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作者:浅上陽一郎

第13回   13
最近の僕は混乱している。学校へ向かう電車の中で、ふと別の駅で降りてしまいたくなるような衝動に駆られる。
 そこになにかあるかもしれないし、なにも無いのかもしれない。しかし、学校という枷が僕にある以上、取り敢えず電車を途中で降りる事は無い。学校という鎖が僕を引き釣り込んでいるのだという事に気づく。
「あいつ、馬鹿だしなぁ」
 帰ってきても、今度のテストは絶望的だろうなと無責任な心配をかけてみたりもする。
 相変わらず、僕は部活にも出た。佐真瀬アイは来なくなっていた。どうしたものかと佐藤君を始め、部員皆が心配した。
 電車の中、いつまた途中の駅で電車から降りてしまいかねない自分を恐れる。その自分の危うい感情から目を背けるように目を閉じる。寝てしまえば、なにも考えはしないから大丈夫だと言い聞かせる。
 家に帰ると母がいる。抜け殻になった母はいつまでもテレビを見続ける。
 今日、久し振りに弟の部屋に入った。部屋の内装は弟が行方不明になった当時そのままだったが、埃が部屋中の机や本棚をはじめとした家具類に積もっている。机の上には弟が小学六年の時に使っていた教科書や筆記道具が置いてある。無精者の弟はなかなか片付けをしなかった。
 一冊の日記を弟の机の中から取り出す。これだけは、他の物よりも埃の積もり方が薄い。僕がたまに読んでいるからだ。何度ページを捲っても、最後の日付は弟が行方不明になった時のままだ。
 一番初めのページから丁寧に読み進める。汚い字だったが、濃い筆圧で書かれており力に満ちていた。内容は人生や将来の夢の事ばかりで、学校での出来事や友人と遊んだ事などは全く書かれていなかった。
 小学六年生の人生論は酷く幼稚なものだった。読んでいる人を苛立たせるような独善的な内容だったが、僕は弟に感謝しなければならない。
 先日、小林さんに芝居の演出方法について意見したアイディアの中に弟の日記のから拝借したものがあった。
 これは恐らく詩なのだろう。しかしそれがオリジナルなものなのか、なにかからの引用のものなのかは僕には分からなかった。ひょっとしたら、これはミュージシャンになりたいと言っていた弟が考えていた曲の歌詞なのかもしれない。
“僕は夜中に目を覚ます。僕は朝に目を閉じる。
 僕は尻からものを食べる。僕は口からものを排泄する。
 逆立ちをしたまま学校に行く。足の指で鉛筆を握り、算数の計算問題の答案欄に飛びっきり難しい四字熟語を書いてやる。国語の漢字問題の答案欄に飛びっきり大きい桁の数字を書いてやる。
 学校? 学校だって? そんな所に僕は本当は行きたくないんだ。
 だから僕は壁を壊す“
 弟は馬鹿だったからなぁと、僕は弟が机に向かいこの詩を書いている様子を想像する。その情景は僕の想像の物なのだが、その僕の想像の中で弟は真剣な目をしていた。何かを切りつけようとでも言うかのような鋭い眼光だった。 
僕は自分の立ち位置を見失っていた。立ち位置を忘れた役者に、光が当たる事は無い。そういう事に、僕は気づいた。

突然の電話は芥川の妹さんからのものだった。日曜日、僕は隣町まで出かけ待ち合わせ場所として指定された喫茶店に向かった。
「始めまして、三鈴澄美といいます」
 そう言って出迎えてくれた彼女は短めのジグザグのシャギーヘアの活発そうな女の子だった。二重瞼がそう見せるのか顔立ちはくっきりとしており、可愛らしさと美しさの間を行ったり来たりしているような女の子である。
 自己紹介によれば彼女は中学二年生で、ここから更に二つほど隣の街に母親と暮らしているそうだ。
「いつも、兄がお世話になっています」
 三鈴さんの物腰は丁寧だ。兄であるはずの芥川とは対照的である。
「今日は兄の事で相談したくて…」
「別に敬語じゃなくてもいいよ。それに、芥川…、澄志の事については僕も色々話を聞きたかったところだったんだ」
「兄の行方について何かご存知じゃありませんか?」
「ごめん、それは僕も聞きたい事だった。知らないんだ」
「別に、口止めされているわけじゃないんですよね?」
 じっと彼女は目を細める。
「私は親の使いではありません。それでも…」
 彼女のはっきりとし過ぎている二重瞼はこのような時、彼女自身に不利益をもたらすだろう。感情をあまりにも表に出し過ぎている。彼女が、僕に対して何らかの疑いを持っているということは簡単に読み取れる。
「本当に知らないんだ。急に学校に来なくなったんで僕も驚いているんだ。それよりも、警察に届けは出した?」
「いいえ」
 澄美さんの話によれば、芥川の両親は既に離婚している。澄美さんが三鈴姓を名乗っているのも澄美さんが母方についたからで、芥川姓を名乗る芥川は戸籍上は父方なのだそうである。
「母さんは、もう兄の事も父の事も忘れてしまいたいらしくて。父は離婚する前から荒々しい人でした」
 芥川の父は今何をしているのか分からない。芥川は高校の頃から一人暮らしをしていた。そして、その芥川の両親が離婚したというのだから、芥川の父は一人になったわけである。家庭内暴力を絶やさない攻撃性の強い性格だったのだそうだ。それが原因で離婚したのである。
 親の離婚後も芥川澄志と三鈴澄美は携帯とパソコンのメールで、交流を続けていたという。
「それじゃあ、僕達で澄志の捜索願を出そう」
 そういう事を知らなかった僕は今まで芥川の行方を人任せにしてしまっていた。しかし、芥川を気にかける人物がそれほどいないという事を今知った僕は芥川を探すための行動を取らずにはいられなくなった。
「いえ、兄の事はそっとしておいて貰えませんか」
「何故?」
「私は兄に夢を叶えてもらいたいんです。兄はきっと、夢を叶えるためにどこか遠くへ旅立ったんですよ。だから、兄を探すような事はしないでください」
 全く女というものは何故こんなにも非現実的なのだろう。物事を過剰な幻想で飾り立てる。そして、現実を知った途端に絶望をする。僕の母のように。
「私が今日言いたかった事はこれだけです」
と澄美さんは言葉を締めた。澄美さんはこの事で僕に釘を刺すためだけに僕を呼び出したらしい。
 次は僕が澄美さんに物を言う番である。
「澄美さん。僕は澄志がいなくなる前日に、一回澄志と会ったんだ。その時は人を探していると言っていたんだけど何か心当たりは無い?」
「ああ、それはきっと包子さんに会いに行ったんだと思います。あなたの住んでいる町で会ったんですよね?」
 包子さんというのは芥川の恋人で、僕と同じ町に住んでいるのだそうだ。
「失礼な質問だから答えたくなかったら答えなくてもいい。その時は聞かなかった事にしてもらいたいくらい恥を忍んで言うよ。澄志がミュージシャンになりたいと言ったのはいつから? えっと、…つまり、澄志がミュージシャンになりたいと言ったのは、澄美さんのお父さんとお母さんが離婚した後? それともする前?」
「離婚した後です。その前から音楽を演奏してはいましたけど、口に出してミュージシャンになりたいと言い出したのは父と母が離婚した後なんです」
「変な事聞いてごめん。でもありがとう」
 澄美さんの父親の暴力の原因が、澄志にあるのではないと知り、僕は胸を撫で下ろした。
 澄美さんと別れた後、僕は澄美さんから聞いた住所をもとに包子さんの家に向かった。玄関のチャイムを押した所、彼の父親らしい男が現れ、僕を激しい恫喝で追い立てた。
 訳の分からぬまま、逃げるように坂を下っていくと一人の女性とすれ違った。澄美さんから包子さんの写真を見せてもらっていたので、彼女が包子さんなのだと僕は分かった。包子さんは両手脇にスーパーの袋を抱えており、これから家に帰るらしかった。僕が芥川の友人で、芥川がいなくなったことについて包子さんと話がしたいという旨を伝えると彼女は快く承諾し、外で待つように言われた。
 僕と包子さんは歩きながら話をすることにした。
「芥川クンは、夢買いから夢を買ったんです。だからもう、彼はこの世界にはいないんです」
「一つお聞きしてよろしいですか?」
「別に敬語じゃなくてもいいですよ、あなたのほうが年上なのだし」
「夢って、なんですか? 夢が買えるだなんて、おかしいとは思いませんか?」
「あなたは変な事を言いますね。その疑問は、お米が買える事がおかしいと言っているようなものなんですよ」
「米を作る人がいる。それを売る人がいる。米を作れない人がいる。だから、米を買う人がいる。米を売る人は、米を作れない人からお金を受け取る。米を作る人は、米を売ったお金で、家を買い肉を買い机を買います。米を作れない人は、米を買うためのお金を、家を作り肉を作り机を作る事によって得ます。これは分かります。
 しかし僕は今まで十七年間生きてきて、一度も夢売りから夢を買った事はありません。夢売りはどうやって夢を作るのですか? 夢売りは夢を売る事によって何を得るのですか?」
「あなたは、ずいぶん冷たい事を言うんですね。何でもかんでも理屈で通してしまっては、窮屈ではありませんか? 人間は数字じゃないのですよ」
「それは分かります。僕達には感情がある。言いようもしれぬ、不可思議な化け物を心の内に飼っています。しかし、それとこれとは別でしょう。感情だけで生きていけるのなら、それこそ苦労はしないでしょう」
「あなたはどちらかというと、芥川クンとは反対側の世界に住む人ですね」
「僕は夢の商品と一度出会った事があります。同じ教室のとある男子生徒がそういう女性と仲良くなりたい、と願ったのが原因なんです。そのとある男子生徒の理想の女性というのが、その人です。
 その人はとても不気味でした。人間の形をして、人間の言葉を喋り、人間の行動を取るのにも関わらずです。まるで記号の組み合わせなんです。
 その女性と仲良くなる夢を買ったそのとある男子生徒は人と付き合うのが苦手でした。そのとある男子生徒はその夢を買って以来、ますますクラスから孤立してしまいました。逃げ場所を与えられた事によって、却って自分を追い詰めてしまったんです。
 僕は悩んでしまいました。これが本当に夢なのかと」
 彼女は不意に僕の頬を叩いた。乾いた音がした。
「あなたは人でなしです。あなたは人と向き合わないからそんな事が言えるんです。だってそうでしょう。人と向き合わないから、あなたはそんなにも平然として生きていられるんだわ。生きる事は苦しいんですよ。たまに、たまに夢を見ていないと苦しいじゃないですか。私は、理想の女の子と仲良くなりたいと願ったそのとある男子生徒に同情します」
 そう言って、彼女は走り去っていってしまった。僕はそれを見送りながら、頬に残った痛みを噛み締めた。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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