「よっし、いいぞいいぞ」 佐藤君はいつになく上機嫌だった。 「ここで、照明の二、四、七がつくんだな」 「うん、セロハンの色は三つとも赤だよ。背景の照明は、実際の会館で試して見ないと分からないけれど、赤紫が上に向かうに連れて薄くなっていく感じ」 「よっしよっしよっし」 一回言えば分かるのに佐藤君は「よし」を連発する。 「皆本光と比良野静香の動きもいいよ。今度からは照明の位置を注意するようにしてみて」 「はい」と僕と佐真瀬アイは大きな声で返事をする。中途半端な体育会系の部活なのだ。 結局、僕達は小林さんの演出方法で芝居を作ることにした。その事が決定した三日前から、青海月先生は部活に来なくなってしまった。 「よし、それじゃあ今度は最初から完全に通してやってみよう。俺は、今回は絶対にストップ掛けないから。本番のつもりでね、いいか、本番のつもりだぞ。トチったって、言い直したりするんじゃないぞ。緊張感を持続させろよ」 佐藤君は部全体を見渡すしながら、一呼吸置いた。そして、 「はい、スタート」 僕達の劇がまた何度目かの始まりを迎えた。
―だから君は一体なんなんだ? 「なんなんだっていうのは、何?」 ―さっきまでそこにいたくせに、何で次の瞬間に俺の後ろに立っているんだよ。 「何言ってるの、皆本君、私はさっきからずっとここにいたんだってば」 ―嘘だ! お前はなんなんだ。
皆本光は訳が分からないといった風に地面にくず折れる。右と左の上腕を地面に付け、喚きだす。
「何でそんなに怖がるの。怖がる必要なんて」 「ないじゃない」
比良野静香は二人になる。皆本光は二人から目を逸らし、ただ灰色の地面を凝視する。
―ああ、間違っているのは俺のほうだったんだ。渡辺や卜部達の言っている事が正しかったんだ。畜生、俺を騙したな。
と皆本光は二人の比良野静香を睨み付ける。
「何言っているの、あたしが二人いることがそんなに不思議な事なの?」 ―あ、当たり前だろ! 「皆気がつかないだけなのよ」 ―な、何にだよ。 「私は一人じゃない」 ―は、はぁ? 「私は一人じゃない」 ―… 「私は一人じゃない」
次第に舞台の上はドライアイスによるもやに包まれ、やがて三人はそのもやに溶けていってしまうかのように消えていく…。
「お疲れー」 僕達は学校を出る。今日、僕は佐真瀬アイと帰る事になっていた。彼女から「話があるから」という事で呼び止められたのである。 「じゃあな、また」 校舎の玄関前まで一緒にいた佐藤君と小林さんと別れ、僕達はひっそりと静まり返った校舎をあとにする。電気の消えた校舎は、不気味なたたずまいを周囲に漂わせていた。丘の上に立っているので、尚更である。 「で、話って何?」 しばらく他愛のない話をした後、そろそろ本題をと切り出してみる。少し先にはいつもの無人駅が見えた。 「私、昨日は色々考えたんです」 と彼女は口火を切り、僕は彼女の次の言葉を待つ。 「私は結局、作り物なんです。如月さんの夢の一住人なんです。だから私は如月さんの理想の女性を演じるし、それを周囲に巻き込む力も持っています。でも、他者の精神にまで介入できない私はいつまで経っても、人形。 一人の人間の為に、私は理想を演じ続ける。 だけれど、夢を買った主のシナリオは未だに続いている。けれど、現実はいつまで経っても夢になってはくれないんです。 私はどうしたらいいのでしょう? けれど、この問い掛けが無駄だという事も分かっているんです。シナリオの登場人物は私と如月さんだけで、それ以外の人物は言わば観客なんです。観客をシナリオに従わせる事は出来ません。 私にはそれが疑問なんです。 如月さんと私はいつまでこんな事をしていればいいのか。夢を買ってしまった如月さんはいつまでそうしていればいいのか」 僕は何も言う事が出来なかった。 それは団地外れにあった。アパートは全部で三つあり、それらはどれも同じ高さ同じ形をしている。市営のアパートなのだ。 ピンポーンとチャイムを鳴らす。しばらくしてドアの向こうから「どちら様ですか?」という声が聞こえてきた。僕は名を名乗り、如月君の友人である事を告げる。 「学校から大切なお知らせがあったので、そのプリントを持ってきました」 とドアが開き、少し肌が荒れた感じのクセっ毛が特徴的な女性が僕の目の前にいた。 「あら、まぁ、京ちゃんにお友達だなんて珍しい」 と真顔でそんな事を言い、 「まあ、あがってあがって、狭いところだけど」 と言われた僕は戸惑いつつも室内に足を踏み入れ、案内されるがままに如月京君の部屋に通された。僕を案内してくれていたその女の人はやはり如月君のお母さんらしい。しかし、僕は少々参ってしまった。 「あのコ、学校でちゃんとやっています?」「あのコ、他の子よりも少しデリケートな所があるから…」なんて事を延々と言われ続けた。市営アパートの(失礼だけれど)狭い室内がとても広く感じてしまった。牛歩戦術? 「それじゃ、また後でね。うふふふふ…」 何が嬉しいのか如月君のお母さんは口に手を当ててやたらと丁寧に戸を閉めた。戸を閉める時の音が聞こえなかった。まるで仲居さんのようである。 狭い畳の部屋には布団が一枚敷かれていた。そこには一人の人間がこちらを背にして寝ている。 「やあ佐真瀬、遅かったじゃないか…」 と言いながら、如月君は布団から身を乗り出す。 「佐真瀬さんじゃ、ないよ」 できる限りゆっくりと、それでいてしっかりと。 驚いたように布団をひっくり返す如月君。目には驚嘆の色がありありと見え、口もわなわなと震えている。 「佐真瀬さんは、もう来ないよ。多分」 僕は死刑の執行人にでもなった気分になる。しかし、心を鬼にして言わなければいけない事がある。 「聞いたよ、佐真瀬さんから。今日のシナリオは“風邪を引いた如月を佐真瀬アイが見舞う。佐真瀬アイは、手料理を如月君にご馳走する。そして、夜、少しばかりいいムードになるも、佐真瀬アイは慌てて部屋を出て行く”んだってね」 「な、なんだよぅ、な、なんで君がここにいるんだよぅ」 僕の顔を見た途端に、如月君の声は震えだした。呂律が回っていない、いつもの事ながらとても聞き取りにくい声である。 「僕がここにいるのは、僕が如月君の近くに住んでいるからだ。同じクラスメートの家を訪ねるのに、あんまり理由はいらないんじゃないかな」 如月君は厚めの羽毛掛け布団を握っている。それで、僕と如月君との間に壁を作っているらしい。狼に怯える兎のようだ。 「で、出てけ、出てけよ!」 「いい加減に目を覚ませよ。佐真瀬アイは自分の道を見つけようとしている。漣君の佐真瀬アイとは別にね。君はいつまで自分の世界に引き篭もっているつもりなんだ」 「か、返せ。ぼ、ぼ、僕の佐真瀬アイを返せ」 彼は布団の脇に置いてあった、先ほどまで読んでいたらしい漫画本を僕に投げつけてきた。僕はワザと避けずに当たってやった。その後で、その漫画を手にとって見た。本全体が日に焼けている。僕に当てられたせいでその本はしわくちゃになってしまった。 「佐真瀬アイはもうここには来ないよ」 「う、うるさいよう、出て行け、出て行け」 如月君は手当たり次第に物を取っては僕に投げつけてくる。小さなプラスチック製の目覚まし時計が目の上に当たり、つぅーと血が流れた。辞書が腕に当たり、ジーンと痛みが響いた。 そうやって投げ込まれる物の中に、大判サイズのスケッチブックがあった。空気抵抗をもろに受けたそれは真っ直ぐ僕には飛んで来ず、ぶわっと間抜けな響きを僕達に聞かせた後、その中身を露にし、そして床に落ちた。 僕はそのスケッチブックを手に取った。そこには佐真瀬アイそっくりの女性が、裸体で幾枚も描かれていた。しかし、その裸体のスケッチは最初はただの立ち姿だったのだが、ページを重ねる度にその絵は卑猥になっていっていた。ただの直立不動の姿勢が、次第に男を誘惑する淫靡な姿勢をとるようになり、遂には複数の男に輪姦される絵や、ボンテージファッションで陰部に器具を埋め込まれた絵、縄で縛られ男性の精液を浴びせられている絵になった。 この絵を見た時の僕の中にあったのは憎悪だったのだと思う。 「佐真瀬アイは、君にとって大切な女性じゃないのか?」 それが作り物だとしても、大切な物を大切なままに出来ない人間が僕は許せなかった。 「あ、あ、か、返せよぅ…」 人が変わったように弱気になり、スケッチブックを隠すように覆いかぶさる。如月君は壊れかけの電球のように怒りと萎縮の明滅を繰り返す。 「こ、これは夢なんだ。ああ、だ、だから夢はほ、本当じゃない。だ、だって僕は、“佐真瀬アイに好かれる”という夢を買ったんじゃないかぁあああああ」 声が上ずり、泣いているのかも分からない。ただ、喚いているだけだ。しゃっくりを繰り返している。嗚咽が混じっている。 「ど、どうしたの京ちゃん」 と今度は乱暴に戸を開けやって来る如月君のお母さん。 泣いている如月君とそれを威圧的に見下ろしている僕を交互に見やったあと、如月君のお母さんは 「出て行って下さい!」 と僕を目の敵のように追い立てる。 ああ、ああ、言われなくても出て行ってやるよ、と口に出しはしなかった。 「そんなんだから、如月君はいつまでも…!」 僕がそういう前に、戸は閉められた。 「畜生…」 意味も無く涙が流れた。開く事の無い戸は、まさに壁そのものだった。
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