場所には、壁の向こう側の彼女が僕にくれた青い石が転がっていた。僕はその青い石をつまみ上げる。先ほど自分で言った言葉を、繰り返す。
『世界は一つしかないんだぜ。どんなに苦しくても俺達はこの世界で生きていかなくちゃならないんだ』
 僕だって、こんな世界は嫌だ。夢も希望も無い世界だなんて嫌だ。夢が叶う世界があれ
ばいいのに。
「ああそうか、だからこの世界には夢売りがいるのか」
 僕はその事の矛盾を覚えた。壁の向こう側の彼女は、僕の世界の夢売りという存在を珍
しがっていた。
 夢が叶えばいいのに。
 僕はいつの間にか再び自転車に乗り駆け出していた。
「やっぱり来ましたね」
 ニヤリとマントの人は笑った。
「壁の向こう側に行く気になりましたか?」
 気がついたら森の中にいた。ここに来るのは今日、二度目だ。
「この石はなんなんですか」
 壁の向こう側の彼女から貰った青い石。この石は透き通った輝きが綺麗だが、たびたび
僕をたぶらかさんとでもするかのように幻覚を見せるので僕は参ってしまっていた。何故このようなものが存在しえるのかと考えた時に思いついた答えというのが、このマントの人が夢売りだという可能性だった。
「あなたは夢売りなんですか?」
 僕は尋ねた。
「うん」
 マントの人は答えた。
「あなたは知っているのかなぁ。この世界、つまり壁のこちら側にもあちら側にも同じ歴史が流れているんです」
 それは壁の向こう側の彼女と会話を重ねていくうちに知った事だ。
「だから、同じ言語で交流を持つことが出来るんでしょう」
「ええ、そうですねぇ。でもねぇ、本当にあなたは壁の向こう側の彼女との交流に成功していたのでしょうか?」
「どういう意味ですか?」
「本当に向こう側の人間とこちら側の人間は同じ言語を持っているのか? という問い掛けです。つまりですね、あなたはこれを…」
 とマントの人はとんとんと灰色の『壁』を叩き
「壁と表現するが、壁の向こう側の彼女は本当にこの物体を壁として認識していたのかなぁ、と私は言っているんですよ」
 眩暈を覚えた。
「あなたはこれを…」
 と叢の中の白い曼珠紗華を撫でながら
「曼珠紗華と表現するが、壁の向こう側の世界では果たしてこの六弁花をつけるヒガンバナ科の多年草を『曼珠紗華』と呼ぶのかどうかは疑問ですよね」
 ぞっとしない話だ。
「そもそも、壁の向こう側の世界では、この世界の六弁花を六弁花と、ヒガンバナをヒガンバナと表現するのでしょうか? 偶然たまたま、同じ響きの言葉が両方の世界にあったというだけで言葉の意味は違ったのかもしれません。壁の向こう側の彼女と壁のこちら側のあなたは、本当にコミュニケーションを取れていたのでしょうか?」
 僕は怖くなって逃げ出した。ただ一目散に、石畳と角材で区切られただけの野ざらしの階段を駆け下った。敷き詰められた小石が乾いた音を僕の足の下で響かせた。


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Novel Editor by BS CGI Rental
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