朝霧に包まれた街にゆっくりと日が差し始めた。朝露でひんやりとした城壁の上では夜警の兵が眠そうに目をこすり、交代の兵に引き継ぐ。夜の間はカエルや魚だけが泳ぐ水路にも小船が通い始め、人々の喧噪がひろがり始めた。 「おはよう。早起きだな」 庭にたたずむ少年は耳に心地いい凛とした声の主を振り返って見た。 「おなかすいちゃってさ。朝ご飯まだ?」 少年は屈託のない無邪気な返事を返した。 「まだだ。全く……居候のくせに遠慮なしか」 「ふふ、その居候にしたのは姉さんでしょ」 「頼むから姉さんはやめてくれ」 窓から顔をのぞかせていた女性は少し頬を赤らめて顔を引っ込めた。 それを見た少年はくすりと笑って、小さな体を背一杯伸ばして庭の空気を一杯吸った。 少年の立つ庭は五メートル四方の小さな庭である。柔らかな芝生が一面を覆い、角の方に少しだけの花と楓の木が一本植えられたさっぱりした庭である。しかし手入れは行き届いており、雑草や落ち葉は目立たない。この庭を管理する人をそのまま反映したようであった。 「お。いい香りがしてきた。そろそろできたみたいだ」 少年は家の中から漂ってきた香ばしい匂いを追うように中へ入っていった。 少年が食堂に行くとテーブルの上には、バターを塗りガーリックをまぶしてキツネ色に焼いたトーストと、ほんのりと湯気の立ち上るクリームスープ、水滴をはじく新鮮な野菜サラダが並べられていた。 「おいしそー」 少年は舌なめずりしながら椅子に座った。 「食べてもいいぞ」 先ほど窓から顔を出していた女性がそう言い終わらないうちに少年は食事に手をのばした。 彼女はキリア・ヴァンツ。歳は26と若いが一人では広すぎるこの家の主である。すらっと背が高く、整ったスタイルと顔もさることながら金髪と黒髪が混じった独特の髪が印象的だ。 「なぁ……そんなに慌てて食べなくても誰も取らないぞ」 「むぐ?」 顔を上げた少年の口からちょろっと緑の葉が飛び出ていた。 少年の名はユン。年齢は17だが、小柄な体と子供っぽさが抜けない顔から年齢より幼く見える。 「おかわり!」 あっという間にトースト、スープ、サラダと平らげたユンは控えていた女中に向かって元気よく言った。 「その小さな体にどれだけ入るんだ?」 「もぐもぐ、一杯食べないと強くなれないから――もぐもぐ」 「だろうね」 追加の皿もあっという間に平らげそうなユンをキリアはあきれた様子でながめていた。 「ふぅ、ごちそうさま」 全ての皿を空にしたユンは満足した様子で口を拭いていた。 「ユン。城へ行くのだが一緒にきてくれないか?」 食事を終えたユンを見てキリアは真剣な面持ちで言った。 「……どうしても?」 ユンはキリアを見ず、窓の外を見つめたままそっけない声で言った。 「あぁ。いつまでもお前をこうしては置けないのだ」 「そう。わかったよ。姉さんには恩があるからね」 そう言うとユンは顔をキリアに向け、口元を緩めた。 「頼むから、城で姉さんはやめてくれよ」 キリアもほっとしたように表情を緩めた。 「準備できたか?」 黒い軍服に着替えたキリアがユンの部屋をノックした。 178センチの高身長に黒の軍服は、きりっとしたキリアの顔立ちをより際立たせ、周りの空気まで引き締まるようだった。 「いいよ」 キリアの呼びかけが済んだのとほぼ同時にユンは出てきた。 ユンは茶色のズボンに黒のブーツ、白いシャツと茶色のベストを着ていた。正装らしいがユンの顔とはどこかずれていてしっくりしない。 「余り着心地良くない」 「少しの我慢だ。さあ行こう」 着慣れない服装にさせられて口をへの字にするユンは可愛らしく、キリアは自然とゆるんでくる口元を平静に保とうと必死だった。 「姉ちゃん」 「だからやめろって!」 笑いをこらえながら外に出ようとしたキリアだったが、後ろから投げられたユンの言葉に反射的に振り返った。 キリアはユンにくどくどと文句をいいながら歩いていた。キリアは姉さんと呼ばないようにといっているが、後ろから見た人は姉に怒られる弟にしか見えないだろう。
シグルート帝国帝都・オードレット。キリアの家もオードレット内にある。国土の大半が平地で、多数の河川が流れるシグルートでは昔から船が使われてきた。伴って運河や水路が発達してきた。 ここオードレットは港湾に近く、水運によって都市は成り立っている。帝都となってから水路が整備され、ますます都市は発展し人口は20万を越す。
「みんな忙しそうだな」 城まで続く舗装された街路に靴音を響かせながらユンはふと呟いた。 「そうか?これが普通だが……」 「ユアンではみんなゆったりだったよ」 今まで同じテンポで重なっていた靴音が一つだけになった。 「ユン?」 同じテンポが途切れたのでキリアも思わず足を止めた。 さっと二人の間に風が吹きぬけた。風に乗って街路樹から一枚の葉がひらひらと蝶のように舞い、力尽きて水路に落ちていった。 ユンはずっとその葉の行方を目で追っていた。葉は穏やかな水面をまるですべるように漂っていた。 しかし、穏やかな水面を割るように一艘の小船がやってきた。水面はあわただしく波立ち、水底から無数の手が漂う葉にまとわり付くようにして消えていった。そして水面は元の静けさを取り戻していった。 「水のようになれればな。どんな状況下に置かれても質を変えることなく対応している。なおかつ岩をも砕く力を秘めている……父上の言葉さ」 ユンは欄干にもたれ、ずっと遠くを見つめながら言った。表情をかえずに淡々と言うユンだったが、無邪気さが消え落ち着いた雰囲気が漂っていた。 キリアは何も言わずにユンの隣に立った。 「もっとも、水らしかったのは兄者だったけどね。僕は水には向いてないな」 目線をキリアに向けたユンは破顔して元の屈託のない無邪気な顔になった。 「どっちが本物のお前だ?」 キリアは神妙な顔でたずねた。 「さあね。それより行こう、姉さん」 「だからっ!――まぁ、いい」 またユンの言葉に反応して声を上げたキリアは、通行人が振り返ったのを見て言葉を引っ込めた。 あわただしく行き交う人々にまじって二人は王城への道を急いだ。
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