リュートという楽器がある。18世紀中頃までは西洋音楽でもっとも重要な独奏・伴奏楽器の一つだった撥弦楽器(弦をはじいて音をだす楽器)だ。鍵盤楽器が発達する前は特に重要だったが、音色・強弱の大胆な変化をもっているので尊重されていた。 「航、また調弦? マンドリンとかギターとか、もっと楽に調律出来る楽器あるじゃない?」 響 航はこの調律の難しいリュートの奏者を目指していた。19世紀には殆ど使用されることもなくなっていた楽器だが、昨今古楽への関心と共に奏者も増えている。 「なんだ莉音、まだ居たんだ?」 航の同級生であり幼馴染でもある彩園寺 莉音は天才ヴァイオリニスト彩園寺 奏を姉にもつお嬢様なのだが本人には気取ったところもなく航にも気軽に声を掛けてくる。 「まだ居たはないでしょぉ? 代わりに掃除しといたからね」 「お、サンキュ〜」 航も莉音がお嬢様だということをあまり気にしていない。それが莉音が航と気の合う部分でもあった。 「じゃ帰るけど、あんまり遅くならないようにネ」 『まるで奥さんだねぇ』 「だろ・・・えっ?!」 部室には航しか居ないハズだった。辺りを見回すと窓辺にあきらかに制服とは違う服装の少女が立っていた。 「誰だ? っていうか、何してる?」 『あ、見えるの? ラッキー♪』 見えるも何も、航の目の前に立ているのだから不思議なことを言う少女だと航は思った。 『あたし、こう見えても悪魔なんだけどなぁ。もう少し怖がるとかない?』 怖がるも何も、ちょっとゴスロリ入った服装の少女が立っているだけで怖いところなど無かった。 「いや、別に・・・」 『別にって・・・ふぅ。ま、いいや。それより、あんた今時珍しい楽器弾いてるね?』 航のリュートをマジマジと見つめてそう言った。 「え、そうかな? 最近じゃまた見直されてるんだけど・・・」 『ちょっと貸してw』 航の手からリュートを取り上げると、いきなり調律を始めた。 「おいおい・・・リュートの調律ってのは人生の2/3は掛かるって言われるくらい・・・」 『ほい、出けた♪』 「えっ?!」 リュートを受け取ると航は弦を弾いて驚いた。 「あ・・・合ってる・・・」 『人間の人生の2/3なんて悪魔にとっちゃ一瞬の時間だもん。それに人間って人生の1/3は寝てるって言うじゃん。そんなに時間掛けて他のことはいつやってのさ?』 「確かに・・・」 二人は顔を見合わせて笑っていた。 『何か弾いてよ』 「O.K.」 航は一曲の古いリュート曲を弾きだした。 『Il bianco fiore・・・白い花だね』 「16世紀頃に作られた作者不明の曲だけど、素朴ないい曲だと思うんだ。よく知ってるね」 『そりゃ、その曲の生まれる前から生きてるからねぇ』 「その・・・無茶な設定を受け入れないと拙いかな?」 まるで、どこかのロックバンドのようなノリだなと思いながら航は苦笑していた。しかし、そんな航の様子が少女には面白くない。 『あんた、このリトルちゃんの言うことを信じてないなっ!』 「悪魔のリトル? なんか悪魔のトリルみたいだな」 その言葉を聞いた途端、リトルの目の色が変わった。 『そうよ、悪魔のリトルよ。悪魔のトリルじゃないのよっ!』 「な、なんだ急に?」 どうやら、何かありげだった。 『あなた、演奏家なんだからトリルって判るわよね?』 「音符と隣接音を交互に細かく演奏するっていう装飾音だけど・・・」 航は怪訝そうに答えた。 『そう、それだけにヴァイオリンじゃ難しくって【悪魔のトリル】は難曲と言われてるわ』 その話は航も知っていた。作曲者であるタルティーニの左手は指が6本あったという説話があるほどである。 「でも、あの話って新しい曲想でダブルストップやトリルなんかが多用されていたから、時代の音楽と違いすぎるんで、人々を納得させようとした作り話だろ?」 確かにタルティーニは晩年は作曲に専念していたようだが奏者としても名手であったという。それでも指が6本はないだろうと誰もが思う。漫画や浮世絵でも見かけるし実際、稀に多指で生まれてくる人もいるそうだが、あまり便利だという話は聞いたことがなかった。 『確かに人間の・・・バロックとか言ったっけ? あの時代にはズレてたかもしんないけどさ。悪魔が曲を聞かせたってのはホントだよ』 「は?」 俄かには信じ難い。というかリトルが悪魔だと名乗っていること自体、航には信じられなかった。 『あ゛〜何で人間ってのは疑り深くなったのかなぁ。この悪魔のあたしが言ってるんだから間違いないって』 「まぁ、いいや。で、その悪魔さんが何しに来たの?」 『あんた、信じてないでしょ。絶〜っ対に信じてないでしょっ?!』 確かに信じてはいなかったが、あまりに大真面目なリトルを見ていると、ハッキリ信じていないとは言い難かった。 『ともかく、あんたと私で【悪魔のトリル】を越える曲を作るのよ』 「な、なんで?」 いきなりな話の展開に航は驚いた。 『何しに来たって聞いたのは、あんたでしょ?』 「だから、どうして、それが僕と曲作りになるんだ? 僕は演奏家を目指してはいるけど作曲家になるつもりはないっ」 『そんなぁ〜』 リトルは半べそで座り込んだ。さっきまでの態度とは、まるで反対だ。 「今度は泣き落としか? 悪魔の涙なんか信じられるかよ」 『悪魔だってことすら信じてないくせにっ』 「あぁ、信じちゃいないさ。曲作りなんて真似をする気も無いっ」 『あぁ〜あ、折角あたしが見える音楽家を見つけたってのに始末しなきゃいけないなんて残念だなぁ』 「ちょっと待てっ 始末ってどういう意味だっ」 『あんたに与えられた選択権は曲を作るか、あたしに始末されるかだけなんだよ』 なぜか再びリトルが半べそな顔になった・・・ように航には見えた。 「鬼の目ならぬ悪魔の目に涙か。英語じゃ鬼も悪魔も大差ないけど・・・。君にどんな能力があるのか知らないけれど殺されるってのは御免だしね」 『じゃぁ一緒に曲作りしてくれるの?』 さっきまでの半べそが嘘のような満面の笑顔だ。悪魔の笑顔など普通ゾッとしそうなものだがリトルの笑顔に何故か航はホッとしていた。 「その代わり、今の僕にスグに【悪魔のトリル】を越える曲ってのは無理だよ。どのくらい猶予をくれる?」 『安心して。人間の人生なんてあたしら悪魔からすれば一瞬だもの。生きてるうちに作ってくれればいいわ』 気の長い話だ・・・人間にとっては。だが、これで曲を作り上げるまでリトルに解放してもらえそうにはない。まだ、本当に航にしか見えないのかも確認はしていないけれど。 『じゃ、契約成立ね。あたしを呼ぶ時はリトルでいいわ』 「僕は響 航・・・航でいいよ」 『じゃぁ航、これからヨロシクね』 「よ、よろしく・・・」 二人はしっかりと握手を交わした。 「冷たっ」 『そりゃ、血が流れてる訳じゃないからねぇ』 そう言って微笑む顔は普通の少女にしか見えないのだけれど。
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