夏の日の記憶である。 「へぇ、君の世界にはそんな変な人がいるんだ」 「え、お前の世界にはそういうの、無いのか?」 僕ともう一人。会話は二人以上の人間がいなければ成り立たない。その例に漏れず、僕と彼女も二人で会話を楽しんでいた。 「夢売りって言ってよ。なんつーのかな、人間の夢を叶えてくれる人間が俺の世界にはいるんだよ」 壁を挟んで背中合わせ。僕の方からも彼女の顔は見えず、彼女の方からも僕の顔は見えてはいないのだろう。 「夢って…、あの、『夢! 希望! 愛!』の夢?」 壁の向こう側の彼女の元気な調子と、突飛な例えに思わず苦笑する。 「ああ、そうだよ。その、『夢! 希望! 愛!』の夢だ」 「『将来の希望』とかの、夢?」 「そうそう」 「『はかないもの、頼りにならないもの』とかの、夢?」 「嫌な事を言うな」 陽気に笑う僕と彼女。ただ声だけが響き、夜空に映える月は銀色に輝き、星は瞬く。まるで、世界から切り離されたような空間。山の森の中。 どこまでも真っ直ぐに果てしなく横に伸びる灰色の冷たい壁。『こちらの世界』と『向こうの世界』を隔てる壁だ。 「君の世界は変わってるねぇ」 と僕に向かって壁の向こう側の声は言う。 「そうか? こっちでは、これが普通なんだがなぁ…」 「夢を叶えられる、か…。ねぇ、それじゃあさぁ、君はどんな夢を叶えてもらったの?」 「いや、その夢を叶えてくれる『夢売り』っていうのとはなかなか会えないんだ。まあ、探せば見つける事は出来るんだけどな」 「ネットで探せば見つかるかなぁ?」 「アンダーグラウンドなサイトを探せばな」 「街をふらついたら会えるかなぁ?」 「夜の街の駅前や、裏通りを探せばな」 「そんな所に夢を売る人間がいるの、まるで麻薬の密売人みたいだね」 「麻薬か、違いねぇ」 僕は母さんの事と弟の事を思い出していた。 「あれ? なんか悪い事言っちゃった?」 「どうして?」 「急に、君の声の調子が怖くなっちゃったから…」 壁の向こう側の彼女は普段陽気で明るいのだが、やたらと鋭い所がある。僕の声の微妙な調子から、心の内面を読み取る特技を持っている。僕はそのためいつも冷や冷やしているのだが、それが面白くてこうした壁を挟んだ会話を続けている。 僕は大きく息を吸う。夏の淡い空気がじっとりと僕の肺の中に流れ込んでくる。それをゆっくりと吐き出す。呼気が夏の空気に溶けていき、やがては僕自身までもが夏の空気に溶け込んでしまいそうだ。 「いや、なんでもない」 「ふーん? そう…」 しかし僕の方は壁の向こう側の彼女の心を読み取れているとはとても思えない。それはそうだろう、壁を挟んでいるのだから当たり前だ。と僕は何度も何度も自分に言い聞かせる。 「今度は、お前の世界の話を聞かせてくれよ」 「あー、でもそんなに面白い話ないかもよ? 基本的に私とあなたの世界は同じみたいだからさ。テレビもあれば、電話もある…、電話はそっちの電話とは繋がらないみたいなんだけど…。それに、ミヒャエル・エンデやゲーテやピンク・フロイドもいたみたいだしね」 「好きなのか?」 そこで挙げられたピンク・フロイドの名前が浮いた存在のような気がしたので、そう尋ねてみた。 「うん、大好き! 『狂気』の中の『スピークトゥーミー』なんか最高だよ」 「知らないなぁ」と僕は苦笑する。 「今度、CD貸して上げるよ。きっと君なら気に入ると思うよ」 「ありがとう、楽しみに待ってるよ」 「音楽も小説も映画も共通なんだよね、君の世界とはさ」 そう、歴史も文化も壁を隔てたこちらもあちらも同じなのだ。なら、何のためにこの壁は存在しているのだろう。 「まあ、いいや。そろそろ、お前の世界の面白い話を聞かせてくれよ」 壁に背を持たれかけさせて、大きく深呼吸。月はいつでもそこにあるのに、人の心は次々に移ろいゆく。 「えっと、それじゃあね…」 時代は流れ、時間は進み。 僕は彼女の抑揚の効いた語りを枕に、深い闇の中に寝そべる。 僕と『君』の世界には同じ月、同じ星が瞬く。 カーテンを開ける。カッと陽光が差し込み、僕は思わず目を細める。 中流の人々の日常がひしめき合う住宅地の朝は穏やかだ。この地区の外れには少し大きめの国道が走っているのだが、そこを通る車やバイクのエンジン音もここに届く頃にはまるで遠くの世界の音のように聞こえ、それが却って静けさを演出している。朝のゴミ出しを手伝っているらしい小さな女の子が僕の家の窓のすぐ下を通った。すぐ手前の電線にはスズメが二、三羽行き来している。 しかし、家の中の空気はいつも重たい。弟が行方不明になってからもう三年も経とうとしている。 「母さん、おはよう…」 僕が台所で調理をしていると、母さんが階段から降りてきてテレビの前に座った。ただ黙ったまま、テレビを見ている。 僕が朝食の準備を終える頃に親父が降りてくる。親父はずるい奴だ。 僕と親父と母さんが食卓に付く。テレビのうそ臭い笑い声と、皿と箸がぶつかり乾いた音がする。息苦しい食卓である。 「親父、母さんを病院に連れて行かないのか?」 「何を言っているんだ、お前は。母さんの何所が病気なんだ」 「親父、少しは休み取れないのか? 俺もそろそろ勉強が忙しくなってきた」 「馬鹿を言うな。俺は仕事が忙しいんだ」 「弟がいなくなってから、母さんも調子が悪いんだ。少しは付いていてやれよ」 僕は殴られた。親父は鬼神の如く憤怒している。 「誰の事だ。ウチの家族でいなくなった人間などいない。母さんはどこも悪くない」 「…勝手にしろよ。ったく…」 「こら、待て、どこへ行くんだ。ちゃんと食卓につけ」 僕は戸をワザと乱暴に閉め、親父の馬鹿声が聞こえないように大きな音を立てる。親父の馬鹿声が聞こえないように、乱暴に床を踏みしめ出来る限りの大きな音を立てながら階段を駆け上り、二階の自分の部屋に飛び込む。世界から自分を切り離そうと乱暴に自分の部屋の戸を閉める。ウルセェよ。俺が作った料理だ。どこで食おうが勝手だろうが。 親父は料理が作れない。なぜなら、親父は僕の母さんの夕飯の準備の支度を手伝った事が無いからだ。僕は物心が付いた時から母さんの手伝いをやっている。おかげで、門前小僧習わぬ経を読む。三食に事欠かない程度には料理が出来る。母さんが抜け殻になった後でも、お陰でこうしてきちんとした料理にありつけるというわけだ。 誰のお陰で飯が食べられるかって? 俺のお陰だろう。 親父の存在自体が、僕にとっては既に目障りだった。その言葉の内容がどうであれ、親父の声を聞く事すらも煩わしかった。親父のガラガラ声は僕を苛立たせる事しかしない。そんな声が今でも階下から聞こえてくるというのは酷く不愉快な事だった。この家にいる限りは親父の声が聞こえてくる。そんな妄想が頭をよぎった。 親父はこの朝食が俺の母さんが作ったものなのだと未だに思い込もうとしている。だから親父は朝起きるのがいつも遅い。母さんの後姿を見よう見まねで作った料理なのだから、味付けや盛り付けも似ているのだろう。畜生め…。 俺はそんな親父をからかってやろうとして、以前ワザと食事を作らなかった事がある。その時親父は母さんを殴った。俺は驚いた。 「夕飯の支度を忘れてんじゃない。早く作れ、早く作れ…」 それでもテレビを観続ける母さんを、親父は殴り続けた。 寒気がした。僕は怖くなって、部屋から一歩も外に出る事は出来なかった。夜、俺は親父を殺す夢を見た。翌朝、俺は夢精をしていた。 その日以来、俺が夕飯を作る事を怠った事はない。 畜生め。
朝の通学路、珍しい友人とすれ違った。小林久美。同じ演劇部に所属する同学年の女子生徒だ。髪は短く、活動的な性格の持ち主である。 電車通学の生徒が使用する通学路とS市内在住の生徒が主に使用する通学路がぶつかる合流点で彼女と出会った。 「今日、面白い事があるよ」 と小林さんが口火を切り 「何?」 と僕は返事をする。 「夢売りの夢の中の人形がやってくるよ」 「どういうこと?」 「誰かが夢を買ったんだけど、その買った夢の内容というのがね。『自分の理想の異性と仲良くなる』っていうものなんだ。でもね、その理想の異性っていうのが笑えてね。つまり、いないから作っちゃえっていう…」 会話の内容が少しばかり支離滅裂である。小林さんはいつも情報を細切れにしたような喋り方をするために、全体の内容を把握するのが受け手にとってはとても難儀である。 「夢を買った人の理想の異性がこの学校に転校してくるのよ。つまり、夢を買った人の夢が今から始まるってわけ」 と小林さんは無理矢理情報を纏め 「幻から作られた人形のような女の子がウチの学校に転校してくるんだよ」 とセリフをしめた。 僕は特に感慨もなく頷いた。夢を買った人の夢が始まったところで、僕の日常にはなんの変化も無いだろうと思ったからだ。 「で、今日の一時間目の古文の予習やってきた?」 不意に後ろからの目が覚めるような明るい調子の声。やたらと目立つ黄色い自転車に乗った女子生徒が僕と小林さんの脇に滑り込んだ。 その女子生徒は井上千尋さんだった。縁石を挟んで三人が並ぶ形となる。市内のほうへ行く自動車が、自転車を引く井上さんの脇をすり抜けるのだがそれがとても危なっかしく僕の目には映った。 井上千尋さんも僕や小林さんと同じ演劇部員である。ちなみに井上さんは僕と教室を同じくする。 「で、今日の一時間目の古文の予習はやってきたの?」 念を押すような感じで井上さんは続けた。 「うん」 と僕は答えた。 「よかったー、教室に着いたらノート見せてよ」 井上さんはなかなか自分で予習や宿題をやってこない人である。そこで、僕は毎回のように井上さんにノートを貸すのだ。 「いいよ」 「四時間目の数学の予習はやってきた?」 「いや、まだ」 三時間目と四時間目の間には昼休みが入る。その間にやってしまおうと僕は考えていた。 「じゃあさ、そのお返しに私がその数学の予習を見せてあげる」 「いや、いいよ。自分でやれるし」 井上さんは溜息を吐いてしまった。自分の体の中の空気を全部出してしまおうとしているような大きな溜息だった。 「世の中、ギブアンドテイクだよ。私もあんたの助けになりたいじゃない」 「でも、本当にいいよ。一人で出来るし。また別の機会に助けてもらうよ」 「でもさぁ、あんたいつもそんな事ばかり言っているけどさ、今まで人から助けてももらおうとした事なんか無いじゃん」 「いや、だって一人で大丈夫だモンよ」 「国語の漢字テストとかさ、他のクラスで既にやった問題だからそれをそのクラスの人から皆で教えてもらっていた時も、あんた一人はクソ真面目に律儀に教室の隅で勉強しててさ」 「いや、そんぐらいどうって事無いだろ。それに、きちんと勉強しておかないと大事な時に困るのは自分の方なんだぜ」 「そりゃそうなんだけどさぁ。もう少しあんたは融通を利かせられないわけ?」 「利かねぇ。そもそも俺は勉強好きだし」 「うわっ、うわっ、うわー! それ本気? それ少し気持ちが悪いよ? なに、それは自分が真面目に見られたいとか思ってそんな事口走るわけ? 勘弁してよー」 僕達三人は笑った。しかし、僕の笑いはお道化である。 「とにかくさ、もう少し人と交流持とうよ」 井上さんは念を押すように僕に言った。
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