讃良亮介の仕事部屋は、鑑識課員が引き上げて静かな時間が流れていた。事件当時の痕跡がそのまま残っており、そこにあるはずの遺体だけが消えていた。捜査一課が改めて現場検証を行うため、そのままにしておくという。 現場の検分は機捜の仕事だ。望月壮太郎は、そう自負している。捜査一課は機動捜査隊の初動捜査に基づき、捜査本部設置して本格的な捜査をする。それが分業というものではないか。 捜査一課が現場検証するのは決して珍しいことではない。所轄署の刑事課長が重大事件と認定した場合、直ちに捜査一課が特別捜査本部の設置に取り掛かる。その際は捜査一課の捜査員が現場に駆け付けることもあるし、時には検事が立ち会うことだってある。 しかし、この事件は凶悪犯罪であるとは考えにくい。ニュースソースとしてはセンセーショナルを醸し、世間的にも話題となる事件であろう。彼らの狙いは、その一点に限られている。今までに何度も苦汁を舐めさせられてきた望月壮太郎は、その度に機動捜査隊の存在意義というものを否定された気がしてならない。機動捜査隊の職務は重大事件の犯人を現行犯的に逮捕するだけではないが、彼らが重要視する面子を、機捜は彼らによって潰されているのも確かだ。
時間がないことを思い出し、気を取り直して現場の再検証に取り掛かった。 まずは鍵が掛けられていた扉を調べた。鍵といっても簡易式のもので、レバーを下ろせば施錠され、上げると解錠される。レバーの上側だけに血糊のついた指紋がある。扉は辻田義人が扉を蹴破った際に壊れてしまい、実験することは出来ないが、恐らく被害者の讃良亮介自身が扉を施錠したのだろう。 自ら犯行現場を密室状態にした――。 それは、犯人の侵入を防ぎ、自らの死後、ダイイングメッセージを隠蔽されないようにするためだろう。 しかし被害者が犯人に殴られた瞬間、とどめを刺そうとする犯人を押し退けて扉を閉め、更に鍵をかける。そんなことが出来るのだろうか。 この屋敷の扉には、欄間窓がない。扉の鍵も外側から掛けられない。犯人は窓から逃げ出し、糸を使って扉を閉める……。 そんな馬鹿な、と思いつつ望月壮太郎は窓を確かめた。当然、鍵は掛かっているし、もし窓を開けたとしてもセキュリティのセンサーが作動するはずだ。となると結論は――。
被害者・讃良亮介は自ら密室状態をつくり、ダイイング・メッセージを書き残したということだ。
机を調べてみることにした。讃良亮介の手には、べっとりと血糊がついていた。抽斗の中は血で汚れておらず、襲撃後に手をつけられた痕跡はない。 屈み込んでいた望月壮太郎の視線が、机の上の異変を捉えた。射し込む日光と、水平になった視線が机の上のわずかな盛り上がりを発見したのだ。 机の色と一体化して気が付かなかったが、それは確かに血痕だった。 讃良は机の上で何をしたんだ――? 血痕を見つめる望月壮太郎の視線の先にあるのは、大きなゴミ箱だった。気になって中身を物色してみた。すると、机の上から落ちたと見られる本の下に、血で汚れた紙屑が5枚捨てられていた。 破れないように、慎重に紙の皺を伸ばした。中には、大きく「31」という数字が描かれていた。壁に掛けられていた日めくりカレンダーだ。他の3つの紙屑も、同じく丸められた日めくりカレンダーである。それは、8月30日から9月3日まで連続している。 壁に目をやった。9月4日。カレンダーには上部に「Sep.」と9月を示し、その下に大きく「4」という数字が示されていた。なぜ殴られた後に、カレンダーをめくらなければならなかったのだ。血を拭いたかったのか。でもそれは服で拭えばいいじゃないか。それに、拭ったにしてはめくられたカレンダーがそれほど汚れていない。 望月壮太郎の中に、閃きが駆け回った。望月壮太郎が日めくりカレンダーを使っていたのは、沢山の数字を見たくないからだ。文字盤のない時計。必要最低限の調度品しか置かれていない殺風景な仕事部屋。それは、限りなくこの部屋から数字を排除しようとしたかったのではないか。 死の間際、讃良亮介は数字を書き残した。一つは小説のタイトルを示した数字。そして、それとは別の何かを示す数字。同じ紙に書いては前者と後者が混同されてしまう可能性がある、とは考えられないか。
――讃良亮介は、カレンダーを使って数字を伝えたということか。
ゴミ箱の中にもう一冊、本が落ちていた。いや、これは血の付いたカレンダーの下にあったのだから、被害者が襲われる前からここにあったので、捨てられたというのが正しいか。 『天国の航路』と名付けられたソフトカバーの単行本だった。中を開くと、堅いタイトルとは裏腹に、会話文ばかりで文字が大きく、余白の目立つ作品だった。作者を見ると寺元譲とある。 使えない無冠の作家。 確かにその通りかもしれない。しかし、作家を育てるのも編集者の仕事ではないのか。即戦力ばかりを求める商業主義にばかり走っていたら、次世代の萌芽も枯れてしまう。 望月壮太郎の脳裡に、捜一のジジイどもと辻田義人をはじめとする見たことのない編集者の顔が浮かんだ。
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