■ トップページ  ■ 目次  ■ 一覧 

Pure−jam 作者:砂さらら

最終回   終章

彼女と初めて出会ってから、6度目の夏が来て僕は38歳になった。
6年の時間が、僕に与えたものは数度の転職。孤独と倦怠感。そして6歳の年齢増加くらいのものだ。
酒場通いも回数が増えたし、煙草の本数も増えた。
精神科にも通い続けていて、最近では睡眠導入剤と睡眠剤。抗鬱剤と潰瘍治療剤。
一日に飲む薬の量は20錠を越えている。
それでも倒れもせず意外と元気だから、我ながら大した物だと思っている
BARロング・グッドバイに通い始めたのは、今年の6月からだが ほとんど毎日顔を出している。おかげでネコやマスターとも結構な顔なじみだ。
杏だけがこの8月に入ってきたので、会うのは数度目だった。
先日デートらしき事をしているので、照れもあってこの2週間程、顔を出していない。
9月になって久しぶりに店のドアをくぐると「いらっしゃいませー」と杏の声がした。
「この間は楽しかったよ」お絞りを受け取りながら言う。
「こ・ち・ら・こ・そ」と杏。
マスターは訳知り顔で、黙ってグラスを磨いている。
「今度は僕が誘う約束だから、渋谷でもふらつかないかい?」
「渋谷ですかいいですよぅ。おしゃれな店もいっぱい有るし。結構好きな街だから。OKです」
「 Planet3rd って店しってる?」
「うーん、知らないなぁ」
「東横線の渋谷駅から代官山駅を結ぶ高架下にあるカフェでね。コンクリートの内装にデザイナーズチェアが並ぶ結構良い店なんだ。じゃぁ今度そこへ連れて行くよ」
「ついでにまた、映画でも観て帰りに一杯やろう」
「期待してます」杏が嬉しそうに笑う。本当に笑顔の似合う娘だ。
「じゃあ、また空いてるときに連絡くれる?合わせられる限り努力するよ」
そう言って今日はサイドカーを頼む。
ブランデー 30 ml コアントロー 15 ml レモンジュース 15 ml をシェイクして作るカクテルの基本みたいな酒だ。1931年のある晩、ハリーズ・バーのオーナー、ハリー・マッケルホーンが新しいカクテルを考案していた。
そのとき、ハリーのバーの店先にサイドカーが衝突しました。
と同時に、その新しいカクテルの名前がひらめいたと言われている。そんなカクテルだ。
「カミュで頼むよ。今日は少し贅沢をしたいんでね」
杏は以外に手際良くシェイカーを振った。
「上達したね」
「少しは練習しましたからね」
「美味い。もう一流のバーテンダーだね、マスターも少しは楽になるね」
「だといいがね」相変わらず無愛想に答える。
丁度クレオパトラの夢、が流れ始める。僕は曲に合わせてハミングをする。
2杯目はいつも通りのラスティーネイルを飲みながら、僕は窓側に席を移して夜景を見ていた。
すると杏が足音も立てずに寄ってきて、耳打ちをするように声をかけてきた。
「この間、高校の時の同窓会が有ったんです」
「うん」
「そこであの子に会ったんです」
僕はスツールから腰を浮かせていた。
「本当に?」
「ええ」
「彼女の様子は? 元気そうだった?」
「彼女すっかり変わってて痩せたって言うか、やつれた感じで眼鏡もコンタクトに変えてて、イメージが全然違ってました。何か疲れた感じでした」
「ああ、そうなのか。以前、彼女入院しててね。まだ良くなってないんだろうか」
「さあ、で、あたしヨージさんの事話たんです。バイト先のお客さんで偶然出会ったんだって。そしたら凄く懐かしがって、元気で居るか気にしてました」
「僕のことを?そう、もうすっかり忘れていると思っていたんだけどな」
「で、あたしも前は仲の良いほうだったんで連絡先を聞いてきたんです」
「彼女結婚は?」
「まだして無かったですよ」
「ねえ、良かったらその連絡先を教えてくれないかな?」
「それが、あの人にはまだ言わないでって口止めされてるんです」
「じゃあ、伝言を頼めないかな?」
「いいですよ。多分そう言うと思って知らせたんですもの」
「ありがとう。君は本当に良い友達だよ」
「何て伝えますか」
「手紙を送ってくれればいいよ」
「分りました」
それだけ聞き終えると
「すぐに戻る」と言って、僕は勢いよく店を飛び出して部屋へ戻った。
する事は決まっている。そう彼女に手紙を書くのだ。
僕は急いで便箋を取り出すと、堰を切ったように書き始めた。

前略、とても久しぶりですね。杏から君の話を聞いて、いても立っても居られなくてペンを取りました。君が病院を出てから4年。僕はずっと君の事を考えていました。
あのはじめて病院で会ったとき、はっきりと「さよなら」と言われて僕立ちの恋が終わった事は僕も認識していました。でも、その後の手紙にも書いたけれど、僕は君の幸せを祈っています。君を一人ぼっちにさせたくなかった。その気持ちは今も変わっていません。どうか友達としてでもいい、もう一度僕を認めてくれないだろうか。。
杏と出会ったのは偶然だけれど、君と僕には、それ以上の何かで繋がれている気がしてなりません。連絡を下さい。
僕はどうしても、もう一度君に会いたい。僕の最後の願いです。

それだけ書き上げると封筒にいれて僕はまた店に戻った。
「随分と早かったですね」と杏。
「これを彼女に送ってくれ。頼む」
「分りました。明日にでも送りますね」杏は素直にそれを受け取りバッグにしまった。


彼女からの返事が来たのは10月下旬の、銀杏の葉が舞い始めた頃だった。

拝啓 お便りを有り難う。多分貴方なら必ず連絡を取ろうとすると思っていました。だから貴方に連絡先を教えないように、口止めしておいたのだけど。
杏にあなたの話を聞いたときは、正直驚きました。まさか貴方と杏が知り合いだなんて思いもよらなかったからです。元気だと聞いて安心しました。
ずいぶんと、本当にずいぶんと悩んだのですが、私も貴方にお礼を言わなくてはいけない事がたくさん有るし、もうあれから4年も経っているので、貴方に会っても冷静でいられると思います。
だから貴方に会う事にしました。
11月の3日に貴方の街のボガで会いましょう。
時間は午後2時でどうでしょう。それではその時に。
お体に気をつけて風邪などひかれませんように。   敬具

丁寧な手紙だった。文面から彼女がもう少女ではない事が伺える。6年の歳月は少女を大人の女性に変えるには十分な時間だった。
僕は嬉しさに小躍りしそうな勢いだった。反面、彼女の冷静さが少し恐くもあった。とにかく、僕はようやく彼女と正面から会えるようになったのだ。僕は少しだけ、神様に感謝してもいいような気分になった。
 

季節はどんどん深まっていった。夏の間あれだけ僕らを悩ませた太陽は、頭の真上を通らなくなり 街の街路樹や公園の木々は、自分の存在を誇張するように色付いていった。
そして道の上には、紅や黄色の模様が敷き詰められるようになった。
そのようにして11月は静かな足音と共にやって来た。
カフェ・ド・ボガは僕の部屋とは反対側に駅を出た、ロータリーを過ぎて2本目の路地を曲がった角にある。この街に残っている唯一の純粋な喫茶店だ。僕は2時15分前に店に入った。もう15年以上は使われているテーブルと椅子。それに木製のベンチはある種の高貴ささえ備えていた。これも同じくらい古い書棚にコミック本や文庫本が並べてある。僕はメニューを見ずに、モカとコロンビアで、7対3のブレンドコーヒーを頼んだ。喫茶店で飲むコーヒーはこれと決めている。モカでは酸味が強過ぎるし、コロンビアだけではちょっと香りが寂しい。
彼女は2時きっかりに店のドアを開けると、真っ直ぐ僕の席にやって来た。色白の肌に良く似合う赤のワンピースに赤のヒール。薄いピンクの口紅は上品な真珠を思わせた。口紅と同じ色のマニキュアを塗った細い指が椅子の背を引いて、僕の前に華奢な腰を下ろした。

まぎれもなく、僕の彼女は今この瞬間 僕の前に存在していた。僕の涙腺の水門は、もうひとひねりで開いてしまう寸前だった。
「久しぶりだね」能の無い科白だ。
彼女は答えずに真っ直ぐに僕の目を見据えた。それはある種の決意を込めた視線だった。
ウエイトレスが水を運んできたので、彼女は短く
「ブレンド」と継げた。
「手紙にも書いたけど、私 本当に悩んだのよ」テーブルの上で指を組み、彼女は溜め息をつくみたいに言った。
「よく分るよ。済まないと思ってる」
「でも決めたの。貴方に対して責任をとろうって」
「君が僕に対して取る責任なんて無いんだよ。むしろ僕のほうこそ君に謝らなきゃならないのに...」彼女は僕の言葉さえぎって続けた。
「私が病院にいる間に毎月手紙をくれたでしょう。おかげで、すいぶん救われたの。私は一人じゃないって教えてくれたわ。そして私を愛していると言ってくれた。でもそれが重荷だったの。私なんかを愛するべきじゃないって、そう思えて仕方なかった。何度もその事で返事を書こうと思ったの。でも書ける精神状態じゃ無かったのよ」
僕は彼女の話しを邪魔しないように、黙って頷いた。
「私が入院したのは心臓が止まったからだけど、その後も色々あったの。家の事や父の借金の事や自分の将来の事。そう言ったもの全てが私を押し潰そうとしたの。生きているのが辛い1年半だった。何度も死のうとしたの。とても苦しかったのよ。その後の4年間も」
彼女は運ばれてきたコーヒーを口に運んだ。
「今は色々と手配して、それなりに進展もしてきたわ。母も無事に日本に居るし、父の借金の事も弁護士に頼んで何とか切り抜けられそうなの」
「だから貴方に会う決心がついたの。あっても冷静に貴方と向き合えると思ったから」
「ねえ、君一人に色々と負担を掛けた事を、僕はずっと君に謝りたかった。そして君に幸せに成って欲しかった。僕はこの6年間それだけを願ってきたんだよ」
「あの君が初めて泣いた電話の時、僕が駈け付けてさえ居れば事態はここまで悪化しなかったと思う。僕達は負担を分け合うべきだった。もしあの時すぐに、君と僕が結婚していたら、君は倒れる事も無く事態はもっとスムーズに運んだはずなんだ。だから責任は僕にあるんだよ。でも今更責任をどうこう言っても仕方が無い。ただ一つの真実を、君に打ち明けたいんだけどいいかな?」
「どんなことかしら?」
「僕は今でも、君を愛しているって事だよ」
「それなら私も言うわ。貴方への気持ちは変わらないわ」
僕達はそれから、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
「ねえ、良かったら僕の部屋に来ないか? 何一つ変わっちゃいないけどね」
「それこそ、コーヒーカップの置き場所さえね」
「ええ、いいわ」そう言うと、彼女は僕の目を見据えて
「そのつもりで来たのよ」と言った。
そして僕らは歩いた。6年間何一つ変わらなかった部屋へ。
キッチンとユニットバス。それと四畳半一間の、ベッドと本棚しかない部屋だ。
そこで僕らはキスをした。ゆっくりと時間をかけて。
蜂蜜と苺のように甘酸っぱい濃密なキスをした。

そしてその夜、僕は彼女と寝た。

そうする事が正しかったのかどうか僕には判らない。
でもそのときはそうする以外にどうしようもなかったのだ。
彼女はその決意を持ってここへ来たのだし、僕達はお互いが今現在も、愛し合っていることを確かめ合ってしまった。
僕は部屋の明かりを暗くして、ゆっくりと優しく彼女の服を脱がせ、自分の服も脱いだ。彼女は小さなパンティをはいていて、それは淡いブルーのレースで出来ていた。そしてそれとお揃いのブラをつけていた。
いつからか外では秋の、冷たい細やかな雨が降っていた。
それでも僕達は寒さを感じなかった。
熱いくらいに、手のひらに感じる自分のものでない肌の違和感。なじむ頃にはもっと熱くなっている。
蒸れるように匂い立つ身体の芳香。
僕は彼女にくちづけし、乳房をやわらかく手のひらに包んだ。
雨音だけが響いていた。
僕と彼女は薄明かりの中で、無言のままお互いの身体をさぐりあった。
声がかすれたり、心臓が大きな音をたてるのは気づかないふりをして。
静かに体を重ねた。
裸の体をしっかりと抱き合った。まるで2度と離れないよう、祈るように。
彼女のヴァギナは暖かく湿って僕を求めていた。
それでも僕が中に入るとひどく痛がった。
初めてなのか訊くと、彼女は肯いた。彼女には6年ものあいだ、恋愛をする時間など存在しなかったのだ。
僕はそっと少しずつペニスを一番奥まで入れて、そのまま動かさずにじっとして彼女を長いあいだ抱きしめていた。彼女の呼吸が深くなり安定を見せると、ゆっくりと動かした。
そして長い時間をかけて射精した。最後には彼女は僕をきつく抱きしめて声をあげた。
僕にはそれがなんとなく、哀しげに聞こえたのだった。
僕はあの日に帰りたかった。あの日、こんなふうに体を重ねたかった。
そして彼女の傍にいたかった。けれどそれを僕は出来なかった。
今、彼女はここにいる。その存在はとても大きく大切なものだった。
まだ上気した顔は紅く、両手を握り合って僕の目を見つめている。
僕は幸せだった。彼女もそのはずだった。そうでなければ意味がないのだから。
これで僕らは全くではないにせよ、あの頃のように戻れるだろうか? 幾らかでも寄り添うように生きていけるだろうか? そうありたい。
出来る事なら明日も、明後日もこうして一緒に居たい。
けれど恐らく、彼女はそれを望まないだろう。
彼女は彼女自身ぎりぎりの所で、2人の愛を清算しようとしているのだ。
その事が僕には感じて取れた。彼女の今日の言葉の数々と振る舞いが、それを物語っていた。
雨はまだ降り続いている。夜はしんしんと、音もなく深さを増していた。
この夜が...ずっと続けばいいのにと思っていたけれど。
それでも朝が来る事は知っていた。

斜めに差し込む陽光と、鳥のさえずりに目を覚ました。抱いていた腕をそっと外し、彼女を起こさないようにそっとベッドを抜け出る。腕枕をしていた右腕がしびれて動かない。
僕は左手で煙草に火をつけると、深く吸い込んだ。そして音のしないように窓を開け、煙を吐き出す。
キッチンに行きコーヒーを淹れる支度をしながら、降り返って彼女を見る。
確かに彼女はここにいるのだと思う。
昨夜の幸せが、嘘ではない事を実感する
。彼女はまだ目を覚まさないのか動かない。
僕はコンロの湯が沸くまでの間に、シャワーを浴び着替えを済ませた。
ドリップ式のコーヒーポットにお湯を注ぐと、部屋いっぱいに香りが立ち込める。
もう彼女も目覚めた頃だろう。
目をやると先ほどの姿勢のまま、まだ眠っていた。
僕はコーヒーをカップに注ぐと、ベッド脇のテーブルに運びそこへ置く。
毛布から露わになった彼女の肩にそっと手を置く。毛布から出ていたせいか肩が冷えている。
僕は優しく揺すって、彼女の目覚めを促す。まだ彼女の姿勢は変わらない。
もう少し強く揺すってやると、まるで人形のように ぐらりと寝返りをうって上を向いた。目は閉じられたままだ。
肩が冷たい。僕はある奇妙さに取りつかれていた。
冷えていると言うよりも、冷たいのだ。
彼女の頬に触れてみる。そして腕、胸。
僕の意識は突然、蹴飛ばされたかのように『完全』に覚醒した。

――彼女には体温が無くなっていた。

「愛!」
僕は彼女の名前を叫んだ。
「返事をしろ! 愛!?」


「......」






そして彼女が死んだ。





急死としての検査を受けたため、彼女の遺体が実家に帰ったのは 次日の午後遅くなってからだった。発作による急性心不全。


それからの事象はよく覚えていない。
葬儀場を人々が慌ただしく往き来していた。意味を形成できない言葉の断片が、宙を行き交い四散していく。
香の匂いと読経の中を粛々と進む葬列があり、それが目指す先には白い祭壇。
泣き崩れる母親と、それを支える親族。全てが白と黒の、モノクロームの世界。
そして僕の心は白くなった。

人間は簡単に、そしてあっけなく死ぬ。
あの夜彼女は僕の手の中で確かに生きていた。眠りにつくまでは。
そして2度と目覚めなかった。
僕が彼女を殺したのだ。彼女に決断を迫ったのは僕だ。
だから彼女は来た。命を懸けた決意で。
もう僕に出来る事は何一つとして無くなってしまった。
「僕が、僕が愛を殺したんだ...」僕はつぶやいた。
来た事の1度も無い山裾の、駅の誰も居ないプラットホームで。

そこには白い、とてつもなく白い冬が来ていた。

← 前の回  ■ 目次

Novel Editor