医者が女性を治療していた。 その場に麻酔などは無く、患部の近くを縛って血液を止め、感覚を麻痺させる方法で治療は行われていた。 「何故……私を助けるんだ?」 女性は訊く。しかし、医者は先ほどと同じように答えるだけだった。 「患部が壊死する前に処置を終わらせなければならない。黙っていてもらおう」 医者は手を休める事無く処置を続けた。そして太ももの処置が終わり、次に腹部の処置に移った。 「私はお前を殺すためにここにいるんだ。そんな人間に、何故治療が出来る……?」 「…………」 医者は黙ったまま、何も言わなかった。どうやら治療が終わるまで口を利いてくれないらしい。 女性は諦めて、激痛に耐える事に専念した。
「終わった」 医者がそう言ったのは、治療が始まってから二時間後のことだった。 「ただし、傷口が完全にふさがるまで動くことは許さない」 淡々と彼は言った。そこには有無を言わさぬ医者独特の威圧感があった。女性は何も言えず、黙っていた。 それからいくらか傷についての説明を受けて、リハビリの方法なども説明された。そんなことは暗殺の訓練の時に嫌と言うほど教えられたことだったが、しかし彼女は熱心に説明を受けていた。彼女は気づかぬうちに、それを心地よいと感じていた。 大体の説明が終わったとき、医者はとんでもないことを言い始めた。 「……というわけで、君の傷が完全に治るまで私はここにいよう」 そう言うと、彼はすぐそばの床に寝転んだ。 女性は困惑していた。彼は彼女が動けるようになるまでここにいてくれるらしい。つまりそれは、ここで彼女に殺されるのを待っているということだ。 複雑な表情を浮かべる女性の顔を見て、医者は微笑んだ。 「不安に思わないことだ。精神は体に大きく影響する。君が不安を感じると、それだけ治りも遅くなる。早く治すには眠ることだ。私も寝る」 彼はそう言うと、こちらに背を向けて眠ってしまった。 (私は暗殺者だ。そんな人間に、彼は何故背中を向けて眠ることが出来るのだろうか。そもそも、自分を殺そうとしている人間を治療することもおかしい。それに、何故私は彼の話をあんなに熱心に聴いていたんだ……?) その夜、女性の頭から疑問が離れることは無かった。
朝日が顔に当たって、二人は目を覚ました。 「おはよう」 「ええ」 女性は思わず返事をしている自分に驚いた。そんな彼女をよそに、医者は大げさに朝日を浴びて喜んでいた。 「今日という日が迎えられたことに感謝するよ。もちろん君にもね」 女性には彼の言っている意味が理解できなかった。 医者は少し考えてから言った。 「君が私を殺さずにいてくれたから、私は今日を迎えられた。君はやろうと思えば、いつでも私を殺せたはずだ。そのチャンスは常にあった。しかし、君はそうしないで私を生かしてくれた。つまりそれは、私が君の意思で生かされているということだろう?」 女性はそんなことなどすっかり忘れていた。彼の行動に対する疑問に支配されて、殺すことなど頭に無かったのだ。しかし暗殺者として、そんなことを相手に悟られるわけにはいかなかった。脅しの意味も込めて、彼女は嘘の説明を始めた。 「ああ。そうだ」 冷たく言い放ち、その先を続ける。 「お前は医者としての使命感から私を助けようとしているみたいだが、私にとっては都合がいいだけだ。現に、私は昨日から一睡もせずにお前が逃げ出すのを待っていた。でも、お前は逃げなかった。だから生きているだけだ。逃げ出したらそのとき、私はお前にこのナイフを投げていた」 彼女は枕元に置いてあるナイフを持って、高く掲げた。 「足や体を動かす事無く、手首と腕の力で投げることが出来る。もちろん、外すことは皆無だ」 唐突に、彼女はナイフを医者に向かって投げた。目にも留まらぬスピードで医者の顔から数センチしか離れていないところを通り過ぎ、奥の壁に突き刺さった。一瞬遅れて音がした。 「お前が逃げた場合、こうなる」 凄みを帯びた声色で彼女は言った。 医者は驚いた顔をしていた。無理もない。普通の人間なら恐怖で震え上がり、腰を抜かして命乞いを始めるところだ。この人物は少々普通の人間とは違った感性の持ち主であるからそうはならないと予想していたが、さすがに驚きは隠せなかったようだ。 医者の驚く表情を見て、女性は満足げに微笑んだ。しかし次の瞬間、彼女のほうが驚くことになった。 「……?」 医者が微笑んでいたのである。しかもそれはこれ以上ないほどに優しく尊い微笑だった。人はここまで心から微笑むことが出来るのかと感心してしまうほどに、彼は自然に微笑んでいた。 「な、何がおかしい!」 彼女は耐え切れずに動揺を表に出してしまった。そしてそのことにすら気がつかないまま、再び怒鳴った。 「大体、何故私を助けた? 自分を殺そうとしている人間を何故助けるんだ? 私が死ねばお前は助かるというのに、なぜ助けたんだ!」 医者は黙ったまま、尚も微笑を湛えている。彼女はかまわずに怒鳴り続けた。 「それに狙われている人間に背中を向けて寝るなどということが何故出来る! 警戒し、離れたところから監視するのが普通の反応だ。なのに何故、そんなことが出来る! そして……」 彼女はいつの間にか涙を流していた。自分のでも気がつかないうちに、感情の奔流を押さえられなくなっていた。 「……そして何故私は、こんなにも安心しているんだ……?」 涙が溢れて止まらなかった。 泣いている彼女に、医者はゆっくり近づいてきた。そして耳元でそっと囁いた。 「その理由なら知っている」 「……?」 「君は生きたいと願った。そして、その望みを私が叶えた。ただそれだけのことだ」 更に涙が溢れるのを、彼女は実感した。 そして何も考えないで感情の赴くままに、彼女は声を上げて泣いた。
数ヶ月が経って、彼女は元気に回復した。 誰もいない草原に、女性と医者の二人だけが向かい合って立っている。 「サヨナラ」 「ああ。もう会うこともないだろう」 「出来ることなら、いつかもう一度あなたに会いたい」 「それは出来ない相談だ。私と君の道はもう二度と交わることはない。少々名残惜しいけれどね」 医者はそう言うと、少し寂しそうな表情を浮かべた。対して女性は無表情だが、その瞳の奥には医者と同じ感情が見て取れた。 「私はこの道を生きていく。あなたがいくら人の命を助けようとも、私はそれと同じだけの人を殺し続ける」 「その生き方を否定はしない」 「医者は人を助けるだけ。その人生には一切係わらない。たとえその人がどんな人間であっても、生きたいと願う心を持つ人を治療する。それがあなたの考え」 「その通りだ。だから私は治療した。君には、私の治療によって延びた人生を生きていく義務がある」 「そう。私はこれからも生きていく。あなたにもらったこの命で……」 「そうだな」 医者は背を向けて、ゆっくりと歩き始めた。
次の瞬間、銃声が轟いた。医者の体はゆらりと揺れて、倒れた。 周りに人影はない。彼の側にいるのは彼女だけだ。 「…………」 彼女の手には銃が握られていた。銃口からは煙が出ている。 もう片方の手には、一枚の紙が握られていた。 依頼主と暗殺目標が同一人物であると、本人の手で書かれたものだった。
その視線の先には安心しきった彼が横たわっていた。 言葉を確かめるように、彼女はゆっくりと唇を動かした。 「……あなたは死にたいと願った。そして、その望みを私が叶えた。ただそれだけのこと」 彼女の微かな声は、風に流されて霧散した。
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