『あんた、ギターも弾けたんだ?』 「リュートの弦の数は色々あるからね。ルネッサンス・リュートなんかは6コースが標準だしね。ところでリトルは何が得意なんだい?」 『あ、あたし?』 「タルティーニは悪魔の弾くヴァイオリンを聞いて、あの曲を書き上げたんだろ? だったら何かリトルも弾いてくれるんじゃないのか?」 航の質問に意外にもリトルはオドオドしていた。 「まさか・・・弾けないとか・・・?」 『そ、そんな訳ないでしょ。あんたが曲作れるようになったら聞かせてあげるわよ』 何やら様子がおかしい気もしたが、それ以上深くは追求しなかった。
その夜、リトルの姿は航の部屋には無かった。 『あぁあ、なんで私が【屋根の上のヴァイオリン弾き】状態なのよ・・・』 ぼやきながらリトルが屋根の上で手にしていたのはヴァイオリンではなかった。 「何やってんだ?」 『な、何よ。明日も学校でしょ? 早く寝なさいよね』 「何よはないだろ? 心配して様子見に来てやったのにさ」 『に、人間に心配される悪魔なんて聞いたことないわよ』 それはそうだと思ったがリトルの手にしている楽器が気になった。 「それ、ハーディ・ガーディだろ?」 『え、ライエルじゃないの?』 「同じだよ。ライエルはハーディ・ガーディのドイツ名だから・・・って、知らないのか?」 『に、人間のつけた名前をいちいち覚えてらんないだけよ』 膨れっ面のリトルが航には可笑しくもあって、つい笑ってしまった。 『な、何よっ』 「ごめん、なんか人間らし・・・じゃない、人間みたいだなって」 それを聞いたリトルは更に膨れてしまった。 『も、もう私が曲聴かせていいって思えるくらい、早く作曲の腕上げなさいよ』 悪魔だから血の滲む、というようではなかったけれど指にはしっかりハンドルの跡がついていた。ハーディ・ガーディとは、やや自動的・機械的な楽器で、弦を大正琴のような鍵で押さ、弓ではなく輪のようなものをハンドルで廻して摩擦を起こして音を出す楽器だ。18世紀頃の貴族社会ではもてはやされたが大革命の後は民族楽器や旅楽士の楽器として知られている。 「意外と悪魔も努力してるんだな」 『何か言ったっ?』 「いや、別に」 そう言うと航は先に部屋に戻った。リトルも航に【悪魔のトリル】を越える曲を作らせるためにはタルティーニにヴァイオリンで曲を聴かせた悪魔を越えた曲を聴かせなければと思っていた。ただ、タルティーニは悪魔に聴かせてもらった曲を再現しきれなかったと言っているのでリトルがそこまで頑張る必要もないのかもしれないが。
「おはよ〜」 「おはよ」 莉音に声を掛けられて航は眠そうに返事をした。 「どうしたの? また調弦?」 悪戯っぽく莉音が聞く。そんな訳がないのは知っているし昨日、バイトで会った後にストリートでギターを弾いていることも実は知っていた。 「ま、そんなとこ」 見え透いた嘘なのだが、言いたくないということなのだろうと察して、それ以上は莉音も突っ込まなかった。 『まったく、嘘が下手なんだから』 そんなリトルの呆れ声は航にしか聞こえていないので、言い返すことも出来ない。ここで言い返していたら頭を疑われそうな気がしていた。 「おやおや、せっかく忠告したのに・・・」 「私の妹の心配とは御親切なことですね」 あえて引っ掛かるような言い方をした彩小路を止めたのは莉音の姉、奏だった。 「響くん、ごきげんよう。莉音、授業に遅れるといけないから、早くお行きなさい」 「うん、姉さん、またね」 『あらら、面白くなるとこだったのにな』 何が面白いのか航には判りかねるが、奏のお陰で助かったとは思った。
この日の放課後、航はリュートの練習を始めた。 「あれ、今日は調弦は?」 莉音も珍しいと思った。けれど、まさか悪魔が航の練習時間を増やす為に調弦してくれたなどとは言えなかった。 「音、合ってるだろ?」 「え、う、うん」 航が思うほどには莉音は自分の音感に自信を持っていなかった。奏ならば絶対音感もあるのだが。 「なぁ、小フーガって弾けるだろ? つきあってくれないか?」 「い、いいけど」 小フーガというのは、【ファンタジーとフーガ ト短調 BWV542】と比較して【フーガ ト短調BWV578】に付けられた愛称であり、反行、拡大、縮小などのない単純フーガでもある。航が主題を弾き始めると莉音がヴァイオリンで遁走演奏を始めた。 『ふぅ〜ん、結構、息ピッタリなんだねぇ』 ややリトルは複雑な気分で二人の演奏を聞いていた。 「相変わらず、息ピッタリだね」 リトルと同じ感想を言葉にした者が居た。 「セロリか。この時間に残ってるなんて珍しいな」 航の言葉に少々セロリと呼ばれた男はムッとした。 「チェロ奏者の李だ。妙な略し方は辞めてもらえないか」 そう言いながら視線は莉音を意識しているようだった。 『おやおや、恋敵かな?』 ちゃかしても無視されるのは面白くないが仕方なくもある。航から曲作りの環境が無くなるのはリトルとしても困るのだから。 「李くん、今日はレッスンはいいの?」 「ぼ、僕も毎日レッスンばかりはしていませんから」 少々緊張しているのが航も可笑しいのだがリトルと違って聞こえてしまうので声を出して笑う訳にはいかなかった。 「彩園寺さん、偶には僕とに、二重奏でも如何ですか?」 「遠慮しておくね」 莉音は即答した。あまりに早かったのでリトルは大笑いだ。 「で、でもハイドンやバッハなどヴァイオリンとチェロの為の曲は数々の名曲がありますが・・・」 「バッハだってヴァイオリンとリュートの組曲はあるし、ビバルディの【四季】をバロックヴァイオリンとリュートで演奏したオーケストラもあるよ」 確かに、その為の作品数でいえばチェロとの組み合わせの方が多いかもしれないが、音楽はその楽器でなければ奏でられないというものでもない。バッハの【G線上のアリア】とて管弦楽組曲三番の【エール】を19世紀後半にアウグスト・ヴィルヘルミがニ長調からハ長調に移調させるとヴァイオリンのG線のみで演奏可能なことに気づき、ヴァイオリン独奏用に編曲したことから、そう呼ばれるようなった。今では二長調のままでも【G線上のアリア】と呼んで演奏されていることもある。 「そ、そうですね。それじゃまた」 李は足早に立ち去った。 「あんまり無碍にしても可哀想じゃないか?」 「変に期待持たせるより、これでいいの」 航の同情すら莉音は流してしまった。リトルからすれば、これすら可笑しくもあった。
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