2.審判
気が付くと、わたしは真っ暗な空間に閉じ込められていた。 宙に首をつった犬の顔をした人間がいた。悲鳴を上げて、逃げようとしたら、すぐに壁にぶち当たった。 犬の顔をした人間がわたしに言った。 「では尋問を始める」 「は?」 尋問なんてまるでわたしが悪人か何かのようだ。 よくみると犬の顔が、ピクピクと頬の辺りの筋肉を引きつらせて、だらだらと唾液をたれて、目があらぬ方向を向いていた。首を吊っているからなのだろう。見てはいけないと思うのに、目をそらせなかった。 「ちょっと待ってよ。どうゆうことよ?」 ここはいったい何処なのよ?、というわたしの言葉を無視して、犬の顔は勝手に尋問を始めた。 「汝は嘘をついたことはあるか?」 「あるわよ」 嘘をついたことのない人間なんて、そうそういるわけがない。もし、わたしが嘘をついたことがないと答えたらどうなっていたのだろうか。 犬の顔は変わらない苦悶の顔で、すこし間をおいて、次の質問をした。 「では、汝は盗みをしたことはあるか」 「そんなの」 あるわけないじゃない、と言いそうになって、ふと思いとどまった。 たしかにお店のものを盗んだことはなかったけど、あるにはあるのだ。 わたしはその昔、母の財布から千円札を抜き取ったことがある。 小学五年生の頃だったと思う。あのとき、どうしても欲しい本があった。 だけど、わたしはお小遣いをもらっていなかったし、お年玉も預金されていて、わたしがどうこうできなかった。 「あります」 「汝は」 犬の顔が口を動かさずに言った。 「少し賢いのかもしれぬ」 賢い、なんてはじめて言われた。 馬鹿、とかアホとかだったら、よく言われていたけれど。 それにしても、こんな犬の顔に言われたってねぇ。 わたしは喜んでいいんだか、よくわからなかった。 「盗みの質問に関して、たいていの人間はないと答える。しかし、実際はほとんどの人間が盗みを経験しているが……しかし、珍しいことでもない」 「……そうですか」 なんだかいつの間にか、です・ます口調になっていた。 「では、汝は殺したことはあるか?」 「それは、人間を?」 「生き物と呼べるものを」 「殺生をするなと教えられはしなかったから、蟻とかゴキブリとか蜘蛛は殺した覚えがあるわよ。ダニなんて、どれほどいっぱい殺したかわからないわ。でも、不可抗力でしょ?金魚だったら、縁日でたくさんもらったのは良いけれど、水槽が小さくて酸欠にさせて死なせてしまったことはあるわ」 とりあえず、覚えている限りの「殺し」の記憶を口にした。 それにしても、何故、わたしは犬の顔に問われることを、こんなふうにスラスラと答えたのだろう。 まるであやしげな力に操られているようだ。 それにしても、何故、犬の顔は首を吊っているのだろう。ぎりぎりと、首に食い込んでいるのは、なんだろう。 ビニールのような、ピンクの縄。 もしかして、縄跳びだろうか。 「いや、お前はそれ以外にも、印象的な殺しをしているはずだ」 「わたし、人を殺したことはないわよ。人の死に立ち会ったこともないし」 「いや、人ではない。人ではないが、お前は殺している」 「食卓に出てきた魚とか鳥とか……」 そんなものまで追求されたらキリがない。 食べるための「殺し」は、「殺し」ではないんじゃないか。と、ふと頭の中に浮かんだ。 だけど、飢餓でもなく、殺して人肉食ったやつはどうなるんだろう? それとも食べるためでも殺しは殺しなのか。 そもそも人の肉は美味いのだろうか?肉と骨に魂が入ってなければ、いかに霊長類の自称トップ、人間といえどもただの肉の塊に過ぎないのか。 でも、わざわざ他の栄養源があるのに、共食いする必要はないだろう。 共食いは最後の最後の手段だというけれど。 「汝は何を考えている」 「人類の共食いについて」 犬の顔は、どうやらわたしの心が読めるわけではないらしい。 化け物のくせに、意外だと思った。 「そうではない。何故、おまえは覚えていないのだ」 「覚えがないからよ。あんたが期待している、「殺し」の記憶には」 「いや、そんなことはないはずだ。お前には臭いがする」 「失礼ね。頭は三日に一度は洗っているわよ」 「けして消せぬほどに染み付いている。逃れようがない」 「いっとくけど、身体は二日に一度は洗っているからね」 「お前は、何故そうもとぼける?わたしがお前の前にいるというのに」 「とぼけちゃないわよ」 犬の顔が、歯を剥き出しにした。 「それより、早く終わらせて」 「お前が素直になれば終わる」 「なによ、このスットコドッコイ。わたしはあんたみたく犬の顔した人間なんか、まったく知らないわよ」 「貴様」 犬の目があらぬ方向を向いたまま、ギラギラと光った。 「なによっ!!」 対抗しようと睨むと、犬の首がぬぅと伸びてきた。しかも、それは大きくなって、わたしを食おうとでもいうように、口を開いた。 「あのー」 聞き覚えのない第三者の声に、犬の顔もわたしも、声のしたほうを見た。 「この人はわたしの担当ですよ」 そこにいたのは狐のお面を被った、わたしの膝ぐらいまでしかない子供だった。 犬の顔はしばらく子供と見つめあうと、首を伸ばしたまま、しゅるしゅると顔を元の大きさに戻した。 「いや、そんなはずは。しかし、たしかに臭いが」 「興奮しすぎです。もう一度、嗅いでみたらいかがです?」 犬の顔はわたしに鼻を近づけた。 首を絞められた犬の顔なんか、近くでみたくないというのに。 「確かに違う。しかし、確かにあの臭いがする」 「巻き添えを食ったのでしょう」 「うむ。うむ」 犬の顔はわかっているのか、わかっていないのか頷いた。 「しかし」 「では、名前を聞いて御覧なさい」 「忌野よ。忌野理世」 手間を省くために、わたしは自分から名乗った。 犬の顔は、また「うむ。うむ」と言った。 そして、もとのように、大人しく上のほうで首を吊った格好になった。 「では、彼女はわたしが連れて行きます」 こどもはわたしの手を引いた。 子供の腕が、にょきっと伸びたけど、いまさら驚くことでもなかった。 わたしは子供に手を引かれて、犬の顔から離れた。 ところで、あんたは誰なの?わたしは戻れるの? と、子供に聞いてみたら、振り返った子供の狐のお面が、にやりと笑ったような気がした。
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