ガチャリ。 ドアが開けられる。同時に響いたのは無機質な音。それが、すぐ真横からの音だということに気付くまでに、俺は数秒を要していた。何故かって? 理由なんて幾らでもある。考えれば考えるほど出てくる。だから考えたくない。 「あ、待っててくれたんだ。いつもありがとう」 俯いている俺にかけられる、優しい声。聞き飽きるほどに聞いてきたけど、飽きることはない。姉ちゃんの、いつもの声だ。その方向を首だけで見やると、いつもの笑顔で姉ちゃんは車椅子に乗っていた。ちょっと汚れの目立つ車輪を自分で回しながら、やつれた顔でこっちを見ている。帰ったら、車椅子を磨いてやろうと思った。 「もう診察終わったのか?」 「うん、なんか今日は早くて、私も拍子抜けしちゃった」 例えば小学生なんかは、入学してから暫くすると、その小学校の空気に“似合う”雰囲気を持つようになる。世間の会社とかでも同じで、入社してから暫くすると、その人はその会社が持つ雰囲気に“似合う”ようになる。だから職種なんて聞いたときに「あぁ、そんな雰囲気ですよね」となるわけだ。 姉ちゃんは、もう随分と病院に似合う人になっていた。 すっかり細くなってしまった腕で車輪を転がしながら、俺の前まで来る。普通痩せ細った人が病院に来ると、ちゃんと食事は摂ってますか? なんて訊かれるけど、姉ちゃんはそんなこと言われない。 「今日の晩飯、俺が作るから、期待しとけよ」 全部食べてよ、とは言えなかった。 「ほほう、えらく自信満々じゃない? ま、騙されたと思って食べてあげるわ」 笑ってくれる姉ちゃん。嬉しい笑顔だ。だからこそ、その奥に以前のような生命の力強さが感じられないのが、残酷で仕方がない。 車椅子を押してやろうと長椅子を立って、後方に回り込んだ時、姉ちゃんがたった今出てきた診察室に、次の人が呼ばれて入っていく。足取りもおぼつかない老人だったけど、それでも自分で歩いていた。 なるべく見せまいとして、なるべく急いで、でも出来るだけ姉ちゃんに負担はかけないように、俺は車椅子を強めに押す。この車椅子の事は良く知っているから、どれぐらい力を込めればどれほど動くのかも、しっかりと熟知しているつもりだ。そして予想通りの力で動き出すことに半ば感謝などしながら、俺は廊下を進める。壁に掛けられたフクロウの時計を見やると、もう五時を回っていた。夕飯を作るのなら、少し急がねばならない。 「いや本当に悪いね。あれ、学校は? 結構早めに帰ってきたんでしょ?」 午後からサボった。なんて、心配性の姉ちゃんに言えるわけもなかった。 「今日六限授業だったから、ダチに荷物預けて、すっとんできた」 「はは、それはありがたい。感謝感謝……あれ? 中国語だと謝謝、でいいんだよね?」 「いやだからなんだよ」 「いやいや、なんとなく」 笑い声を漏らす姉ちゃんにつられて、俺もつい笑ってしまう。そんなに大きな笑いじゃなかったから、周囲の迷惑にはなっていないと思う。そして会計前の待ち合い所まで来ると、俺は姉ちゃんをなるべくテレビに近い場所に落ち着けて、その横の長椅子に腰掛けた。窓の外の、昼間は快晴だった天気も、もはや衰えてオレンジ色に変わりつつある。 「そういえばさ、あんた部活辞めたんだって?」 唐突に聞こえた、姉ちゃんの声。その意味を理解するまで、俺はまた暫くかかった。少しだけ遅れる形で、返答する。 「……あ、だって、もう来年受験だろ? どうせ夏が終わったら辞めちまうんだし。勉強するつもりなら、早くに見切りつけた方がいいかなって」 それを受けた姉ちゃんの表情は、呆れたと言わんばかりだった。 「あのねぇ、あんたサッカーの才能あるんだから、やれるとこまでやり通してみなさいよ。顔が良くてサッカーできるなんて、女の子大騒ぎな要素二つも持ってんだから、才能有るならそれを活かしなさいって」 そう、天は気紛れに二物すら人に与える。良い意味でも、悪い意味でも。俺が前者なのかどうかはこの際どうでもいい。 「いーい? 高校生なんだからもっと青春エンジョイしなきゃダメよ。可愛い子いるんでしょ? 勉強なんて後でいいから恋しなさい恋。いやもう夢中になれることならなんでもいいわ」 そうだな、そうだけど、夢中になっていることならもうあるんだよ。と、俺は胸中で返答する。声に出す勇気は、幸か不幸か、無かった。 確かに教室を見渡せば、可愛い子なんて幾らでもいる。サッカーの部活中だって、声援を飛ばしてくれるマネージャーから部員目当ての後輩まで、付き合おうとすれば付き合える子なんてたくさん居た。 でもな、そんな中に、転んで泣いて帰った俺の頭を撫でてくれたり、台風が来て怖かった夜に一緒に寝てくれたり、部活での下らない武勇伝をずっと笑顔で聞いてくれたり、俺が練習し始めた拙い料理を美味しい美味しいって、無理して弱った胃に詰め込んでくれるような馬鹿は、どこ探してもいないんだよ。 自分の脚は動かないくせに、強がって人の怪我心配できるような人間はさ、いなかったよ。でさ、今度は癌だろ? 笑っちまうよな。人に気遣う前に自分の心配してろっての。本当、天は二物を与えずってのは嘘だよな。こんな言葉考えたのどこのどいつだよ。 ――――さん ――――さん 会計から、姉ちゃんの名前が呼ばれる。この名前を、この待ち合い所に居る何人が気に留めただろうか。この名前を持った人間の事を、ほんの少しでも考えてくれただろうか。 「お、呼ばれた。ほら、何してんのよ助手。さっさと押す」 明るく振舞う姉ちゃんは、やっぱり笑顔。それを見る度に泣き喚きたくなる俺の気持ちを、少しぐらい察してくれてもいいんじゃないか。 なぁ姉ちゃん、俺アンタが大好きだよ。 だからさ、まだ、死なないでくれな。 なぁ神様、俺サッカー辞めたよ。こんな才能いらねぇよ。だから、姉ちゃんの悪いところ、一個でもとってくれよ。 半ば祈るように、半ば望むように、俺はゆっくりと車椅子を押す。そうすることで時間が遅く進むことなんてなかったが、それでも、そうなることを願っていた。でも知ってるんだ。神様なんていないってことぐらい。 会計では、事務員のおばさんが、やわらかい顔で「お大事に」と言ってくる。もう見慣れた顔だから、姉ちゃんの病気の状態ぐらい知ってるだろう。お大事にしたところで治るものではないと、知っているだろうに。どうせアンタも、何年も経ったあとは、姉ちゃんのことなんて忘れてるんだろ。 いつもの薬をもらった後、俺は姉ちゃんに囁きかける。 「帰ったら、何する? 何か、俺にできることあるか?」 「おいおい少年、あんたは料理作るんでしょうが」 俺の言葉を訂正してくる。良かった。憶えてくれている。 ここから家まで近いとは言えども、やはり姉ちゃんを疲れさせないには無理のある距離だ。というわけで、いつもの例に漏れず車椅子可のタクシーに乗って帰ることにする。 「なぁ」 「ん、何?」 「何、食べたい?」 姉ちゃんは少し黙り込んだ。大袈裟にうーんなんて唸って、自分の嗜好を詮索している。まぁ本当は今更訊くまでもなかったんだけどな。 どうせ、ハンバーグだろ。 「じゃ、ハンバーグ!」 姉ちゃんは、俺がこれを最近練習し始めたことを知っている。また気を遣わせてしまったかもしれなかったが、俺はとても嬉しかった。 「はりきって作るから、全部食ってくれよ」 俺が言うと。 「まっかせなさい」 姉ちゃんは笑う。当たり前のやりとり。 これが後一年足らずで終わるものだと思うと、どうだろう。悲しいのかな。 来月には本格的に入院。それからいろんな手術や強めの薬の投与を経ながら、姉ちゃんは段々と終わりに近づいていく。強いステロイド系の薬は髪が抜けると聞いたら、最悪ー! と、やっぱり笑い混じりで言っていた。 俺はハンバーグに添える具材を考えながら、姉ちゃんを押して、歩いた。泣きたかったけど、もう泣くのにも飽きていた。 「姉ちゃん」 「ん?」 「ありがとな」 まだ、生きていてくれて。 「はは、変なこと言うねぇ、まぁ、どういたしまして」 姉ちゃんは暫く笑って、ふと思いついたような顔になる。 「あ、そうだ。あんたに頼みたいことあったわ」 「何? 何でも言ってくれよ」 そこで一呼吸が置かれる。 「できるだけさ、憶えといて」 「え、何を?」 俺が疑問符を浮かべると、姉ちゃんは言った。 「私のことを、さ」 意味がありすぎる言葉で、逆に俺は理解できなかった。 「りょーかい」 でも、俺は頷いていた。 「よし、おなか空いたし、さっさと家帰ろうか」 「うん、運転手の人に、飛ばしてくれるように言おうか」 「こらこら、そこは安全運転優先でしょうが」 そうやって、俺と姉ちゃんは、やっぱり笑いながら家路についた。
なぁ姉ちゃん ん? 何だねワトソン君 姉ちゃんの手って、あったかいな ぷ、なぁに言ってんのよ、当たり前でしょうが ――生きてるんだから。
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