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作者:浅上陽一郎

第10回   10
 その後、僕はステージ上に置かれた縦長の卓に座り本を読んでいた。ページをめくる毎に、部員が体育館を出て行く。最後のほうになって、小林さんが僕の脇を通った時、僕も本を素早く鞄に仕舞い込んで立ち上がった。
 小林さんは井上さんと並んでいたのでちょっとためらって、それでも一応
「途中まで、一緒に行こう?」
 小林さんは黙りきったままこくんと頷いた。
 はっきり言うとこれは僕の意思ではない。「慰めてやれ」という佐藤君の指示に従ったまでだ。
「へぇ、君がボディガードしてくれんの? いいね」
 と井上さんは笑っている。自転車通学の彼女は脇に愛用の黄色い車体を脇に引いている。
「しっかし、前々から言おうと思っていたんだけど、すんごい色してるよね」
 「変なセンスだよな」と井上さんを小林さんとからかってやろうとしたんだけれども、肝心の小林さんは何かを考えるように俯きっぱなしだ。
「あはー、実はこれね。親がね、夜道は危険だから、この色にしなさいって煩いのよ。ホントは他の色がいいんだけどね。バイトしようにも、禁止されているしさ」
「あー、そいつは気の毒」
 と僕は井上さんを笑った。
「余計なお世話だー」
 と井上さんは自転車を引いたまま、僕に飛び蹴り。
「痛ぇな、この」
 とはしゃいだ後、沈黙が再び訪れる。僕と井上さんとの間に気まずい空気が流れる。僕と井上さんとの間で歩き続ける小林さんは始終黙ったままだった。そして僕は結局、小林さんに一言も声を掛けることが出来ずに別れてしまった。
 「俺って無力だなー」なんて思いながら、駅までの五分程度の暗い夜道を歩く。湿度も温度も十分に高く、五メートルおきに見える電灯には羽虫がたかっている。
何度もため息を吐きながら僕は、壁の向こう側の彼女の事を思い出していた。
「ああ、そういえば…」
 と口に出してやっと記憶に呼び戻す。そんな自分がひどく情けなく、悲しかった。
「何もしてやれなかったんだよなー」
 自分の感情を確かめるために、僕は思った事を言葉にして口から出してみる。刻み付けるようにしっかりと。
「結局、顔も見られなかったし、そういえば名前も聞かなかったし」
 どんなに自分が惨めになっても、僕は感情を声にする。
「それに結局、彼女の言っている事が本当かどうかも分からないしさぁ」
 それはさながらお芝居のようである。セリフだけでは、お芝居の全貌を知る事は出来ない。
 彼女の言っていた事が本当の事かどうかも分からないのだ。彼女が嘘を吐いているとは思いたくもない事だった。しかし、僕はその疑問を完全に払拭する事が出来ないでいた。
「あー。なんだかなぁー、なんだかなぁー」
 馬鹿な言葉ばかりが口をつく。情けないとはこういう事なのだと思い知る。
「ええぃ、畜生」
 俺は踵を返した。元来た道を走って戻り、小林さんと別れた道を今度は真っ直ぐ行く。
「うりゃぁ!」
 小林さんの背中を意味もなくフライングキック。よろめく小林さん。
「な、な、などうしたの?」
「ん、いや、家まで送ろうと思った」
「え、でも電車の時間とかあるでしょ?」
「ん、いや無問題無問題」
「あー、じゃ甘えちゃおっかな」
「おう、そうしろそうしろ」
 僕は柄にもなくガッハッハと笑ってみた。我ながら馬鹿みたいだ。
「いやぁ、しかし、この街も暑いなぁ。俺の住んでいる街から電車で十五分ほど北に来たから少しは涼しいと思ったんだが…」
「…」
 違うって。
「テストも近いよなぁ。そういや、二年生になってからのテストは今回が初めてだっけ?」
「…」
 だから違うって。
「ああ、そういや二学期からクラス分けだよな。文系と理系の。小林さんは、どっち行くの?」
 だから違うだろ。
「演劇部のほかの連中は殆ど文型みたいだよ。さすが、演劇部って感じだよな。佐藤なんか、芸術系の大学に進学して演劇の勉強をするらしい。プロにでもなる気かなあいつ。今のうちサインとかをさ…」
 僕が言いたい事はそんな事ではない。いつもそうだ。目の前にある問題から目を逸らして、適当にやっていればそのうちなんとかなると思い込もうとしている。
 しかし、僕は壁の向こう側の彼女を慰める事が出来なかった。僕は壁を乗り越えようともせずに、ただ何かの具合でぽっかりと空いていた穴から片腕だけを伸ばして少し触れて言葉をかけただけだった。
 それだけでは不十分だったのだ。
「…。気にすんな! 青海月先生の事なんか気にすんな」
 これではまだ駄目だ。これはまだ壁の隙間から、声をかけた程度。
「うん、そうだ。俺達でさ、新しい演出を考えようぜ。青海月先生なんか目じゃないってぐらいのさ。誰もが納得するような、すごいやつをさ」
 あと一息だ。これはまだ、壁を触ってみた程度。
「そうだな、明日朝一番にさ、旧体育館に集まろうぜ。時間はそうだな…、七時半頃、うんそれぐらいだ。で、昼休みにもさ。図書館にも集まろうぜ、演劇関連の本ぐらい少しはあるからさ。そこで勉強しながらさ、すんごいやつを考えようぜ」
「でも、君は電車通学…」
 壁は壊れた。
「大丈夫大丈夫、明日は俺、自転車で行くから…」
「でも、なんか悪いよ」
「気にすんな、ってか俺がそうしたいんだ。ああ、気にすんなって言葉自体を気にすんな。俺は別に気にされたいだなんてこれっぽっちも思ってねぇ」
 なんだか自分で何を言いたいのか分からなくなってきた。でも、彼女は笑っていた。だから多分成功だ。あとは具体的に動いてみるだけだ。
 彼女と別れた後、俺はいつも使用する駅の一つ奥駅に着いた。悲しいかなローカル単線。電車は一時間に一本なのでまだ四十分以上も待たなければならない。しかし、明日の事について考えていると、この時間もそれほど苦痛ではなかった。
 僕は駅構内に据え付けてある緑色の公衆電話にテレホンカードを通す。芥川のやつだ。そう言えば俺は芥川に自転車を貸したっきり、返してもらっていなかった。小林さんと約束したのだ、今日中になんとしてでも返してもらわねばならない。
 受話器の奥で呼び出し音が鳴る。僕はその音に耳を傾けながら、そういえば最後にあいつと別れてから、音沙汰が無い。宿題の連絡をしておこうと電話を掛けた事もあったのだがその時も芥川は電話に出なかったのだ。学校にも姿を現してはいない。今になってその事が少し怖くなった。
 規則的な電子音がもどかしい。その音は規則的なものであるはずなのに、だんだん音と音の間が広がっている気がする。重たい空気、受話器に耳をあてている僕だけが他の世界と繋がっているみたいだ。
 僕は恐怖を断ち切るつもりで受話器を下ろした。受話器が下がる音が電話ボックスという世界に重々しく響き渡り、ピピーという小気味良い音ともに吐き出されたテレホンカードもまるで悪魔の宣告のようだった。
朝一番の学校は静かなものだった。
 活動場所である旧体育館に真っ直ぐに向かったのだが僕以外に人はいなかった。まるで世界に一人だけ取り残されたようである。
放送室の奥にある本棚から演出論の本や、役者へのインタビュー記事、過去の大会での審査員からのコメントを記録したファイルなどを引っ張り出す。
 そして僕はそれらを貪るように読んだ。呼吸が止まるほど夢中に読んだ。それらの本やプリントには過去の先輩達が残したらしいト書き、メモ書きがあった。赤茶けたページページにしっかりと刻み付けられた先輩達の遺志だな、などと思ったりもした。
 そんな事をしているうちに時間はあっという間に過ぎた。
がたんと放送室の扉の奥から音がした。古びた木目のステージの上を歩くみしみしっという少し危うげな足音が響く。その音はだんだんと僕のいる所に近づいてきた。人の気配だ。小林さんも来たのだろうかと思ったのだが違っていた。
 真っ直ぐで剛健さに満ちた瞳。スポーツ刈りの彼は、佐藤君だ。
「…」
「…」
 お互い虚を突かれ、妙な間が出来る。
「おはよう」
「お、おう。おはよう」
 なんとかそれだけ言うと、空気はほぐれ後はいつもの通りだった。
「お前、どうしたんだ?」
「佐藤君こそ」
「俺は、いつもこの時間に来てるんだ」
「何しに?」
「練習しに」
 知らなかった。電車を一本早くしただけで、目新しいものばかりが現れる。もう一本電車を早くしたら今度は次元を超えてしまうかもしれん。
「真面目なんだ」
「あ、いや…。当たり前の事だ」
 佐藤君は少しばかり照れ臭そうにしている。
「じゃ、俺、発声してくるから」
 鞄を長卓の上に置いて、佐藤君は放送室を出て行った。
 しばらく間を空けた後に、彼の声が聞こえた。
「あ、え、い、う、え、お、あ、お…」
 その声はドア越しからもしっかり聞こえた。きっと佐藤君は毎朝、こうして大きな声を朝一番に出していたんだ。そういえば、佐藤君は演劇を本格的に学ぶことの出来る大学を目指しているのだ。
 僕は再び机の上に置いておいた本に目をやる。その本を捲っていくうちにここは演劇部なんだということを今更ながら実感した。ひょっとしたらこの二十年余りの演劇部の歴史の中にはこうしてプロになる事を夢見ていた先輩方もいたのではないのだろうか。すると、この本に記されてあるト書きメモ書きは先輩方の夢の跡という事なのだろう。プロになった人は、残念ながらいないのだろう。そういう話を今まで聞いた事は無かった。
 本に記されてあるそうした跡を眺めているうちに、と僕は自分がひどく無力な人間なのではないのかと思ってしまう。僕達が入部した一年の春から小林さんはずっと演出の担当をしていたのだ。僕なんかが一朝一夕に力になれるものではない。
 嫌な考えが頭をよぎったので、僕は頭を振り、頬を叩き気合を入れた。戸の向こう側では練習を頑張っている佐藤君の声が聞こえる。その声を聞いて僕は、とにかく少しでも力になれるように頑張ろうと思った。自分の力不足は自業自得なのだ。
「ああ、先に来てたんだ」
 という声に驚かされる。振り向くと戸口に立つ小林さんの姿が立っていた。
「あ、おはよう」
「じゃあさ、早速打ち合わせ始めようよ」
「よっしゃ」
 俺は昨晩ずっと考えてきた演出のアイディアを、先ほどまで見ていた演出論の本から得た知識で肉付けして小林さんにそれを身振り手振りで伝えてみる。僕の頭の中では、僕達が演じている舞台の情景が克明に浮かんできていた。
「芝居の演出を考える事が、こんなにも大変な事だなんて思わなかったよ。何から何までも、自分一人で決めなきゃいけないんだものな」
 おまけに小林さんは脚本まで書くのだ。しかし、小林さんはこれにクスリと笑い返した。
「そんな事は無いんだよ。確かに私がやっている事はそういう事だけれど、でも何から何まで自分一人で決めた事だとは思わないな。なんていうのかな、皆の様子を見ているとね、自然とイメージが浮んでくるのよ。曖昧なものなんだけれどね。それを具体的な形に呼び起こすのが、私の仕事かな。全然、大した事じゃないんだよ」
 相変わらずの情報を細切りにしたような喋り方だ。もう少し、理路整然と内容をまとめてくれるといいのにといつも思う。けれど、そういうのにももう慣れてしまったような感じだ。
「具体的なイメージか…、なんだか僕にはピンとこないな」
「私はね、曖昧な物を曖昧なままにしておくのが嫌なのよ」
「小林さんは曖昧な物を曖昧なまま表に出す、って感じだけどな」
「ああ、そうかもね。私そういう所あるかも」
「僕はなぁ、曖昧なものすら感じられなくてさ。なんつーか、目に見えるものしか信じられないっつーか…」
「そういう事言うもんじゃないよ。友達という存在は信じているんでしょ?」
「そうかな、そうなのかな…」
 不安になってきた。先日から芥川はすっかり姿を見せなくなってしまった。友人という目には見えない存在が、実際に見えなくなってしまったのだ。目に見えないものは目に見えなくて当然だというのに、友人がいなくなるとその当然が覆された。これは奇妙な感覚だった。
「おいお前ら、いつまでそこでそうしているつもりだ、遅刻しちまうぞ」
 突然飛び込んできた佐藤君の声に我に返る。気がつくと始業十分前の鐘が鳴っていた。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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