人は時として偶然としか思えないような 真理との出会いを経験する。
しかし、ほとんどの人がそのことに気づかず、 何事もなかったかのように、 また慌ただしい生活を続ける。
(心に残るチャーチル物語、ケイ・ヘイル編)
僕は彼女に幸せになって欲しかった。彼女と出会ったのは偶然だった。しかし彼女を愛したのも、偶然だったのだろうか。 僕は彼女を「愛さなければならなかった」だろうか? 答えはNOだ。愛したかったから愛したのだ。それを偶然と呼ぶのか? しかし必然ではない。問題は意思だ。 僕は自分の意思で彼女を愛した。正確には愛していた事に気づいた。 これは偶然ではない。
――僕は彼女によって人を愛する事を発見したのだ。
確かに僕たちの恋は終わってしまった。でも僕はまだ責任を果たしていない。 彼女への愛に対してだ。僕はこのまま諦めるわけにはいかないのだった。
僕はもう一度消印を見た。越谷局。確かに彼女の実家の有るところだけれど、何故だ? 実家に戻る事は考えにくい。実家に居られないから家を出たのだから。何か理由が必要だ。なぜ越谷から手紙を出したのか? 僕は考えながら手紙を眺めていた。とても長い間。釣り人が丘から鯛を釣り上げるのと同じ位長い間眺めていた。
心配してくれてありがとう。 精神以外は元気です。もう私のことは気にしないで下さい。 私はあなたには必要の無い人間です。 私はあなたにもう会う事は出来ません。
会う事は出来ない。必要無い人間。精神。
何かが心に引っかかっていた。何かが。 と、突然に携帯のアラームが鳴り出した。今日は医者に薬を取りに行く日だった。出かける時間が来たのだった。僕は精神科へ向かうために部屋を出た。 斎藤クリニック。日曜も診察しているので、僕のような仕事持ちには有り難い。 待合室は6畳ほどの広さで、窓にはカーテンがかけられて外から見えないようになっている。本棚には殆ど古本だが、コミックや小説に限らず、心理学や病理学の本がたくさん置いてある。ひときわ分厚い本があった。「順天堂大学病院50年史」 僕はなんとなくそれを手にとって見た。頁をパラパラめくる。と目に止まる文字が有った。順天堂越谷病院。 「あっ!」 思わず声が漏れてしまったが、気に止める人は居ない。そういう場所なのだ。 心に引っかかっていたものが解けた。
――彼女はここに居るのではないだろうか。
何かが彼女の身に起こったとしたら。 「精神以外は元気です。」あの文面が気がかりなのだ。 恐らく間違い無い。彼女はそこに居る。 嬉しくはない事だが、僕はほとんど確信していた。
次の週の日曜日。僕はその病院に行って見た。彼女の名を告げると該当者が有った。 ビンゴ。やはり彼女はここに居たのだ。
病室の番号は2046号。個室だった。僕は勇気を振り絞って部屋を訪れた。 彼女は驚愕してまるで人形のように硬直していた。 「どうして判ったの?」 「偶然さ。」僕は答えた。 「たまたま僕の行ってるクリニックの本に、ここの事が載っていた。消印があったから、もしかしたらと思っただけだよ。」 「まさか来るとは思いもしなかったわ。」 「迷惑だったかな?」 「いえ、嬉しいわ。」 「手紙にも書いたけど、どうしても会って謝りたかったんだ。」 「謝る必要なんか無いって書いたでしょう?」 「それは分かってる。ただ僕は君を愛していた事に、今更ながら気づいたんだ。愛して欲しいわけじゃないけど、君には幸せに成ってもらいたかったから それを伝えたかったんだ。どうしてもね。」 「有り難う。でも私の幸せなんて、あなたには関係のない事なのよ。もう私たちは縁が切れてるんですもの。」 「それはそれで構わないよ。ただ、僕は君に幸せに成ってもらいたいって事さ。君はこんな所に居るべきじゃない。」 「それもあなたには関係無いわね。」 「ねえ、もしあの時に僕が君のそばに居られたら、君の力に成れなかったかな?」 「もしもは、もしもよ。現実とは違うわ。」 「そうだな。でも考えずにはいられないんだ。君をこんな所に押し込んでしまったのは僕じゃないかってね。」 「もういいのよ、あなたを責める気なんて一つも無いし、私には私の結論があるの。それがどういうものであるにしても、これが現実だわ。」 僕は次の言葉を見つけられなかった。 「また来てもいいかな?」 「出来れば来て欲しくないわ。」 「どうしても?」 「そうね、あまり人に見られたい姿じゃないでしょう?」 僕は何も言えなくなってしまった。 「手紙くらいは許してくれないか?」 「返事を書くとは限らないわよ?」 「いいよ。書くことだけでも許してくれれば。」 「ならいいわ。それだけは譲歩するから、もう来ないで!」 「わかったよ。もう来ない。」そう言うしかない迫力が彼女には有った。燃え尽きる寸前の蝋燭の炎みたいな迫力だった。 「今日は突然済まなかった。ごめん。帰るよ。」 「さよなら。」彼女はそう言って窓のそとに目をやったきり2度と僕を見なかった。
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