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作者:浅上陽一郎

第14回   14
「生きる事って、こんなにも訳の分からない事だっけか」
「なあ、芥川」と僕は高校二年の五月に、修学旅行の時に芥川と一緒に撮った写真を眺めながらぼやく。
 その写真の中の僕も芥川もとても楽しそうだ。肩を組んでピースサインを作っているのが今見てみるととても微笑ましい。
 しかし、今ではとても笑える気がしない。僕は過去と現実との断絶を感じた。
 修学旅行は楽しかった。僕はもともと友達が多い方では無く、数少ない仲の良い友達とは一年生から二年生へのクラス替えの際に完全にバラバラになってしまった。
 もし芥川が二年生最初の昼食の時間に声を掛けてくれなかったらと思うとぞっとする。
 この時の修学旅行で同じグループになった芥川の知り合いとは今でもよく話をする。芥川は確かにいい奴だった。
 どんどんと戸を叩く音がする。分かっている。親父が俺の部屋の戸を叩いているのだ。だが今日ばかりは学校に行く気がしない。なぜかは知らないが俺は今ムシャクシャしていた。
 本棚を戸の前に置いてやれば向こう側から戸を開けることは出来ないのだ。しばらくこうして暗闇の中でじっとしていれば会社に行かなければならない親父はそのうち家を出るであろう。
 大丈夫だ、今日一日ぐらい学校をサボったところで将来に支障は無いだろう。それよりも今はとにかく自分が駄目だったのだ。このまま、何気ない日常を繰り返していくといつか自分は壊れてしまうのではないのだろうかという気がしていた。
 こんな感情は久し振りである。弟がいなくなった中学一年の夏以来である。その時、僕の部屋の戸を叩いたのは母さんである。その頃は、まだ母さんはまともだった。確かに、家族が一人行方不明になったのだから、顔には出さずとも母さんは大きな不安を抱えてはいたのだろう。しかし、その時の僕達一家に与えられていた異常というのは、「弟がいなくなった」というインスタント的なものだったのだ。そのうちひょっこりと弟が帰ってくるのではないのかと、母さんは思っていたのだろう。
 しかし、時間が流れていくうちに僕達一家の異常は「弟がいなくなった」から「弟がいなくなっている」を経て、「弟はいない」というものへ変化した。「弟の空白」というものが日常を侵食し始めた。
 僕は弟がいなくなる前に言葉を交わした最後の人物なのだろう。弟は僕に自分の夢を話し、その後に消えてしまった。僕はその時に、黒マントの人に手を引かれる弟の姿を見た。恐らくあれが夢売りという存在なのだろう。ああ、そういえば僕は包子さんに嘘を吐いてしまっていたらしい、僕は一度だけ夢売りを見たのだ。
 母さんが抜け殻になったのは「弟の空白」が日常を侵食し始めた頃である。すぐに弟が戻ってくると思っていたらしい母さんは次第に魂が抜けていき、弟がいなくなった日から一ヶ月を数えた辺りで、遂に魂が抜け切り、殻になった。
 僕は弟が戻ってくる事はないと知っていたから、未だにまともでいられるのかもしれない。
 戸の向こう側が静かになった。親父が会社に行ったのだろう。
 カーテンを閉め切った部屋の中で、大きく深呼吸。喉の奥に埃が引っかかる。そこで僕は気がつく。どうやら僕は間違って弟の部屋で夜を明かしたらしい。
 こうしてみると、ひどく寂しい部屋である。もう、五年以上も放って置かれた部屋だ。
 僕は昨日の包子さんの言葉を思い出す。
 弟も苦しい現実から逃げるために夢の中へと逃げていったのだろうか。だとしたら、弟は今どこにいるのだろう。そして、何を思っているのだろう。
 次いで芥川の事を思い出す。彼がいなくなったのは本当に突然だった。あいつは確かに将来、ミュージシャンになるという夢を持っていた。しかし、それがこの世界からいなくなる理由だろうか。
 世界から突然と姿を消したこの二人の空白は、ぽっかり空いた僕の心の隙間そのものである。
 階下から電話の呼び出し音が聞こえた。僕は思わず、それが弟からきた電話なのだと思ってしまった。しかし、それは僕の思い過ごしであった。
「おう、元気か。休んだって聞いたから、ちょいと不安になって電話してみた」
 受話器を取ってみると佐藤君の声だった。
「佐真瀬さんに引き続き、お前までダウンか。主役二人…、いや三人がいないんじゃ、練習もままならないな」
 佐真瀬さんは今日も学校に来てないんだよと、受話器の向こう側の声は皮肉げに笑った。
「…悪ぃ、練習、厳しすぎたか?」
 しばらくの間を置いた後、佐藤君の声の調子が手の平を返したように急に低くなったので、僕は驚く。
「よく考えたら、お前らはただ部活で演劇やってるんだったよな。なんつーのかな、俺さ、頑張ってプロ目指したかったから、大学とかの内申に箔つけたくて大会でいい成績収めたくて、お前らに無理言って辛い思いさせてるんじゃないかって、急に不安になっちまってな…、その…、なんだ。
 ごめん、悪かった」
 罪悪感が心臓を鷲づかみ。佐藤君は続ける。
「俺、…本当に嫌な奴だ。自分の夢に、他人を巻き込んじまって、辛い思いさせちまって。でも、今まで、なんか、怖くてな、お前らが。何考えているか分かんなくて」
「大丈夫だよ、佐藤君。僕も佐藤君が何考えているのか分からないよ」
 電話口の向こう側の佐藤君はしばらく黙っている。僕は続けてみる。
「演劇は難しいよ。一人では作れないよ」
「…だよな」
「アマチュア劇団ならいいんだよ。目的が同じ人同士が集まれるんだから。でも、僕達は受験をパスして偶然にこの学校に集まった生徒が、偶然演劇に興味を持った人間が集まっただけのもの。本気の人も遊びの人も一緒くたにしちゃう。だから、難しいんだ。
僕達はどうしようもなくなってしまう。どうしても大会に出ていい成績を収めたい人が、ただ芝居を経験したいだけの人が、ただ内申書を何かで埋めたいだけの人が、同じ場所で同じ事をしようとすれば、どうしようもなくなっちゃう。
歯車が噛み合わないんだ。目的が違うから噛み合わないんだ。
学校があって、僕達がそこにいるだけ」
「お前は、どうして演劇部に入部なんかしたんだ? その…、なんつーか、お前って本気かどうなのかも分かんない奴でさ。
 笑うなよ、それと怒るなよ? お前って、どう考えても部活に熱心に打ち込むようなタイプの人間には見えなかったんだ。なんつーか、冷め切っているっていうか。無駄な事はしないっていうか。
 だったら、部活なんかしてないで勉強をしていればいいって、俺も、他の奴も思っていたんだ。でもよ、小林さんが言うんだ。
“あの人は不思議な人だ。不思議な力を持っている人だ。ああいう人は、役者に向いているよ”って。
 実は、今回の芝居の主役をお前に任せようって決めたのも、その小林さんなんだ。なあ、俺にはお前が分からねぇよ。
 なんでお前は、演劇部に入部したんだ? どうして、素直に進学コースに進まなかったんだ?」
「大丈夫、僕も、佐真瀬アイさんもすぐに復帰するよ。必ず、必ず行くから」
「今の、聞いていた?」
 コクンと頷く黒い影。長い髪の毛、凛とした瞳、すらっとした体躯。佐真瀬アイである。
「ごめんね、かなり長い間、こんな狭い部屋に閉じ込めてしまって」
「いえ、いいんです。これは、私があなたにお願いした事ですから。それに、興味深いものをこの部屋から感じる事が出来ました」
「弟に惚れた? あいつはもうここにはいないよ」
 僕と佐真瀬アイは笑った。
 如月君から離れたいというのが、佐真瀬アイが僕に持ち掛けてきた相談であった。自分に依存しっぱなしである如月君を憂いた佐真瀬アイは、しばらく如月君から離れてみたいと言うのだった。
 僕は佐真瀬アイに弟の部屋を貸す事を思いついた。母さんも親父も弟の部屋に目を背けっぱなしなので都合が良かった。
 弟の部屋にだけ、鍵が付いてある。弟がホームセンターから買ってきたらしい鍵だ。それを弟は、戸に取り付けていた。
「あなたが、私に対して冷たい理由も分かったような気がしましたし」
「…」
「隠さなくってもいいんですよ。初めて会った時から気がついていました。あなたと芥川さんだけが、一番初めに私に対して警戒心を持ちました。私と如月さんは結局最後には、クラス全体から孤立してしまったんですけれど」
「気がついていたんだ」
「私は悲しかったです。作り物としての自分の限界を感じてしまいました。人間はなんだかんだ言って、作り物を見抜く力があったんですね」
「どうだろう。結構、人間は馬鹿かもよ」
「どういう意味ですか?」
「僕は、佐真瀬アイさんが好きだ」
 僕は佐真瀬アイさんの顔をじっと見る。長い髪の毛、凛とした瞳、すらっとした体躯も今では心に焼き付いてしまい離れなくなってしまった。しかし、佐真瀬アイさんの表情は冷たい。
「多分それは錯覚ですよ。お芝居で恋人役をやっているから、あなたはそう思ってしまうんです」
 佐真瀬アイさんは泣いていた。
 僕と佐真瀬アイさんは外に出た。弟の暗い部屋にいたら気が滅入りそうだったからだ。今日は天気もいい。
「なあ。ひょっとしたら生きる事に意味とかって無いのかな」
 弟も芥川も消えてしまった。母さんは抜け殻になってしまった。如月君は籠もってしまった。佐藤君は行き詰まってしまった。なんだか、それらの全ての出来事が生きる事の空しさを語っているように僕には思えた。
「僕が佐真瀬アイさんの事を好きになった事も錯覚なのかな?」
「そうです、そうなんです」
 佐真瀬アイさんは僕の心を縫いつけようとするみたいに言った。
「なんで、そんな事が言えるのさ」
「だって、私は夢の商品の一部なんですよ。だから私は如月君を好きにならなくてはいけないんです」
 まるで、自分は如月君が好きではないみたいに言う。
「だからもし、私―佐真瀬アイという人形が、あなたを一時的に好きになるような事があっても、結局最後は如月君―夢の主を好きにならなければならないんです」
 まるで、自分は僕の事を好きになっているみたいなことを言う。
「弟さんの話が聞けてよかったです。夢の一部の人形として、私は謝ります。あなたを夢も希望も持てない人間にしてしまって、私はとてもすまないと思っています」
 夢に敗れたのは弟なのに、まるで僕が夢に敗れたみたいなことを佐真瀬アイは言う。
「代わりに、私の事もあなたに話そうと思います。…」
 僕は佐真瀬アイが続けたその言葉をゆっくりと噛み締めるように聞く。
 ああ、夏の陽気。太陽がまぶしく、世界中の全ての事物がその光を命一杯受けて、色濃く反射している。僕と佐真瀬アイを取り残すように。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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